rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

ハロウイーンやゾンビ映画は反キリストか

2015-10-29 18:24:17 | 書評

前回の生まれ変わりについての論考でも人間の魂が死後復活して再生を繰り返すという思想は、人は神が創造し、神の復活に際して裁きがあるというキリスト教の教えに反するはずと記しました。ハロウイーンの収穫祭で死者の魂に対峙するというのは元々古いケルト人の伝説に基づく習慣であり、キリスト教(カソリック)においては、正式な祭りではなく黙認しているだけであるとウイキペディアにも記されています。

一方で米国でのゾンビ映画(テレビ映画も)の人気は大変なもので、死体が勝手に復活して大暴れするシリーズ物が大人気でとうとう現実との区別がつかなくなって死人まで出る始末のようです。まさにGod damn itな番組なのだと思いますが。

 

前回の竹倉史人氏の著作で紹介されていた輪廻転生の概念が非常に興味深かったので備忘録の意味で少しまとめた状態で以下に記しておきます。

 

再生型は古くからの伝承や習慣に見られるもので、例として挙げられていたナイジェリアのイグボ族の概念をまとめたものを示します。

 

輪廻型については仏教における思想の元になったインドウパニシャド哲学における五火二道説について示します。因果に基づく人生は以降の仏教や日本の生まれ変わり思想にも受け継がれていると思います。

 

仏教における私(霊)は実体を伴わない(無)であると考えられているのですが、そうは言いながら煩悩に執着しつつ因果に捉われて人生を繰り返すのが人の世なのでしょう。

 

この私を五つの蘊の集合とみなす考えは、孔子の論語「為政編」における人の見分け方に通づるものがあると感じます。すなわち「子曰く、その以す所を視、その由る所を観、その安んずる所を察すれば、人焉んぞかくさんや。人焉んぞかくさんや。(人の価値を判断するにはやっていることを見て<五蘊の色と行>、その行為の動機を見て<五蘊の想>、何を持って満足するか<五蘊の識>を見れば良い)」という教えです。私もこの教えに従って人を観察して判断していますが、まさに適確な教えだと思いますし、逆に自分が判断されるときにもこの教えに従ってあまり煩悩に惑わされすぎないよう、誠実であろうと勤めています。この世における人のありようとは、五蘊の総合による仮の姿なのだというのは深い教えだと思います。

さて、日本の死生観は不二(生死を分けない、連続したものと考える)と両行(二つの概念を共に取り入れる、例えば祖霊は生まれ変わるもあり、常に我々を見守っているもあり。因果応報と言いながら悪人も死んだら仏という考えもあり)からなると以前にも紹介しましたが、いろいろな要素を取り込んだ輪廻と生まれ変わりの思想になっていると思われます。

 

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映画 ドローン・オブ・ウオー感想

2015-10-23 19:48:35 | 映画

ドローン・オブ・ウオー 原題 Good Kill 2014年米国 主演 イーサン・ホーク、 監督 アンドリュー・ニコル

 

旅客機の中で原語で見ました。これ日本で公開される題名はドローン・オブ・ウオーですが、「戦争のドローン」では意味不明です。ドローン・ウオーならばまだ無人機を使った戦争ということになりそうですが。原題の意味は狙った獲物に命中した時の”Good Kill !”というかけ声と「善良なる殺人(evilの対比として)」の両方の意味合いが込められていて、この無人機を米国内で操りながらアフガニスタンのテロリストと思われるターゲットを殺害する任務の非人間性を良く現していると言えます。

 

無人機のカメラから見たターゲットは神の目線で生身の人間の生殺与奪の権限を握るに等しい感覚です。ターゲットにレーザーを当て、ミサイルの引き金を引くだけで数秒後には確実にターゲットは何も知らされないうちに爆死します。爆発があった後に犠牲者を助けに来た人々まで追い打ちをかけるようにミサイルが発射され、さらなる殺戮が繰り返されます。しかも殺害者は冷房の効いた部屋で家から通いながら何の痛痒も感じずに任務を実行できるのです。

 

主人公は軍人でしかも戦闘機パイロットとして任務を遂行したいと考えているのに命令に従って殺人のスイッチを押すのみのドローン・パイロットに嫌気がさします。しかも途中からCIA(ラングレー)の指示に従って本当にテロリストと言えるか疑わしい、軍人として相手を殺害するに値するが疑問に思われる相手までドローンで殺害するよう命じられ、子供や女性までやむを得ない巻き添え(collateral damage)として殺害してゆくことに精神的に病んでしまうという内容です。

 

客観的に見てこのドローンによる「容疑者」殺害は明らかに戦争犯罪であり、逆にイスラム諸国が米国内で同じ事を行えば欧米諸国はあらゆる手段で戦争裁判にかけて関係者を処罰、処刑するでしょう。これを米国が行っているから実行者達は倫理的な呵責に苛まれるのみで制度として止まる事が無いのでしょう。戦争犯罪であるのに誰も止められないのは、指示を出すCIA職員、命令する軍の上官、命令を実行する兵士、全ての人が「法的には適法」であるところにあります。この法的には適法というところが、戦争犯罪が起こるカラクリとも言えます。彼らが雑談中話し合っているようにこの「ドローンによる殺害をいくら行っても戦争は終わらない」事は既に結論として理解されているところにテロとの戦争の無情さがあります。

