rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

書評 ミシマの警告

2016-01-20 00:09:14 | 書評

書評 ミシマの警告 保守を偽装するB層の害毒 適菜 収著 講談社+α文庫2015年刊

 

早稲田大学でニーチェを専攻した哲学者の適菜収氏が市ヶ谷の自衛隊司令部で自刃した文学者三島由紀夫の思想を紹介しつつ、真の保守とは何かを解説し、一方で保守を自任しながら日本のためになっておらず、日本を破壊するB層保守の姿を舌鋒鋭く批判した著作です。私は三島由紀夫は「楯の会」などで制服にみを包んだ危ない同性愛的な右翼で、自衛隊員に決起を促して自刃した経緯(たまたま家で風邪をひいて休んでいた時にテレビで中継を見た記憶があります)からあまり深入りしたくない存在と誤解し、思い込んでいたのが正直な所です。若い頃読んだ三島由紀夫の随筆に「桃色の定義」というのがあって、自由がない裸身はエロス(桃色)だ、という説明はなるほどと思った事があります。

 

今回本書で紹介された多くの三島由紀夫の思想に触れて、氏の信奉する保守本流というのが戦前回帰や軍国主義といった皮層なものではなく、私が度々紹介している「理性で社会を決定づけるのが革新であり左翼」「理性に懐疑的で、習慣や古くからの文化で社会を決定づけるのが保守」という定義に忠実であったという事実に氏に対する認識を新たにする思いがありました。

 

私は人をA層とかB層とか決めつけ、批判しやすいステレオタイプの型にはめて評価するのはあまり好きではありません。人間全ての分野において深い思索と独自の判断力において物事を判断することなど不可能だからです。政治の分野でよく使われるB層とかC層という色分けは2005年の小泉郵政選挙において自民党が「郵政民営化・合意形成コミュニケーション戦略案」を広告会社に作らせた企画書に出てくる概念として有名になりました。国民をABCDの各層に分類して、「構造改革に肯定的でかつIQが低い(自分で事の全悪を深く思索せずにテレビ・マスメディアや政府が言った事を鵜呑みにする低レベルの人達)国民」としてB層という概念を儲け、最も日本国民に多い層として劇場型の政治を行えば支持が得られる「構造改革に賛成か反対か」といった単純なフレーズを繰り返す事で支持を得る戦略を取り、結果的に思惑通り大勝利を収めました。そういった事実からはB層をターゲットにした政治戦略というのは特に日本のような国家においては有効なのだなと確かに思います。

私のまわりには集団的自衛権に賛成する人が多いし、アベノミクスを有効だと思っている人、TPPが危険だと感じない人、世界で起こっている事態において、米国は善でロシア・中国は悪だと信じている人が多いのが現実です。しかしどうして?と聴くと新聞やテレビでのワンフレーズ的な解説以上の説明ができる人はいません(日常生活で込み入った政治的議論などしないのが普通ではありますが)。こういったものに疑問を感ずることなくメディアや政府の言う事をそのまま信じてしまう人がB層とくくられて、メディア戦略の通りの考えを持つようにしむけられるのでしょう。もっとも集団的自衛権の法案に反対して、SEALSの集会に集まっていた学生達も面倒な長演説よりもワンフレーズの掛け声によく反応したという点では何となくB層的で似ていると思いましたが(それでもじっくり話してみると違う反応だったかもしれませんが)。

 

本書で指摘されていた、「共産主義、自由平等主義、資本主義、グローバリズム、一神教といったものは理性を社会規範の元に据えているという意味で左翼的、革新的であり保守ではない」という主張に私も同感です。小泉郵政改革、安倍政権、橋下大阪都構想といったものは日本を破壊する革命思想であるという批判にも賛成です。本書の終わりの方でニーチェの思想を紹介した部分があるのですが、ニーチェが「神は死んだ」と言った意味は宗教一般を否定したのではないと説明されています。ニーチェはキリスト教の根底にある「反人間的なもの」を批判したのであって民族の神までも否定したのではない、むしろ個々の民族が古来伝えて来た民族の神をキリスト教などの一神教がその全てを否定し去り、教義という理性の押しつけによって民族の神を殺したことを批判しているのであるという件は納得できるものです。

 

プロテスタンティズムの倫理に基づく資本主義が否定され、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教が消滅してそれぞれの民族が古来伝えられて来た神を信奉する社会が再現すれば、現在の紛争の多くは解決に向かうかも知れません。

 

今年夏の参議院選挙は既に衆参同時選挙の噂が出ています。衆参同時選挙というのは参議院廃止と同じ思想です。衆議院と参議院、別々の党に投票する人は殆どいないでしょう。だから結局衆参同様な党派割りになって全ての法案が与党の案通りに通る、一院制議会と同じになるということです。こんなバカな話はありません。一院制議会の暴走という苦い経験から欧米の民主国家は二院制という面倒な手続きを歴史的に作って来たのです。参議院不要論、衆参同時戦に意義を唱えないメディア、人達というのは使いたくありませんが、「B層」ということです。為政者から「なんて使いやすい人達」とバカにされていることに気がつかなくてはいけません。これもこの本にはっきりと書いてあり、同感と思いました。

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書評 市民ホスピスへの道

2016-01-17 14:02:55 | 書評

書評 市民ホスピスへの道  山崎章郎、二の坂保喜、米沢 慧 著 春秋社 2015年刊

日本におけるホスピスのあり方について、実践を通して進めてきた医師である山崎章郎氏と二の坂保喜氏、そして高齢者や終末期医療のあり方について研究を進めておられる評論家の米沢慧氏のそれぞれの著作と対談形式でのまとめを示した8部構成になっています。

 

前半は「いのちを受け止める町」と題して、米沢氏の項では長寿高齢社会において、痴呆を含めた高齢者が自由に有意義に過ごせる「場所」をいかに工夫するかが各地における試みとともに解説されています。前回紹介した「宅老所」の話も出てきます。山崎氏の項ではホスピスを25年運営して終末期医療にかかわってきた中で今話題となっている「スピリチュアルペイン」「スピリチュアリティ」にどう向き合うか、そもそもスピリチュアリティとは何なのかを氏の経験と考察を元に解説されています。二の坂氏の項では「医療は在宅へ」という日本および世界の流れにおいて、ホスピスケアを在宅において行うモデルをインド、バングラディシュにおけるコミュニティを中心にしたケアから学ぶことについて解説されています。

 

それぞれについて、普段このような問題に関心がある人にとっては示唆に富む深い内容を持った物と思います。本当は身近な問題になりつつある終末期医療や高齢者の介護の問題も、自分の問題として直面してみないとこれらの話題についてゆくのは困難かもしれず、一般受けする内容の本ではないのはしかたありません。

 

私はこの本を読んでホスピスや高齢者医療についての思索が「技術的或いは制度的」な医療や介護の視点から「生き方や死生観」といったより深い視点に進化してきているように感じました。終末期医療を考える上では生き方や日本人独特の死生観といったものを抜きにして語ることは現実的に不可能であることは日々の臨床の上でも感じることであり、今までのブログで取り上げてきたとおりです。この前半の内容では特に山崎氏が解説するスピリチュアリティについて学ぶところが多いと思いました。一部紹介しますと、

 

人間の苦痛を構成する4つの要素にはキューブラー・ロスが提唱したように

1) 身体的苦痛

2) 社会的苦痛

3) 精神・心理的苦痛

4) スピリチュアルペイン

 

の4つがあるとされています。肉体的苦痛は身体的苦痛であるし、病気によって社会生活から途絶してしまうのは社会的苦痛になります。そして将来への不安や希望の喪失は精神的苦痛といえます。ではスピリチュアルペインとは何か、いままであまり語られていない、或いは良くわからないとされてきました。

しかしWHOの健康の定義にもスピリチュアルに健康であることを入れようという動き(否決されましたが)があったように、世界においてスピリチュアリティは人類が生きてゆくうえで重要な要素になりつつあるのです。

 

スピリチュアルペインとは「看護に生かすスピリチュアルケアの手引き」という本によると

・人生の意味・目的の喪失

・衰弱による活動能力の低下や依存の増大

・自己や人生に対するコントロール感の喪失や不確実性

・家族や周囲への負担

・運命に対する不合理や不公平感

・自己や人生に対する満足感や平安の喪失

・過去の出来事に対する後悔、恥、罪の意識

・孤独、希望のなさ、あるいは死への不安

 

と紹介されています。なんとなくまだ具体的に判りにくいです。所詮英語で表現された抽象的な精神の表現を日本語で適確に示すことに無理があるだろうと言うのが私の意見です。しかし人間である以上喜怒哀楽や生き甲斐についての基本的構成は万国共通であり、「日本ではこのように取り組んでいる」という世界への情報発信も必要であることは確かです。

 

山崎氏はスピリチュアリティについての論考のまとめとして

「スピリチュアリティとは人生の危機的状況のなかでも人間らしく、自分らしく生きるために自分の外の大きなものに拠り所を求めたり、内省を深めることでその状況における、自己の在りようを肯定しようとする力のことである」とし、「スピリチュアルペインとは、スピリチュアリティが適切に力を発揮できなかった結果出現するその状況における自己の在りようを肯定することができない状態から生ずる苦痛であり、人間らしく、自分らしく生きることができない状態からくる苦痛である」と定義しています。

 

これはかなり判りやすいかもしれません。氏は「人間の存在」を構成するのはスピリチュアリティを中心に身体、社会、精神心理がそれを取り囲むようにオーバーラップしながら存在する3重円のようなものであると解説しています。

ここで私は人間存在についての仏教の定義と重なることに気がつきました。前のブログで紹介したように人間の存在は五蘊の集まり、つまり色・受(身体と感覚)、行(行動としての外界への働きかけ)、想(精神・心理)、識(阿頼耶識、価値観)によって形成されるという中で、スピリチュアリティとは正に「識」に相当する部分ではないかということです。

人間を見極めるには論語で言われるように、「その人の行動を見て何を考えているかを見て何に満足するかを見れば良い」というその満足の基になる部分が「識」なのですが、「識」のない人間はある意味魂が抜けた機械のような存在と言えますし、「識」を遮断した生活を強いられれば単に生きているだけの意味のない人生になるでしょう。スピリチュアリティとはこの「識」のことではないかというのがrakitarouとしての解釈です。

 

後半は「ホスピスは運動である」と題されて、二の坂氏は小児ホスピスのあり方から重度障害児施設の経験、英国での小児ホスピスのありかたなどから、ホスピスを特別な隔離場所でなく地域の一部、日常生活の一部にいかになってゆくかの論考をしています。山崎氏は厚労省が進める地域包括ケアシステムと在宅ホスピスをどう整合するかという視点で論考を進めます。そして米沢氏は「市民ホスピスへの道」と題していままでのホスピスの歴史を踏まえた今後の生活に溶け込んだホスピスのあり方について提言をします。

 

「ホスピスは運動である」というフレーズはやや捕らえどころがないように感ずるかも知れません。何か政治的、流行的なムーヴメントとしての「運動」ととらえると敷居が高いもののように感ずるかも知れません。「ホスピスは運動」というフレーズを用いたのは最初に日本にホスピスを紹介した岡村昭彦氏ですが、私はもう少し平易に言うとホスピスとは施設や制度のことではなく「道」つまり柔道や華道、書道といった「行いに精神的なあり方」を含んだ「道」としてとらえるべきだという意味ではないかと思います。つまり「ホスピス道」としてそのあり方を検討してゆく物ではないかという事です。ただし伝統的な確立された「道」というものではないので、師範や経典、免許皆伝といったものもなく試行錯誤の中で今後最も望ましい形を皆で確立してゆくというものではないかと考えます。ホスピスは運動、「ホスピス道」としてそのあり方を考える、そう捕らえると本書の題名「市民ホスピスへの道」という意味がすんなりと理解できるように思いました。

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Joey Alexanderはすごい!

2016-01-13 01:12:00 | 音楽

今日は雑駁で思いつきの音楽の話で、興味のない人にはつまらないと思います。題名ですが、若い人ならば、すごいではなく「やばい」と言う言葉を使うかもしれません。暮れから正月にかけて私が少しゆっくり過ごす事ができた中で、早朝のFMラジオ番組や、インターネットのWyoming radioのChristian McBride(Dream of youとかI Guess I’ll have to forgetなどの美しい曲を書く私の好きなベーシスト)の番組で紹介されていた、今年のグラミー賞候補になっているという弱冠11歳のインドネシア出身のジャズピアニストJoey Alexander君の話です。私は今回初めて知ったのですが、2年くらい前から一部で話題になっていた少年のようです。当然ピアノが単に上手いというレベルではなく、you tubeでも多数挙げられていますが、既にグループを率いてコンサートを開くレベル、しかも十分にジャズ好きの「うるさ方」達を堪能させる内容なのです。Christian McBrideも絶賛しておりました。

 

