rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

新富裕層vs国家

2013-08-22 00:01:47 | 社会

8月18日のNHK special 「新富裕層vs国家」はなかなか見応えのある番組でした。投機マネーやベンチャーなどで新たに富裕層(資産数億円以上)になった各国の人達が祖国を離れて所得税制などが安い国に移住してさらなる資産増加を計る事が増えている。アジアや日本ではシンガポールへ、アメリカではプエルトリコが国を挙げて富裕層の移住を歓迎している状況が紹介されていました。新富裕層が国外へ移住してしまうと、本来祖国に納められるべき税金が失われる事になります。よって国家(官僚)は、これらの新富裕層からいかにして税を徴収するかという問題になり、それは既に各国レベルでは対応できないため、国家同士が連携して移動する富裕層の所得を追いかけるシステムが作られつつある、という話題につながっていました。

 

この番組では、普段テレビなどのメディアであまり言及されない事、つまり1)新富裕層は国家の政策の結果作られたこと(景気対策やバブル崩壊を防ぐために国債(税金)でマネーを刷り散らかし、そのマネーの名義が付け変わって新富裕層の所有になったということ)、2)トリクルダウンセオリーはまやかしであった事(会社や富裕層に金が回れば庶民にも金が回るはずという根拠のない理論がやはり虚妄と証明された)、を明言していました。新富裕層は、持てる資産で産業を興すという「本来の正しい資本主義の精神」など持ち合わせず、単にマネーゲームで自分の資産を増やすことだけに専念してしまうレベルの人達が多いことも指摘していました。一部、ベンチャー企業を育てるため資産を投じて頑張っている投資家も紹介していましたが、多くの新富裕層はマネーゲームに終始しています。

 

一方でシンガポールでも一般の庶民の暮らしは貧富の差が開く事で厳しいものになってきており、富裕層への怨嗟の声も聞こえ始めています。番組では「頑張って努力して金を儲けているのだから、努力して儲けていない低所得の人達のために税を沢山払うのは納得できない。」という富裕層の声を紹介していました。まあ彼らの言い分はその通りなのだと思います。

 

私は中流にへばりついている層で、とても富裕層などではありませんが、彼ら富裕層に対して違和感を感ずる最大の所は「儲けさせてくれた社会に対する感謝の念のなさ」です。私は医者で多忙であることには不満を持っていますが、自分の所に来てくれた患者さんには(自分を信頼して体を預けてくれた事に)どんなに忙しくても感謝の念を持って接しています。それが仕事をする上での礼儀であり「治してやった」「診てやった」といった態度では必ず取り返しのつかない失敗をし、信頼を失う事になるだろうと肝に銘じています。それは他の仕事、金儲けにおいても同じであって、いくら自分の努力であっても「儲けさせてもらった」事を社会に感謝し、せめて納税という形できちんとお返しをするのは最低の倫理観であろうと私は思います。

 

番組で紹介されていた、80年代からウオール街で働いて財をなし、プエルトリコに移住した彼も、アフガニスタンに生まれていたら今の人生ではなかったはずです。自分を儲けさせてくれた米国社会に恩返ししないでどうする(海兵隊に志願して戦争に行けという意味ではないですが)と痛感します。

 

資本主義が正しく成熟してゆくには、日本の企業や商いにおいて古くからある倫理観こそが、これから世界で見習われなければならないものだと思います。またシンガポールのような国家の生き方は内田 樹氏が喝破しているように所詮民主主義を犠牲にした金持ちだけに顔を向けた社会でしか通用しないものだと思います。

 

この番組では触れられませんでしたが、我々が忘れてならないのは、元からいる「超富裕層」の存在です。「超富裕層」の人達は世界の銀行や通貨の発行をコントロールして世界を動かし、場合によっては国家間で戦争を起こすことで利益を確保しているのですから油断なりません。我々は彼らの策謀でやりたくもない戦争を強いられたり、エネルギー、食料、水などをコントロールされることで日常生活を破壊させられたりしないよう、今後とも知恵を巡らせて行かねばならないでしょう。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画 Green zone 感想

2013-08-05 18:52:35 | 映画

Green Zone 2010 年 米仏英西 監督 ポール・グリーングラス、主演 マット・デイモン(ミラー准尉)、イガル・ノール(アル・ラーウイ将軍=マゼラン)

