rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

ドラマに茶々を入れる三流学者達

2009-11-30 00:53:31 | 歴史
NHK「坂の上の雲」に学識者ら要望
 学識者らでつくる「坂の上の雲」放送を考える全国ネットワークは26日、NHKで29日から放送されるドラマ「坂の上の雲」に関して、司馬遼太郎氏の原作小説には「重大な歴史認識の誤り」があるとして、視聴者に事実との違いを伝える措置を講じるよう要望した。_ 同ネットワークは、最近の研究では「当時、ロシアが日本を侵略しようとしていたことを示す歴史的事実は無い」とし、日露戦争は「祖国防衛戦争」だったとの司馬氏の認識は誤りだと指摘。著作権に配慮した上で訂正や補足を行うか、ドラマ放送期間中に日清・日露戦争の経緯の検証番組を放送することなどを求めた。(2009/11/26-18:45)
時事ドットコム(http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2009112600874)

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NHKのドラマ「坂の上の雲」第1回を見た。なかなか良いできだと思いました。明治維新から初めて世界というものを知ってしまった日本国が右も左も判らずがむしゃらに生きた時代に日清日露の戦争を経験して西欧文明国に国家として認められるに至った時代を軍人の秋山兄弟と詩人の正岡子規を中心に描いた快作です。司馬史観(明治の元勲の時代は良いが、昭和初年代から日本は駄目になった)を批判する人達(ずっと駄目派、ずっと良い派)もいますが、私は本小説は日本人必読の書だと思っています。それは学生時代に善悪の道徳観の入った日本史の授業が大嫌い(世界史には善悪の道徳観はない)だったから日本の歴史に大人になるまで興味を持てなかったのですが、躍動する明治の人達を描いた司馬氏の小説を読んでから私は日本史が大好きになったという経緯があるからです。

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶと言いますが、私が上記の連中を三流学者と呼ぶのはこの人達が一流ならばドラマに茶々など入れずに、自分たちの専門である歴史に基づいて現在の民主党政権に今後日本国が取るべき適確な外交の道を説くのがこの人達の本来やるべきことだからです。中国でも諸外国でも古来歴史家というのは為政者に適確な知恵を授ける役目をしていたものです。後知恵で批判をする、この歴史解釈は誤りだなどというのは我々素人でも床屋談義でできることです。この学者達が明治の時代に生きていて、ロシアが日本を侵略しようとする意図はないと明言できる知能があったと言うならば良しとしましょう。しかし当時の日本人はロシアの南下政策で日本も危ないと真剣に思ってしまったから国家存亡の大ばくちで戦争を行ったのです。そこには老獪な英国にのせられて代理戦争をさせられてしまった、という面も後知恵で考えればあるでしょうが、当時はそこまで考えられず、真剣にロシアと戦ったのだと言えます。だからドラマでは当時の日本人達が必死に考えた結果このようになったのだという真実を描けばよいのであり、上から目線で本当はこうだったのにバカだねえといったくだらない価値観の入った描き方をしたら本当に描きたいことが台なしになってしまいます。我々はドラマの中でお前達のくだらない意見など聞きたくもない!所詮三流学者達にはその程度のことも理解はできないでしょうが。

この小説を実際に読んだ人は判るでしょうが、この長編小説が戦争を扱っているといっても実際の戦闘場面というのはそれほど出てこない。勿論物語の主軸となる奉天の会戦や日本海海戦は詳しく描かれますが物語の分量からいえば僅かと言えるでしょう。物語の大半は戦争を背景にした人間の生きようや社会の姿に費やされていて、それがこの小説を素晴らしい文学作品に押し上げていると言えます。ドラマ化にあたって司馬氏は戦争賛美に取られることを危惧したと言われていますが、原作も読まずに「日本が勝ったとされる日清日露戦争を扱った作品」というだけでアレルギー反応を起こすような低能が戦後量産されてしまったことが本当の問題だと思われます。NHKがドラマ化すると聞いて変な歴史観に染まったくだらない作品にならなければ良いがと私の方が危惧していたのですが、第1回を見る限りでは安心して見れそうです。主人公達の表情も良く(垢抜けすぎか)、精緻なCGを駆使した画面など、どうかこのまま原作の思想に忠実に子供たちにも是非見なさいと言えるような素晴らしいドラマを作り上げて欲しいと思います。
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患者さんはお客様という発想は市場原理主義者の妄言である

