rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

目的と手段

2012-03-25 23:18:24 | 社会

「目的と手段を取り違えてはいけない」ということは良く言われますが、言われている割に取り違えている場合が世の中には非常に多いと思います。

 

政治形態や経済はその国や社会に生きる人達が快適に生きるために存在する手段に過ぎません。「国民が衣食住が足りて生き甲斐のある生活ができる」のであれば民主主義であろうが独裁国家であろうが、自由主義経済だろうが共産主義経済であろうがそれらが人間が良く生きるための「方便」「手段」に過ぎないのだからどうでも良い事です。民主主義を守るためならば人類が滅亡するまで人殺しをしても良い、とか完全な自由主義経済を達成できるならば1%の金持ちと99%の貧乏人になっても良いなどというのは手段と目的を取り違えた「愚者」のたわ言に過ぎません。言われて見れば当然のように思われる事柄も現実にはたわ言になっておらず、手段が目的と化して何物にも替えがたいかのごとく扱われていることに脅威を感じます。

 

シリアではアサド政権と反体制派が数ヶ月に渡って戦争状態にあります。アラブの春というのは現実には「西側寄りでしかも独裁体制で富を独占した長期政権」がインターネットの普及で世界の情勢を知ってしまった民衆が「この状態はおかしいのではないか」とイスラム的な平等(西側が標榜する民主主義ではない)を求めて立ち上がった運動と言えますが、新たな政権ができた時に新たな利権を得ようとする米欧とそれを妨げようとする中露の綱引きで事態が混乱してしまっています。元国連事務総長のアナン氏が仲裁としてシリアに入りましたが、何の実りもなく退散した直後に新たな市民の虐殺が起り、それがインターネットに掲載される「子供が虐殺されている非常に残酷な映像です(https://www.facebook.com/media/set/?set=a.289017771170686.66953.243576782381452&type=1)」という事態になり、世界は大きく失望し、やっと中露も政権の交代を明示しない紛争の停止という国連決議には賛成するに至りました。

 

この虐殺は政権側がやった、いや政権の印象を悪くするために反政府側がやった、と批難の応酬になっているようですが、たかだか政権が交代するだけのために自国民のしかも子供までもがこのような殺され方をしないといけない事態が「手段と目的を履き違えたことである」として政権側も反政権側もただちに戦争を辞めるのでなければ知性ある大人の対応ではないと断定してよいのではないでしょうか。

 

実際に人間が殺し合いをしてしまい、家族や大事な人が犠牲になると、手段だ目的だなどと言う前に「復讐心」が先に立ってしまい、感情が優先して理性的な対応ができなくなるのが人の常ではあります。しかし国民同士が殺し合って国力が衰退し、外部から武器を売りに来る武器商人と疲弊した国内に豊富な財力で紛争後乗り込んでくる外国勢力が喜ぶだけであるこのような内戦は早い所辞めよう、と考えるのが「真の愛国者」であることは洋の東西を問いません。

 

ここで思い至るのは、明治維新の際に江戸無血開城を決心した西郷と勝海舟です。維新における大政奉還や戊辰戦争を最小限で終わらせた江戸期日本の先人達の聡明さは常々見習わねばならない手本であると思っていますが、欧州の戦争で余った中古の武器を大枚の金貨で買わされて、日本人同士で殺し合いをさせて国力が弱った所で植民地にしようとしていた英仏の思惑どおりにさせなかった日本の先人達の快挙を諸外国はもっと見習うべきであるし、学校では子供たちに「明治維新の意義」をこの視点からも大いに教育し、先祖末代までの誇りにしないといけないと痛感しています(子供に聞くと、どうもそのような教育は行われていないようです)。

 

アメリカは第一次大戦、第二次大戦と自分達に関係のない戦争に自ら乗り込んでいって絨毯爆撃等の大量殺戮を敢行し、特に日本には敗ける事が判っていたのに人類最大の罪と言える原爆の人体実験をウラン型、プルトニウム型でそれぞれ行い、2度も無差別大量虐殺をしたにもかかわらず現在に至るまで一切の反省を行ないませんでした。偉大なる神は罰として第二次大戦後もアメリカという国に永久に戦争をし続けて国民が平和に暮らす事ができない運命を授けたようです。アメリカ人が「自分たちは戦争ばかりしていてはいけない」と気付き、今までの蛮行を心から反省するまでアメリカは宿痾のように戦争を続けるでしょう。

 

しかしさすがのアメリカも戦争による国民の疲弊(米軍兵士による銃乱射や自殺、PTSDの多発など)と経済の失敗で国力が衰退に向かいつつある現在、「いつまでも(自分たちで)戦争をやっていては駄目かも?」と気がついたかもしれません。そこでかつてのヨーロッパ型の他人同士に戦争をさせて武器を売って儲けて後から乗り込んでいってまた利権を得る(ある種のoff-shore balancingと言えるでしょうか)方式に方針を変えつつあるのではないかと「イラク・アフガンとオバマの新国防戦略」の拙ブログでも述べました。今後は日本と中国や朝鮮に戦争をさせよう、という方針に変ってくる可能性が高いと思います。中国人もロシア人も外交には長けていて抜け目がなく、野蛮だけれど純朴なアメリカ人に比べると付き合ってゆくのは大変だろうと思います。しかしアメリカの見え透いた手に乗って中国や朝鮮と戦争させられる愚は聡明なる日本人としては絶対に避けなければいけませんし、裏の手やそのまた裏の手を使って日本国民が良く生きることができるように国際問題に対応してゆかないといけないでしょう。