 

イラク戦争開戦の口実となったイラクが秘蔵する大量破壊兵器の捜索をする部隊の小隊長(マット・デイモン)が、情報に基づいて捜索しても全く見つからないことから、政府の情報に誤りがあるのではないかと疑問を持って現地で裏情報の真実にせまるという戦争アクション+サスペンス映画。映画ではイラク軍の将軍であるアル・ラーウイが米政府の高官とヨルダンで秘密会議を開いて、サダム・フセイン失脚後の地位確保を条件に大量破壊兵器に関する情報を与えたことになっているのですが、実際には「もう大量破壊兵器はない」ことは将軍も米高官に伝えてあり、偽の秘蔵情報を与えた形になっています。ここでアメリカ、イラクの悪徳将軍どちらが本当に悪い奴なのかはわざとぼかして描いているのですが、普通の見方をすれば「どちらも悪」という事は想像がつきます。

 

米国務省は大量破壊兵器がない事を米側が知っていたことを交渉材料にし得るアル・ラーウイを消しにかかるのですが、CIAは戦後民主的にイラクが統治されることは不可能と読んでアル・ラーウイをフセインの替わりに利用しようと考えます。マット・デイモン扮するミラー准尉も途中から大量破壊兵器の欺瞞に気づいてCIA側に付いてアル・ラーウイ確保に走るのですが、最後アル・ラーウイを無事捉えたと思われた瞬間、現地イラク人の協力者(フレディ)にアル・ラーウイを殺されてしまいます。フレディは「イラクの事はイラク人が決めることだ」と勝手に国内を荒し回るアメリカに心からの叫びを訴え、ミラー准尉もそれに納得するという落ちになります。

 

この映画は制作費1億ドルということですが、興行収入はそこまで行かず、赤字興行のようです。評価は二つに分かれて、イラク戦後10年経たないうちに、戦争の大義がインチキだと暴いた点を「反米・反戦」で「非愛国的」と批難する「大政翼賛でないから悪い映画だ」という低レベルの批判から、「良くイラク戦争の欺瞞を正面から描いた」と高く評価するものまで様々です。映画そのものの出来としては設定や展開に強引な所はあるものの、「大量破壊兵器とやらはどうなった?」という世界中が当然抱く疑問と「もともと国連も兵器は存在しないと報告していたものをどうごまかして戦争に持ち込んだのか」という方略を映画という形で見せてくれただけでかなり価値のある映画だと思いました。Green Zoneとはバグダッド市内の米軍直轄地域で、その中はプール遊びができるほど安全で物も豊富な別天地の事を指しているのですが、イラク戦争自体が「Green Zoneのような所に住む米国の支配層が自分達のために勝手に計画して始めた欺瞞に満ちた戦争だ」という事実を暗喩していて意味深い題名だと思いました。現実のイラクも映画に描かれたように専制的なバース党や軍が解散させられて重しがなくなった結果、宗教対立やテロがはびこって一時は国家を3分割するかとまで言われたのですが、米軍撤退後やっと最近はグローバル資本の進出と開発が進み始めて少し安定しつつあるようです。

 

イラク戦争はアフガン進駐以上に意味のない戦争だったと思いますが(フセインが始めた原油のユーロ決済を止めさせた点ではその方面の人達には有益、アメリカが仕掛けた日中の尖閣問題も日中の貿易決済を日中の通貨で行うことを妨害した点では米に有益だったか)、今後の「イラクという国のあり方」によってこの戦争の米国での評価も変わってくるのだろうと思います。映画の出来としては8/10点。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中東の民主化に西欧諸国が違和感を覚える訳

2013-08-02 20:00:46 | 政治

アラブの春が始まって2年が経ち、チュニジア、リビア、エジプトの専制国家体制が崩壊しましたが、シリアでその流れは行き詰まり、シリア内戦は死者10万人を超えてアサド派、反政府武装勢力にクルド人勢力が第三勢力として反政府軍と対立を初めたと言われており、状況は混乱を極めています。

 