2009-11-29 18:08:20 | 医療
私は病院内で患者サービスに関する委員会に属しているので患者さんからの苦情や提案を院内で収集して対応する立場にいます。待ち時間が長いとか救急対応の不備とか「もっとも」と思われる内容や、売店に関することなど早急に対応可能な事例もあります。言葉遣いなども、社会人としての礼を失するような事例を指摘された場合にはそのつどフィードバックをするよう心がけています。

しかし以前モンスター患者の例で紹介したように、患者側にも明らかに認識を改めて欲しいと思われる苦情があることも明らかです。「患者さんはお客様という認識が徹底されていない。」という指摘をする人がいます。我々医療者はそのような認識を徹底する気は全くありません。「患者さん」は「病気を治すために病院に来た患者さん」であり「サービスや物を買いに来たお客様」ではないからです。病院が患者さんをデパートや旅館がお客様をお迎えするように「上げ膳据膳」で接待しないことに不満を抱いている人がいます。しかしそれは誤った認識です。
我々日本人は国民皆保険制度に従って、元気な人も毎年何十万という医療費を払っています。それは自分が病気になったときに安く診療してもらうためでもあり、また日本国民全体の健康が保たれている事が社会のため、また日本の国益にもつながるという考えに立脚しているからです。病気になった人は早く治って社会復帰をすることが社会全体にとって大事であるという思想に基づいています。
外科医は毎週5人手術をしても10人手術をしても給料は変わりませんが、本当は沢山仕事をするほど給料もあげて欲しい所ではありますが、医療を行う事で患者さんだけでなく国民全体の役に立っていると考えるから「これでよし」と考えているのです。病院では毎月、科毎の売り上げが発表されますが、同じ労力でも診療報酬点数が様々であったり、麻酔科、放射線診断部や病理などのように科としての売り上げが出せない所もあり、また病院全体としてはそのような部門はなくてはならないものであるからこそ、医師の給与体系は売り上げでなく年齢と職位で決まっていることに皆納得しているのです。
もし「患者」を「顧客」として扱え、というのであればデパートや旅館のように全額医療費を自費にしないといけません。要は美容整形と同じ扱いであれば患者さん「ペイシェント」は完全に「クライアント」になります。我々も手術や医療をするほど給与を沢山もらうことになります。商売人が「客に頭さげるんやない、銭に頭さげとるんや」と言うのと一緒です。

実は「患者さん」を「患者様」と言え、とか「病院は患者様に来て頂くという意識がない」などというキャンペーンが始まったのは2000年に「日本の医療の市場開放」をアメリカが年次改革要望書で明示して、それに呼応してマスコミが日本の医療叩きやアメリカの市場医療礼賛が始まった時期と一致しています。政治においても、「小泉米国市場万能主義内閣」が日本に「医療特区」を作って米国の病院を誘致したり、株式会社の病院参加を促したりした時期と一致しているのです。2004年には厚労省の相次ぐ診療報酬引き下げによって病院の9割が赤字になり、日本の病院運営は儲からないということがアメリカの市場主義者にもわかったらしく、「日本の医療を市場開放しろ」と年次改革要望書には書かなくなりましたが(アメリカ製の医薬品や医療資材は手続きを簡素化して購入を容易にしろと言い続けている)、「患者さんをお客様扱いしろ」という主張はあまりアメニティの面で良好でなかった病院医療に対して患者さん側としては「その通りだ、我々は金を払っている客なのだ」という意識になり、そのまま残ってしまったと言うことでしょう。

我々医療者側もできる改善は行いますが、医療の主眼は「病気を治す」ことと「医療安全」ですから、それ以外の接客業的サービスに力を注ぐつもりはないですし、その必要もないと考えています。むしろ「医療崩壊」によって最も困るのは「日本国民全体」ですから、WHOが世界一と評価した日本の医療体制を維持し、孫子の代に繋げてゆく事こそが接客などよりも最も大事な現在の課題であると認識しています。

宮城谷昌光氏の小説「月下の彦士」に「人から与えられるばかりで、与える事をしないことを、むさぼると申します。むさぼった者はなべて終わりが良くない。」という心に残る一節があります。自分で一生懸命働き、或いは人の世話をすることで社会に奉仕をしてきた人は人から奉仕されることに素直に感謝の気持ちを表わします。休日に病院で働いていると「先生もお休みの日に大変ですね。」などと自然に声をかけてくれる方もいて「ああ、この人は解っているな。」と思います。患者さんでも、各種サービスにおいても「むさぼる」状態の人ほど「勝手とも言える一方的な要求」をするものです。我々は患者さんのプライバシーもある程度知り得る立場にあるのでより一層解ってしまうのですが、本当に「むさぼった者は終わりが良くない。」です。
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書評「第二次大戦に勝者なし下」

2009-11-20 23:44:13 | 書評
「第二次大戦に勝者なし下」 アルバートCウエデマイヤー著、妹尾作太男訳講談社学術文庫 1287(現在絶版)

前回の上巻に続いて下巻の書評。上巻では米国が第二次大戦に参戦するにあたって、周到に国益を考えた上で最善の道ではない、しかも日本の奇襲が暗号解読で解っていながら厭戦的なアメリカ国民を騙す形ではじめられた事。英軍との共同作戦ではイギリスの国家戦略に翻弄されたこと、結果的にソ連を有利ならしめたこと。近代戦争の根本理念を覆す「無条件降伏」を枢軸側に要求するに至ったことなどが示されました。

下巻では著者が蒋介石の参謀として在中国米軍の司令官として活躍したこと。戦後の中国への支援にあたって共産軍の脅威を政府に上申したのに拒否されて逆に中華民国軍と共産軍との連立を強要され、失意の内に職を去ることなどが記されています。

後半の2章は「第二次大戦に勝者なし1.2」と題されて、本書の訳における書名にもなった中心部分です。一言で言えば、第二次大戦では米英と独伊が潰し合いをして、最終的に得をしたのはソ連だ、ということなのですが(勝者なしではなく勝者はソ連だが正しい)、そこに至る経緯が各国首脳達の戦争各局面での判断の誤りを指摘する形で書かれています。「戦争に勝つ」という事の意味は「明確な政治目的を達成する一手段として戦争を行い、最終的にその政治目的を達成すること」と定義されるのであって単に「戦闘に勝つ」ことや増して「相手国民を殺戮する」ことが戦争の目的にはなりえないことは軍事のみならず政治における常識と言えます。そこで本書の記載とは少し離れますが、著者の考える各国の第二次大戦における戦争目的をまとめてみます。

米国:欧州の力の安定と自国の経済圏の拡大、ナチズム・共産主義などの独裁体制の消滅。
英国:自国の存立とともに大英帝国の版図の維持。(仏、蘭も基本的に同)
中国:当時日本と戦争していた中華民国としては、自国の存立と中国全土の統一平定。
ドイツ:英国と共存した上でのソ連・中東を含む拡大欧州への帝国の版図拡張。
日本:日本を中心とした大東亜共栄圏の確立。
ソ連:ソ連を中心とした社会主義帝国の成立と拡大。

これらの中で本書が書かれた1958年において第二次大戦の戦争目的を達成できたのはソ連だけだ、と著者は主張しているのです。「無条件降伏の要求」という誤った戦争目的がなければ、日本に原爆を落さず、ソ連に参戦させることなく終戦を迎えることができ、戦後満州をソ連が蹂躙することもなく、共産中国の出現や無益な朝鮮戦争も防ぐ事ができたと回顧します。最近映画「ワルキューレ」で話題になったヒトラー暗殺計画も、44年当時ナチスに反対するドイツ国防軍将軍たちとCIAの前身であるOSSはスイスで連携していたと書かれており、やり方によっては欧州戦線は1年早く終結し、東欧が鉄のカーテンで仕切られる必要もなかった可能性もありました。つまり多くの若者の犠牲を払った米国の国益が達成される可能性が十分にあったのだと解説します。

戦争は政治の一部とはいえ、軍人が政治に口出しするのは良くないように文民が軍事に口出ししすぎるることも多くの場合弊害の方が大きくなります。本書の最後は著者が軍人として一米国人として世界のあるべき姿を述べて終わっています。そこにはEUや、NAFTAの考えに通ずる概念も述べられています。アメリカの金融グローバリズムはどうも現代中国の独裁政治下の自由資本主義をモデルにしつつあり、米国も民主/共和どちらを選んでも結果が同じ独裁政治に向かいつつあるように見えます。独裁政治に支配された世界連邦は単なる一部の勢力(金融資本家)による世界征服にすぎません。著者がのべている世界連邦のありかたは、金融グローバリズムとは一線を隔するものです。著者は、やや出来過ぎの感もあるのですが、私の想像する所の信頼できる良きアメリカ人の典型のようにも思うので、やや長くなりますが、最終部分を引用して書評を終えることにします。

(引用開始下巻386ページ一部読みやすく改編)

建国の遺訓を思い起こせ

 西側同盟諸国は、第二次大戦中にヨーロッパとアジアにおいて由緒ある(力の均衡)を破壊した。我々アメリカ国民は、賢明なるアメリカ建国の父祖たちがアメリカ憲法を制定する際に、個人や一部の政府機関が権力を強奪しないように(均衡と抑制)の制度を確立した意味を思い起こさねばならない。カールスレー、ピット、パーマストン、ディズレリといった英国の戦時、平時の首相たちはヨーロッパ大陸の勢力を均衡させ、それぞれの国が英国に脅威を与えないようにする政策を心得ていた。

 実際私は1939年に英仏が戦争を始めたとき、ヨーロッパの勢力均衡をはかるためにヒトラーとの戦いを始めたものと考えていたのだ。

 平和を維持しようとする世界各国の協調的努力を保証するために第一次大戦後には国際連盟が、第二次大戦後には国際連合が組織された。しかし現在の世界は、世界国家とか、地球連邦を樹立しようというまでには精神的な準備がなされていないのが現実である。世界各地の諸国民は、それぞれ言語、習慣、伝統および領土という点で集約されていて、それぞれの民族が持つ主権というものに対して強い執着を持っている。

 だから他に選ぶべき道としては、政治、経済および文化の分野で、互いに矛盾しない目的を有する諸国で形成される地域的な統治機構をまず形成してゆくことが考えられるだろう。こうした機構に参加する諸国は、それぞれの国家主権をはっきりと保持するが、参加諸国の共通の目的を達するためにそれぞれが相応の負担をするのである。

 共通の利益を基礎とした団結の精神が拡大するにつれて、人間は徐々に、いつの日か、人種、皮膚の色、信仰または身分のいかんに関わらず、すべての人に平等に機会を均等に与えることができる世界国家を樹立することができるだろう。こうした世界国家体制を団結維持させる要素は、偽善や偏見を取り去った崇高な精神であることは言うまでもないだろう。

 現在、それぞれの異なった国民、または国家は、それぞれに異なった目的や目標を持っており、そしてそれぞれに相異なった行動原理に支配されている。しかし私は世界各地を旅行してみて、大多数の人々の最高の願望は、他から干渉されずに平和的に生活することであることを知ったのだ。

 大多数の人々は、各自の才能を開発し、また各国の主張を実現することによって、各自の境遇を改善し、自由を享受できる機会を探し求めているだけである。我々は世界の主立った宗教のすべてに「汝の欲せざることを他人に施すことなかれ」という人類の黄金律が、さまざまな形式で表現されていることを発見できるのである。        

(完)
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普天間基地問題は日米同盟のありかたの問題

2009-11-18 22:26:48 | 政治
沖縄海兵隊グアム移転費、7割減を米上院可決(読売新聞) - goo ニュース
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民主党政権になってからの普天間基地問題というのは「何をどうしたい」から揉めているのか整理されていないように思います。「普天間基地が市街地に隣接しているから移設しないといけない」という問題については自民、民主、米軍ともに一致した見解のようです。ではどこに移設するのかについて自民と米軍は名護市に移設することで一致していたのですが、民主党としては嘉手納か県外、できれば国外に移設してくれということなのでしょう。

しかし民主党の姿勢としては、普天間基地に限らず、沖縄駐留米軍全てがどこかに行って欲しいという基本姿勢の一部であって、「取り合えず基地の移設話があるからまずこれから追い出そう」と言っているように思われます。つまり民主党は普天間基地問題を扱っているのではなく、沖縄駐留米軍全体についてを扱っていると言えないでしょうか。もとより「米軍は横須賀の基地だけでよい」と言うのが小沢さんの意見であり、「日本中に駐留している米軍は不要だ」というのが民主党のスタンスです。このスタンスの是非の結論が出ない限り、現在の普天間基地問題は解決しないと思われます。

アメリカはオバマ大統領も含めてしきりに「日米同盟の大切さ」とか「日米同盟重視」と訴えてきていますが、これは間接的に小沢氏の見解を改めて「今まで通りの在日米軍のありようを続けなさい」ということと、以前書評の「日米同盟の正体」で触れたように、「米国の決めた軍事的行動を同盟国として同調しなさい」ということを主張しているわけです。日本の新聞もメディアもそのことをはっきりと説明しないから日本人は「僕たち友達でしょ、とアメリカが言っている」程度にしか日本人が理解しないのです。

米民主党は、実は日米同盟などもうどうでも良い、というのが本音であって、中国を取り込んで経済も中東地域における軍事も共闘体制でゆきたい、と考えているでしょう。中国も「コキントウ」さんは「コウタクミン」派閥との権力争いが続いていることもあってアメリカとうまくやることで体制がためをしたいのが本音。日本については親中国の民主党は歓迎したいところでしょう。

沖縄、グアムの海兵隊というのは、台湾海峡を含めた対中国に備えた兵の配備ですから、米国務省よりは国防総省がアメリカの覇権を守るために重視している政策の一環です。国務省は米中2国で世界を仕切ろうと言っている位ですから、鳩山総理が日本は中国の軍事的覇権の圏内でいいんじゃない、とオバマ大統領に囁いたのなら今のまま「のらりくらり」している内に国防総省の発言力が減退して在日米軍全体の縮小という方向に向かうことになるでしょう。

いや、「中国の覇権拡大は阻止して、米軍は対中国の防波堤として頑張ってもらう」ことを選択するのならば、普天間は早々に自民党との同意通りに移設を決めて、米海兵隊のアジアにおける勢力展開に穴が空く事がないようにし、出すべき金は出すようにすべきでしょう。

第三の選択は米軍にも出ていってもらい、日本は独自で中国の覇権拡大を阻止することですが、これは望ましい道ではあっても現実問題としては難しいように思います。私はアメリカのグローバリズムは嫌いですが古きよきアメリカの保守は好きなので、国防総省側に味方したい気持ちがあります。共産中国よりは、台湾の方が日本にとって良い存在ですし、将来の国益にもつながるだろうと考えます。

アメリカはアジアにおける戦略配置の再構築を行っていて、海兵隊のグアム移転もその一部なのですが、移転費用を削減したということは再構築を遅らせるということも意味しており、単に日本に対する嫌がらせとも思えません。しかし日本にとっては、普天間基地問題は日米同盟のありかたの問題だと明言するメディアの出現が待たれます。
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TfalやDretecなどのプラスチック製湯沸かしの異臭問題は水の塩素の問題か

2009-11-17 18:50:32 | その他
Tfalがコップ1杯の水を経済的に短時間で沸かして直ぐ使える湯沸かしポットを発売して好評です。それに続いて他のメーカーも同様な仕様の湯沸かしポットを発売しています。私も自宅と病院でそれぞれ使っているのですが、自宅で使っているものは何の問題もないのに、病院の自室で使っているものは沸かした湯が消毒薬ともプラスチックとも何とも言えない否な匂いが付き、また味も変でありとても飲めたものではない状態になりました。

使っているうちに無くなるかと思ったのですが、異臭異味はひどくなる一方で、病院では使わないことに決めました。これは単なる不良品であったのかと思いインターネットで調べた所、プラスチックのポットは使用者によってこのプラスチック(ポリプロピレン?)臭がどの製品にもあることが解りました。しかし製品の個体ごとに異臭が出たり出なかったりというのは同一規格の大量生産品ではありえないことです。

病院で異臭が出るポットも、病院の水でなく試しに購入したミネラルウオーターだとあまり臭いがないことが解りました。我病院の水は非常に消毒の塩素(カルキ)がきつく、換気扇を付けないでシャワーを浴びていると目がちかちかするほどです。正しく実験したわけではありませんが、どうもプラスチック製の湯沸かしの異臭異味は沸かす水の塩素の度合い、pHによって変わるのではないかと思われます。家の水はカルキ臭くないですし、インターネットで異臭が気にならない派ととても酷い派に別れるのは、どうも使っている水道水の塩素が濃い地域とそうでない地域の違いではないかと思われます。

異臭が強い地域(水?)の場合はガラス製やアルミ製の湯沸かしの方が良いかもしれません。病院では従来からある電気ポットを使っていましたが、異臭や異味が出た事はありませんでした。この異臭が身体に毒かどうかは解りませんが、少なくとも不味いと解っているものを飲む必要はないですね。メーカーさんの改善に期待します。
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さすがです

2009-11-10 15:51:14 | 社会
路上・公園で全裸撮影、篠山紀信事務所を捜索(読売新聞) - goo ニュース
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許可なく屋外で全裸写真を撮影したということで「お上からおしかり。」さすが一流の篠山紀信さんです。ヌードなどというものは公明正大であったり、あちこち許可を得て「お上から太鼓判」押されて撮影するようなものにわくわくするような「エロス」が出るはずありません。医学書にエロスがありますか。