軟骨異栄養症で小人症ながら天才と言われたMichel Petruccianiは10歳にして巨匠Oscar Petersonの完全コピーをこなしていたと言われていますが、Alexander君は誰かのコピーではなく、既に彼のジャズを展開しているところがすごいのです。例えばGiant steps( John Coltraneの曲で転調に継ぐ転調で複雑なコード進行であり、1959年のオリジナル版レコーディングではばっちりimprovisationを組み立ててきたコルトレーンが気持ちよく吹きまくっている一方で初見だったというバーチュオーソのピアニスト、トミー・フラナガンはアドリブを最後放棄して和音だけ弾いているなんてゆうクダリもある)ではAlexander君は複雑な楽曲を新たに組み立ててしかも実に切れの良い演奏をしています。この「切れの良い演奏」というのは他の評論家達も一致した感想を述べていて、要はimprovisationの展開に迷いがない、魂の命ずるままに自由に弾いている、という事だと思うのです。外国のジャズ奏者は日本のジャズ奏者が勢いでアドリブを演奏する人も多いと言われる中で、意外にも?細かく内容を組み立ててしつこく練習してから即興(即興とは言えませんが)の部分を演奏すると言われています。スペインのジャズピアニストChano Dominguezは数多くのミュージシャンを採譜してそこから彼独自の展開・世界を築いてゆくと言われていて、マイルスの名曲フラメンコスケッチをオリジナルが激しい踊りの一場面を切り出して来た油絵のような「静の表現」であるのに対して、彼の演奏は再びスペイン人として独自の息吹を入れ「動の表現」にした素晴らしい演奏になっています。

 

Alexander君の話に戻しますが、最近私のブログで取り上げている「生まれ変わり」の概念からすると、彼は優れたjazz pianistの生まれ変わりであり、生まれた時から既にjazzの基本からかなりの熟練した技術に至るまで前世の記憶と能力を持ち続けたまま育って来たということになるかも知れません。Jazz Vocalのバックピアノを勤めている画像もアップされていますが、Vocalistに合わせて曲の魅力を引き出す演奏をするのはピアニストとしてもかなり手練な技を必要とするはずです。それを10歳かそこらで事も無げにやってしまうというのは「天才」というだけでは片付けられない能力だと思います。アメリカ人ではなく、インドネシアに生まれたということも何か意味があるのかも知れません。

 

私も50代後半になって「今回の人生における自分の果たすべき役割は何だったのか」を考えながら生きるようになりましたが、Alexander君は持って生まれたjazz pianoの才能をさらに開花させて人に楽しみを与え、音楽文化を発展させることが天命なのだろうと思います。

 

New Yorkに留学中まだ存命だったMichel Petruccianiの演奏を本場Blue Noteで聴く幸運に恵まれたのですが、がっちりした体型のドラマーの肩にひょいと乗って舞台に現れたPetruccianiが一度鍵盤に向かうと戦慄を覚えるような鬼気迫る演奏を聞かせてくれた事を思い出します。身体に障害を持った短い人生でしたが、彼も天命を意識して毎日を真剣に生きていたのかな、そんな凄さを感じました。2014年のCopenhagen Jazz FestivalにおけるAlexander君の演奏など見るとPetruccianiとは違った物怖じしない凛としたすごさを感じます。Lush Lifeの展開とか10年かそこらの人生でそんなに自信もって行ける?と思ってしまうほどです。やはり凄いです。天才であろうが、生まれ変わりであろうが彼は彼であって他に代わりはいないのですから、今後とも大いに我々ジャズファンを楽しませて欲しいと思いました。

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戦後秩序維持と反戦平和はイコールではない

2016-01-06 20:33:19 | 歴史

安倍政権が始まって、中韓の反日姿勢に対して強行な態度で接するようになり、また憲法9条改正や集団的自衛権といった戦後聖域とされてきた問題を何の躊躇もせずに変えて行こうという姿勢に対して国内だけでなく海外からも「歴史修正主義」「戦後秩序に対する挑戦」といった評価がなされています。日本において左派と言われる集団やメディアからも戦後秩序を破壊し、歴史認識の修正を計ろうとしている危険な姿勢と言う批判がなされています。

 

前回のブログにおいて現在日本における左翼と右翼の定義がデタラメになっていることを指摘しましたが、私はこの「戦後秩序」という言葉も極めて曖昧な定義の下に使われている感じがします。

 