 

私が以前から指摘しているように、テロとの戦いは警察が行うべきことであって、軍隊は国家対国家の戦いにおいて、一定の達成目標を定めた上で使われるように制度設計されているのであり、兵士達もそのように訓練されているのです。映画全体を流れる暗さ、良心の呵責と精神的な苦痛で笑顔を見せない主人公の無機質さは、米国が行っているテロとの戦争の実態を良く表現しているように感じました。

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書評 輪廻転生 <私>をつなぐ生まれ変わりの物語

2015-10-21 21:41:33 | 書評

書評 輪廻転生 <私>をつなぐ生まれ変わりの物語 竹倉史人 著 講談社現代新書 2333 東京大学を出て東京工業大学の社会学の博士課程に在学中の著者が社会的にブームとも言える前世療法などの根本をなす「生まれ変わり」の思想について、世界における原始宗教や仏教、19世紀の紹霊ブーム、現代における科学的な探求など多方面からのアプローチで系統的に解説したもの。日本人が違和感なく感じている死生観の中の生まれ変わりの思想についてもこれらの分析から解説され興味深いものになっています。

 

死者の魂が後の世に他人の肉体を借りて生まれ変わってくる、という思想は常識としては考えられないものですが、前世の記憶を持つ子供達が世界中に古代、現代を通じて存在することも事実であり、刹那を生きることから判断をする他ない我々にとっては、それが真実、或は嘘と断定することはできません。著者はこの生まれ変わり思想のパターンを大きく3つに分類して解説しています。

 

再生型

自然の中で土や木、水となった後に再び魂が生を得て未来の同族の中に戻ってくるというもので、世界各地の原始宗教に同様の類型が見られるとされます。

 

輪廻型

古代インドを起源とし、仏教などでも語られるもので、因果に基づいて人は修行のために現世に繰り返し送られてくるというもの。霊魂は必ずしも同じものが繰り返し使われるとは限らないとされる。

 

リインカネーション型

プラトンなどに発し、19世紀の紹霊などで「霊の書」としてまとめられ、現代においてはスピリチュアルブームに乗って人は生まれ変わることで進化をしてゆくとする考え。キリストの復活を意味するリインカネーション(再受肉)が語源ですが、一神教においては神が創造した人間が勝手に何度も再生するという思想は許されないはずで、敬虔なキリスト・イスラム教徒からは支持されないものと思われます。しかし欧米の映画やメディアでは生まれ変わりは「あり」として描かれることが多いのが現実であり、宗教とは別の「生き方指南」としての思想的役割があるとされています。

 

本中の第4章では前世を記憶している子供達の実例がいくつか紹介されていますが、興味深いのは日本にもかなり明確に記録が残るものがあって、米国ヴァージニア大学医学部にあるDOPS(The Division of Perceptual Studies)という公式な研究機関における研究で、真実として確度の高い例の一例目に日本の平田篤胤が「勝五郎再生記聞」として残し、ラフカディオ・ハーンが英訳した例が採用されているということです。日本における生まれ変わりの思想は原始宗教的な「再生型」と仏教の影響による「輪廻型」が混ざった上に最近のスピリチュアルブームによるリインカネーションの概念も混ざっている和洋折衷の考え方が見られると説明されています。確かに死者への弔いは仏教的な物と道教的な物、そして田舎の祭りや盆などの祖霊信仰や招魂に見られる原始宗教的な要素が種々混ざったものを違和感のないものとして受け入れている(確かめようもないので)のが実際と思います。

 

大事な事は「この世で好き勝手なことをして死んだら終わり」ではなく、現在の自分があることを「先祖のお蔭」であると感謝をし、また後の世に別の環境、人格として生まれ変わるであろうことを認識することで、社会への貢献や他人への情愛、自分を磨き善行を積むことを意味ある事と認識できる作用がこの「生まれ変わり」の思想にはあるということだと思います。これは常々「求められる医療は何か」で考察しているように、還りの医療、世の中を次の世代に明け渡す大切さ、といった考えに繋がります。自分達の短期的な利得のために日本の文化や習慣・産業をつまらない貿易協定のために犠牲にしたり、国土を汚染する原発を使い続けたり、戦争によって国民・国土・国富をこれ以上失うようなことがあってはならないのだと思います。

 

本に戻りますが、スピリチュアルな本にみられがちな魂の救済とかそのようなハウツー的、決めつけ的な内容は一切なく、種々の生まれ変わり思想の背景や考え方を淡々と解りやすく解説してある点で優れた内容であると思いました。宗教のみならず、社会科学として霊的なものに感心がある方に一読を勧められるものと思います。