隠微なる美の追及に一流であろうとする結果がこうならば、まあ警察も「通報があったので注意」位の粋な計らいにしておくのが良いでしょう。真に国家権力が追及するべきは「日本人から金品や誇りを奪う巨悪」なのですから。
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テレビ評NHKヒューマンドキュメント「ふたりの14歳」

2009-11-06 19:10:24 | その他
テレビ評NHKヒューマンドキュメント「ふたりの14歳」

[S][文]ふたりの14歳病気の進行との闘い…障害者の競技ボッチャ友情、葛藤、成長するふたりと親子の物語
チャンネル: 3ch : NHK総合_放送日時: 11月5日(木) 22:00-22:45_Gコード: 29211

[詳細] ふたりの14歳_障害者のために考案された競技「ボッチャ」を通し、互いに成長していく親子の日々を伝える。愛知県在住の中学2年生、松永楓さんの親子と、高阪大喜君の親子は、ボッチャと出合い人生が変わった。松永さんは脳性まひ、高阪君は筋ジストロフィーという病で、日常生活のほとんどに親の介助が必要。親が子を助け、子は親を頼ることが当たり前の親子関係に変化をもたらしたのがボッチャだった。ボッチャとは、目標となるボールにどれだけ近づけたかを競うカーリングに似たスポーツ。試合となれば子供は自らの判断で戦い、親は手が出せない。親子で意見が食い違い、けんかになることもある。やがて子供たちは日常でも自己主張を始める。親は子供の成長を目の当たりにすると同時に、自分の手から離れていく寂しさを感じるという。(http://tv.starcat.co.jp/channel/tvprogram/0432200911052200.html)

<感想>

良いテレビ番組に出会うことは現在では難しい世の中になりました。見ていると明らかにバカになってゆくなあ、と感ずる退屈なバラエティばかりの中で、9時のニュースのあとそのままテレビをつけていたら始まった番組でした。筋ジスと脳性まひの子供が打ち込むスポーツ、ということで敢えて身体が不自由(しかもかなり重度に)な人がスポーツに挑むということがどのように描かれるか、見ているうちにどんどん引き込まれて遂に最後まで見てしまいました。

どちらの病気も知能には障害がありません、だから知能を競う競技ならばハンディを克服して・・と安易に考えるのはやはり自分が部外者だからだなと感じました。一番ハンディのある身体能力をぎりぎりまで使って競技をすることに重度の障害を持つ二人の中学生が、単に10メートルばかり先に玉を転がすだけの競技ではあるけれど、その勝敗で号泣するほど真剣に取り組んでいることに、何か大切なことを気づかされた気持ちがしました。

立ち上がる事もできない子供が、一般社会に対して自分の思いを表現することは、「知能に異常がないのだからできるだろう」などと言えるほど簡単なことではないのです。自分は立ち上がることもできないけれど、自分の身体能力を全力で使って競技という形だけれど社会に初めて自己表現ができた、ということが自分に対する自信につながって社会への「自立」に少しずつつながってゆくのだな、ということが解りました。

立ち上がる事ができない我が子を立たせたい、というのは親心として良くわかります。しかしそれでは現在の自分の姿を親が認めたくないのだ、と子供が感じていることに気づいて、あるがままの「立ち上がる事ができない我が子」をそのまま受け入れようと考え直した、というご両親の言葉にも非常に深いものを感じました。子供が病気を持つと親が成長するというのは私自身にも経験があるのですが全くその通りです。親が子の理想像を作ってしまい、子供をそこにはめ込む、ということはどの親でも犯してしまいがちな誤りでしょう。子供のあるがままの姿を一度認めてから、そこから何ができるかを一緒に考えてゆくというのが大切だと思いました。

この子供目線という視点ですが、この番組のカメラワークが常に二人の障害を持つローアングルの目線で作られていて秀逸です。病気の進行で右手で投げられなくなったので左手で投げるようにした、という高阪君を見て自分も彼と同じくらい自分の能力を引き出すぎりぎりの努力を普段しているか、という点で恥ずかしい気持ちになりました。丹波哲郎氏ではありませんが、「人間はこの世に修業のために産まれてきているのだ」と考えると小さな事に不平不満ばかりを唱えて最善の努力を怠っているようではまだまだ修業が足りないなと感ぜざるを得ません。それに比べて「ふたりの14歳」は大いに修業をしていると思いました。
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