諸外国における「戦後秩序」の定義は「第二次大戦前のドイツと日本をファシズム国家で連合国(united nations)の敵とみなし、この二国の国民は虐殺してでも国家体制が滅びるまで(無条件降伏)戦い、戦勝国(国連常任理事国)がその後の世界をコントロールしてゆく」事を是とする秩序の事を言います。現在の中共は当時の戦勝国である中華民国とは異なりますが、昨年秋に行われた戦勝70周年における習近平首席の演説からも「戦後秩序」をこの定義の下に語っていることが明らかです。2003年にブッシュ大統領がイラクに攻め入る時にも「悪の枢軸(axis of evil)」という戦後秩序の定義を意識した言葉を用いて徹底的にイラクを攻撃することの正当性を強調しました。安倍総理が昨年米国議会で演説を行った際にも、第二次大戦における日本の行いを悪とし、それを深く反省した上で「米国を中心とした秩序への挑戦」に日本も全力で立ち向かうことを高らかに謳い上げることで歴史修正主義者、戦後秩序を壊す者、という米国の懸念を払拭し万雷の拍手を受けることになりました。

 

もうお気づきのように「戦後秩序の維持」と「反戦平和」はイコールではありません。戦前の日独と戦った連合国に戦後日本も加わったからには、その連合国が新たに戦争をする時には戦勝国が世界を支配することを助けるために日本もその戦争に付き合う、できれば先頭に立って戦うことが「戦後秩序の維持」として評価されます。日本は60年から80年にかけて特に当時の左翼勢力が旺盛であった時代に反戦平和と日本の戦前を全て悪とみなす極東裁判史観が同一の物とされていたために、未だに戦後秩序の維持と反戦平和が同一であると錯覚している人達が沢山います。安倍政権はその錯覚をうまく利用して自分達のやりたい事(米国の一部勢力から強要されていること)を進めようとしているのです。

 

昭和20年、日本が敗戦を迎えた時、焼け野原になった日本の姿を見て、国民(私の父母以上の年代の人達)は「もう戦争はこりごりだ、二度と戦争はするまい」と心から誓ったのだと思います。日本における反戦平和の原点はこの思いにあります。戦前の明治憲法下の体制が悪かったとか、軍部の独走が悪かったとかは後付けで占領軍に教え込まれたことを素直にその通りだと受け入れたに過ぎません。もし明治憲法のまま戦後世界が築かれたらそれはそれで日本の国民もその状態を受け入れていたことでしょう。ただ「もう戦争はやりたくないね。」という素朴な思いは多くの国民が抱いたことは間違いないと思いますし、日本軍が形として残ったとしても連合軍に加わったかどうか疑問です。今「戦後秩序の維持のため、連合国の先頭に立って戦争に向かいます」と話す安倍総理に欧米諸国から歓迎の意を表されて、その方向で法整備がなされようとしていることに「一寸待て、誰か(外国の人)止めてくれ」と慌てている日本人が多いのではないでしょうか。

 

私は第二次大戦を含めて、「敵対する相手を戦争で無差別に虐殺してでも自分達の思い通りになる世界秩序を作る」という概念自体が誤りである、と考えます。相手が無条件降伏するまで原爆を投下し、無差別爆撃で市民を虐殺して戦勝国になった米英ソこそ最も戦争のやり方を反省するべき国々だと考えます。米英ソ(ロ)の国々(今は中共も含む)が自らを反省しない限り中東の平和も来ませんし、中ロと米欧の対立(無理矢理対立させている感が高いですが)もなくならないでしょう。その意味での歴史認識は修正されるべきであるし、戦後秩序は破壊されるべきだと私は考えます。そうでないと日本はまた連合国の一員として戦争に参加させられてしまいます。戦争で世界の人達が幸福になることはありません。日本が再び戦争をするとすれば、それは直接自国の領土、国民が侵略、殺戮された時だけです。

 

戦後培った平和主義を貫くためにこそ、歴史修正主義はいけない、戦後秩序は絶対に守らねばならない、と何も考えずお題目のように唱える愚は避けるべきです。保守と革新の定義、右翼左翼の定義、戦後秩序と平和主義、既知の事実の如く使われているこれらのことばを再度確認し、日本がこれから向かうべき方向を考えて行かねばならないと、サウジとイランが国交断絶し、北朝鮮が水爆実験に成功したと大騒ぎしている2016年の年頭にあたり痛感しました。

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