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書評 いのちを受けとめるかたちー身寄りになること

2015-10-13 08:59:47 | 書評

書評 いのちを受けとめるかたちー身寄りになること 米沢 慧 木星舎 2015年刊

 

ホスピスや老いをいかに生きるかを深く考察する米沢 慧氏の新刊で、年4回福岡で開かれている氏のセミナーの講演を採録し本にしたものです。この本で注目すべき点は、癌死を「終わりが見える死」とすればホスピスや「本人の意思を尊重した緩和医療」がその「死」に向き合う方策であるとするならば、老死・老衰は「終わりの見えない死」であり、その「終わりが見えない死」にいかに向き合ってゆくかを明確な形で示した点であろうと思います。

 

以前upしたがん死についての講演で示した死の三態(本のテーマは中央でなく下の自然死の方)

 

高齢化社会を迎えて「健やかに老いるためには」といった本は巷に溢れていますが、もうひとつ先の老死をいかに迎えるか、「健やか」が終わった状態の残りの人生をいかに迎えるかについてはどうしてもその人の人生にとってネガティブなものにならざるを得ず、「社会から捨てられる」、「社会や家族に迷惑をかけずにいかに終わるか」といった話になるからあまり語られることがないように思います。しかし医療や介護の現場、或いは行政においても実はこの老いの終末期といかに向き合うかが最も大きな問題になってきていると言えます。

 

著者はこの老いにおける終末期を人生における「たゆたい期(老揺期)」と名づけて、ボケや身体が不自由になることによる「魂の不安定性」を「身の置き所を求める」という言い方で見事に表現しています。「身」という表現は肉体のみならず、魂を含めた自分の存在そのものを示す日本語であると説明されていますが、高齢になって精神、身体機能が明らかに衰えた状態になると「自己の存在をどこに安心して預けるか」、「身を置けるか」に不安を生ずるようになり、氏の表現を借りると自分が無防備な状態で生まれ落ちて母親に無条件で庇護してもらえた記憶が残る「故郷の生家」を探すようになる。それが痴呆老人の徘徊や管理的な施設への拒絶につながっているのではないか、と説きます。

 

そして「身の置き所」を提供する一つの答えがこの本で紹介されている「宅老所」ではないかという事です。宅老所が所謂老健施設と異なることはその「自由さ」にあります。痴呆が入っている老人が「自由に身を預ける場所」は肌の触れ合い(職員との間にも老人同士においても)が必要であり、それらが「身寄りになる」という表現につながるものでもあります。「身寄り」とは「肉親」を意味する言葉ですが、逆に老揺期においては過去の長い人生を知る肉親はなかなかボケてしまった親兄弟をそのまま受け入れることが難しい、他人として身の置き所を提供する「身寄り」になるというのが、氏が提唱する患者―家族―医療・介護提供者のバランスの良いトライアングルを形成する上で良いのではないかというものです。

 

ボケた人を自由にすることは「管理が不十分になる」こととの対置であり、何かと責任の所在を求められる現在の社会、特に医療・介護の分野においては難しい問題をはらみます。しかも医療・介護は金のかかるものであり、ボランティアでできるものではありません。きちんと料金を取ってしかも管理責任については鷹揚であるためには、「高齢者の行きようとはこんなもの」といった社会的コンセンサスが必要です。その意味で私は社会制度作りと同時に日本人の死生観について、宗教界を含めたコンセンサス作りの運動が必要なのではないかと感じています。

 

キリスト教やイスラム教などの一神教の世界観では、人は神が一代限りのものとして創造したものであって、神が蘇る際に審判が下されて天国や地獄に行くことになっています。よって現世と冥界を何度も行き来する輪廻転生といった考え方は原始宗教の影響を受けている一部の派にはあるようですが、原則としては信じられていません。しかし多くの日本人は生まれ変わりや輪廻転生を自明の事として思考過程の中に組み込んでいて、亡くなった人の魂は生きているときと連続しているものと考えています。仏教的な教えから現世を「修行の場」と考えて因果を誤魔化さず(不昧因果)現世において帳尻を合わせる、因果を報いるに至らなかった場合は来世においてさらに修行を重ねるといった思想は日本人に広く受け入れられているものではないかと思います。欧米における神との一代限りの契約に基づいて自己の才能を生かして社会において早期に収益を上げれば後は享楽的に過ごすも可也という思想はグローバリズムにおける1%の支配者達の拝金主義を肯定するバックボーンになっているものであり、畢竟、日本人には社会全体の不利益を省みずに何故使い切れないほど金をもうける必要があるのか理解に苦しむ所となります。

 

老揺期の過ごしかたが管理責任などを厳しく問わないような、もっと肩肘の張らない環境が整ってゆくことが日本における高齢化社会の問題を円滑に解決してゆく鍵になるだろうと思います。孤独死を問題にする風潮がありますが、その老人が身の置き所としてそこで安らかに死んでいったのであれば、皆で寿いであげればよいのではないでしょうか。

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