 

政治でも経済でも、また日常生活全てにおいて「手段と目的」を履き違えていないか、常に問題を考え直し、肝に銘じておかないといけないと思います。

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医学教育における問題点

2012-03-14 22:24:53 | 医療

医学部卒業後教育の改革と医師偏在、教育アンケートについて

 

私は臨床医であると同時に大学教員でもあるので、医学生の教育にも携わり、勿論卒業後の研修医、若手医師の教育にもかかわる立場の人間です。先日大学を卒業して初めに受ける2年間の研修である「初期研修」を教育する現場において感じている問題点についての調査が厚労省からありました。

 

21世紀に入ってから医師の研修制度が大きく変り、今までの大学医局を中心とする人事制度から研修を受ける側が自由に研修する先を選択して2年間の研修を受け、その後後期研修として改めて大学や基幹病院において自由に選択をして専門研修を受ける制度になりました。要は研修制度を変革することで、絶対的人事権を持っていた各大学の医局という制度を解体したいという思惑が功を奏した訳です。研修を多彩な科によって受けて医師としての基本的技能を若い内に身に付けるといった現在の研修制度の基本はこの研修制度が始まる以前から徐々に行われてきていたので、各科ローテート自体が改革の本旨ではないことは明らかでした。

 

研修制度改革の結果、大学医局人事でいやいやながらにでも行かされていた田舎に医師が行かなくなり、医師の偏在が生じ、安い給料で24時間リスクの高い医療を行なう勤務医の負担が増えて若い医師達が益々「たいへんそう」な科を自分の将来の専門科として選択しなくなって「医師不足」が生じていることはいままで度々ブログでも述べてきた通りです。

 

厚労省は若手研修医を教育指導する我々指導医に「臨床研修指導医講習会」に出席して研修医を指導する上での心構えやポイントについて学ぶことを義務づけています。この講習会は「いかに研修医の気持ちを酌んで快適かつ効果的な研修を受けてもらうか」といった事を中心に学びます。今回「研修医を教育する上での不安や問題点を指摘し、より効果的に研修ができるよう今後の指導医講習会に生かす」という目的でアンケートがなされたのだろうと解釈しました。

 

教育における二つの道

 

私は教育学部などで教育を専門に学んだ人間ではありませんが、大学教員としてまた医師として後輩を20年以上教育してきたのでそれなりに「教育」についてのポリシーは持っているつもりです。教育は大きく分けて二つに別れます。一つはHow toを教える教育、言って見れば自動車学校で車の運転を教える教育です。もう一つは内田樹氏の表現が判りやすいので引用させてもらうと「子供を一人前の大人にするための教育」です。何でも我が儘が通ると思っている子供に社会の構成員であることを自覚させて社会の一員としての役割を担ってもらい、その上で次の世代の子供たちを教育し、大人に育てることができる人材になってもらう、という教育が「子供を大人にする教育」です。これは結果の判定が試験の点数や合否では表わすことができないので、簡単なようで実に難しい教育と言えますが、本当はこちらの教育が社会の成熟や発達において最も必要なものと言えます。実は現在の研修医教育ではこの子供を大人にする教育が抜けていて、子供を子供の状態でいかにHow to を学んでもらうかに重点がおかれている状態です。研修医達に何時「我々の側」に来てもらうか、どこで誰が彼らを子供から大人にチェンジさせれば良いのか、明確にされていません(お客さんとして大事に扱っているうちに自然に大人になることが期待されているようでもあります)。

 

医学は実学であり、大学で勉強したことが一生役に立つ希な学問です。論語の「学びて時にこれを習う、また説ばしからずや(勉強したことを時宜に応じて実践することは大変良い事だ)」を地で行く毎日ですからこんなに楽しいことはありません。だから本人に「学ぼう」という気力さえあれば、医学を教育すること自体は難しいものではないだろうと私は思います。何しろ日本の高校生の理系志望者の上澄み1-2%を医学部が吸い上げているのですから、彼らの「じあたま」の良さを持ってすれば、「学ぶ側にやる気さえ充実していれば」教育する側がどのような教育をしようと国家試験に受かる程度の知識を身に付けることは容易なはずです。しかし日本の医学教育は容易なはずのHow to教育の方に非常に力が入れられています。それは医学の進歩が早く、限られた時間で勉強しなければならない内容がどんどん増えていることも確かに一因ですが、一部に自動車学校で免許を取るように容易に医師国家試験に通るのが良い医学部教育であると勘違いしている連中がいることが問題なのです。

 

日本とアメリカの医学生の違い

 

最近の日本の医学教育は欧米(特にアメリカ)の医学教育の手法が大きく取り入れられていて、主にHow toをいかに効率的に学ばせるかに主眼がおかれています。実はこれ、日本とアメリカの医学教育の違いを無視したやり方であると問題になっています。アメリカでは「子供を大人にする教育」は無視されているか、というと彼らは医学部に入学してくる時点で4年制の大学をすでに卒業して社会人になっている、つまり医学部は職業訓練学校として入学してくることが前提になっていることが日本と大きく違うのです。アメリカの医学部生は文学部や経済学部、中には芸術学部出身の人や看護大学を出て看護師をしていた人もいます。MCATという医学部受験資格を得るかなり難しい試験を突破して医学部を受験して入学してきます。学生の時の試験も大変なので途中で医師への道を断念して他の職業に付く人も多くいます。そして医師になってからも研修医、専門医へ昇格するモチベーションは強烈で既に子供としての感情は遠の昔になくなり、既に大人として職業訓練を受けている状態なのです。

 

翻って日本の医学部受験は高校の受験勉強の一環として行われ、試験の偏差値によって本人の「医師になりたいという希望」とは別の所で医師になる可能性が判断されています。「医師という職業は勝ち組(医学部に入れば人生の目的達成と勘違いしている学生も多い)」といった報道もあって、受験生の医学部熱は相当高く、3浪4浪して医学部に入ってくる新入生も珍しくありません。4浪もするとアメリカで他大学を卒業してから医学部に入ってくる人達と年齢的には変らなくなるのですが、大学生として社会人になるための生活を4年間送ってきた人と大学入学のためだけに受験勉強を4年間してきた人ではやはり人生観や生活観が大きく違います。そして日本における問題は「医学部」に入ったからには一生医者をやる以外何のつぶしも効かない(芸術家や政治家になる手はありますが)一直線の人生であるということです。

 

高校生の時に勉強ができるというだけで医者以外つぶしの効かない一直線の人生を選択してきた理系の秀才1-2%が日本の医学部生であり、その人達にHow to重視の効率のみ検討された医学教育をやっていて良い訳がありません。

 

文部科学省と厚労省の違いか

 

私はアンケートの返事として、現在の研修医教育における不明な点や、指導医講習会で必修事項として研修すべき点として「いかに子供(お客さん扱い)である研修医に自分の利益にならない部分も受け入れて大人として医療を行なってゆく自覚を持たせるかの視点が明確でない」という点を指摘しました。勿論個々の研修医達は非常にまじめで一生懸命であることは確かですが、教える側が「いかに研修医を大事に扱うか」ばかりを指導要領として教示されていたのではまともな大人に「教わる側」が成長するはずがありません。

 

近年医学部入試も種々の改革がなされて、ただ受験の成績が良いだけで医学部に入学することがないように、東京大学以外の医学部では面接と小論文が必須の科目になってきています。つまり入り口において医師の資質のある人を医学部に入れようという試みで、基本的には正しい方向と思います。面接では「自分がいかに医師になりたいか」というモチベーションや「医師になってどのように社会に貢献したいか」といった心構えが聞かれるのですが、受験勉強しかしていない高校生に大人しかも医師として大成してからの心構えを問うことには自ずと限界があるようにも思います。面接に対するテクニックを教える高校も多数あり、医師としての適正を問うという本来の目的を達することは少し無理があるのではと思います。医者という職業に「かっこ良さ」の様な漠然とした夢やロマンを抱いて受験してくれるならば高校生らしくて良いのですが(私がそうだったので)、現実には昨今の医療事情を反映して「地域医療への貢献」とか「小児医療や夜間救急医療への身を挺しての献身」をまだ受験勉強しかしていない高校生に語らせるのはいかがなものかなあ、と感じます。

 

文科省管轄の大学では受験生の医師としての資質を問う方向になり、それなりに評価されるところはあるのですが、医学部在学中には社会における医療のありかたをじっくり考えるような時間はなく、国家試験を受けた後の厚労省管轄の卒後教育においては上記のように研修医をお客様扱いするので進んで激務と努力を要求される科に進む若い医師が少なくなる現状があります。厚労省には医学教育や医師のキャリアパスについて判っている官僚がおらず、アメリカの猿真似をする程度のことしかできないのですから、卒後教育も含めて医師の教育についての指揮権は本来大学に返すべきだと考えます。

 

その上で、入学の時点ではもう少し漠然とした心構えでも良いように思うのですが、大学在学中に社会における医療のありかたなどをもっとじっくり考える時間を与えて学生が大人になる機会・教育ができる体制を作り、自分が医師に向いていないと判断したら他学部にも編入できるような道を作った上で医学部後半(他大学なら卒業の年齢)から大人の医療人として社会に向き合えるような教育をしてゆくべきではないかと思います。その中で漠然と抱いていたロマンが難しい手術をマスターしたり、最新の科学を研究したり、田舎で自分の力量を発揮したりする実社会の要求にも答えて夢を実現する方向になれば良いのではないかと考えます。

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