民主的な選挙によって昨年新体制が確立したエジプトでは7月3日に軍部によるクーデターが勃発して事実上民主的に選ばれた政権は崩壊。欧米諸国や他の中東産油国などはクーデターをおこした軍部を早速支持する声明を出すなど「民主的な選挙で選ばれたアラブ諸国の政府は他の資本主義国家群には不都合」という決断が下される事態が起こっています。

 

少なくとも米欧の民主主義国家群にとって、民主的な選挙によって為政者が選ばれる事は「民主化」として歓迎されるべき「国是」であるはずです。そもそも第二次大戦は「自由と民主主義を守る」という大義の下に多くの犠牲を払って戦われたのであり、我々敗戦国も「世界に自由と民主主義が確立された」ことを持って自分達の犠牲も無駄ではなかったと納得したはずでした。戦後の東西冷戦は「民主主義と社会主義の対立」「資本主義と社会主義経済の対立」という二つの対立軸で争われて「民主主義と資本主義が勝利」したことになっています。では何故今回エジプトにおいて、欧米諸国はモルシ政権側を徹底的に援護しないでクーデターをおこした軍部をさっさと支持してしまうのか疑問に思うのが当然です。

 

アメリカの民主主義を研究したアレクシス・トクヴィルは、「民主化」という概念を、国民主権の確立、普通選挙の実施、市民社会の成立、立憲主義などさまざまな民主主義的政体の形成過程が進む事を「民主化」と定義しましたが、近代民主主義の特徴である選挙による為政者の選出(と政権交代があること)は、「民主化」の過程で必須事項であるはずです。これらの定義を満たしているにも関わらず、アラブの民主化に不都合を感ずる理由として考えられるのは、民主化によって選ばれた政体が「イスラム教的だから」というほかないでしょう。

 

西欧社会の民主化においては、歴史的に日常生活を教会法で束縛されていた状態からルネッサンスによって政教分離がなされ(ギリシャ・ローマは別ですが)、日常生活的な「王の法」関連の事象については各人が神から与えられた「自然権」が確認され、「本来完全に自由に振る舞える」権利の一部を国家に提供する形で、社会を律する国家が形成されました。そして国家の為政者は代議制の名の下に「普通選挙」によって選ばれることが近代民主主義の原則とされます。為政者の政策が国民のためにならなければ「次の選挙によって為政者が交代することで国民主権が保持される」というのが原則です。

このように西欧では歴史的な経緯から政教分離がなされていた訳ですが、イスラム諸国においては政教分離がなされていなくても「普通選挙」で選ばれて、「政権交代が可能」であるなら本当は民主主義といっても良いはずです。為政者が宗教的であろうが、専制的独裁的であろうが、国民から駄目だしがなされて次の選挙で政権交代がおこるならばそれは民主主義国家であり、諸外国が好き嫌いを言う事は内政干渉以外の何者でもありません。

 

いままでのアラブ諸国は非宗教的(世俗的)な為政者が西欧自由主義社会と良好な関係を維持していて、イスラム諸派や国内のキリスト教徒らの対立は専制的な手法で押さえ込んできたのが実情でした。「民主主義とは多数派による独裁政治である」という評価もあるように、政治体制が特定の宗教の教義に従うものになった場合、多数派に属さない教義を持った宗教の信者達にとって、その政体は多数決で決められたものであっても苦痛以外の何者でもないわけで、その意味では政教分離がなされていない民主主義は最善のものとは言えない、「民主主義なら何でも善」ではない、ということになるのでしょう。

 

我々日本人は幸いにして一神教の厳格な信者は少なく、宗教的なものは適当に全て受け入れる寛容性があります。戦前においても天皇は神の一人であって、天皇自身が様々な神事を行って日本を作った神に仕えていたのですから、「主権者は天皇から国民に変わったよ」と戦後言われれば「ああそうですか」と比較的柔軟に受け入れる事もできたのでしょう。その意味では日本はもともと政教分離がなされていたからすんなり民主制に移行できたといえるかも知れません。

 

トルコにおける内乱も政治における宗教性と世俗性のせめぎ合いが元ですし、イスラム社会においてはこれから政治と宗教をいかに住み分けて行くか、が大きな課題と言えるでしょう。西欧諸国が行っている「テロとの戦い」の解決も実は武力による戦争ではなく、「イスラム社会の政教分離」が本当の解決につながるのではないかと私は思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする