rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

映画 ブリキの太鼓 感想

2018-10-29 16:36:09 | 映画

映画 ブリキの太鼓 1978年 西ドイツ・フランス 監督フォルカー・シュレンドルフ 原作ギュンター・グラス 主演ダフィト・ベネント(オスカル)

 

 戦争物っぽいけど今まで見れなかったこの映画を見る機会がありました。エログロ描写が強いという評判もありますが非常にインパクトのある印象的な作品でCGなどを駆使した昨今の映画よりもよほど考えさせる内容だと思いました。元々ノーベル賞作家のギュンター・グラスのやや自伝的な小説が元になっていて、小説を読むと印象が変わる可能性がありますが、3章まである原作を敢えて2章で終了させた意図もあったはずであり、映画を見ての感想を記しておきたいと思います。

 

ブリキの太鼓を叩くオスカルの有名なシーン          大人の欺瞞をしっかり見せつけられていよいよ不審がつのる

 

 主人公のオスカルは胎児の時から記憶がある、という設定で、大人の世界の欺瞞に嫌気がさして自分が三歳の時にわざと階段から転落した怪我が元で成長が止まったことにしたが、自分の意思で成長することをやめたことが語られます。3歳の誕生日にブリキの太鼓を貰うのですが、その太鼓を叩きながら大声を上げると、ガラスが壊れるという技が備わっている事が示されます。この技はオスカルから太鼓を取り上げて大人として成長させようとする周囲の試みを悉く失敗させる武器になります。オスカルが生きていた都市ダンツィッヒはポーランドにありながら国際自由都市として、ドイツ人、ポーランド人そして祖母が属したカシュバイ人たちが共存する町でしたがナチズムの浸透と戦前のドイツの国力増大に伴って街全体がナチズムに染まって行きます。この映画は反ナチズムが主題かというとそうでもなく、不倫や性の乱れ、政治的な大人社会の欺瞞全体に対する子供心からみた否定、というのが主題になります。オスカルは身体の成長は3歳で止めるのですが、精神の成長は年齢相応に進んで行きます。年頃になると小児の時に拒否していた「大人の性」にも目覚めて行く所が面白いです。精神的には少年のオスカルはそれを否定するかのように3歳の時にもらった「ブリキの太鼓」を手放さず叩き続ける事で周囲には子供のままであることを主張するのですが、サーカス団の小人芸人のベブラ師にだけは全てを見透かされています。小説では判りませんが、彼の存在がこの映画では大きな意味を持ってきます。3歳でオスカルを認めたベブラ師は自分が53歳であることを語り、「自分は10歳で成長を止めたけれど最近の子供は3歳で止めるのか。」と喝破します。数年後ドイツ軍の慰問団としてオスカルと一緒にパリやフランスの前線を周り、戦局の悪化とオスカルの恋愛対象である小人のロスビータの死亡で慰問団を解散してオスカルと別れることになるのですが、「大きな大人の言う事は信用するな。」と言い残して去って行きます。このベブラ師は成長を止めたオスカルが老成した時の完成形として描かれていたように思います。彼との生活、愛したロスビータの死を経て、最終的にナチスに傾倒した父親がソ連兵に殺されたことをきっかけにオスカルはブリキの太鼓を捨てて再び成長することを開始して、戦後の西側世界(米国とは描かれない)に向かって旅立つ所で映画は終了します。

 

ドイツ軍への慰問団での様子 ベブラ師との邂逅にその後の生活への意味が

 原作の小説が単純明快ではないから、映画もインパクトの強い場面が多く、筋を追ってゆくだけで大変で一体何を描きたかったのか後から考えないと理解できない感じです。田舎の農民の女性が4枚のスカートを履いていてその中が小さい世界として描かれる、性の描写も生々しく、馬の首で沢山のウナギを取るシーンや母のアグネスが生魚を次々に頬張って死亡する所など評者によっては「臭気」を見る者に想像させる強い描写力と表現され、その通りと思います。カメラの視点は3歳児のオスカルの低さであるし、時々映像自体が手ぶれしていてオスカルの視点そのものであることも感じさせます。ナレーションも大人びた少年オスカルの視点と声で語られるのですが、見るものはオスカルに「ある種の狂気」を感じ続けるので感情移入はできない状態が続きます。ただ狂気の程度が完璧ではないので「時代の狂気」と「オスカルの狂気」が同じ程度のように見えてしまう所が絶妙です。だから戦争が終わるとオスカルの狂気も終わるような造りが成立したのだと思います。小説では戦後、殺人事件に巻き込まれて精神病院に入ることになり、そこで若き日々を語るという設定で物語が進むようですが、映画の設定の方が判り易いです。私はこの「時代の狂気」と「オスカルの狂気」が同じ位であったこと、というのがこの映画の主題だったのではないかと思います。つまり反ナチズムや反戦といった判り易いテーマではなく、戦後も含めた「大人社会とされるものの欺瞞」が「オスカルの狂気と同じ程度」だろ、という多分単純好きのアメリカ人には理解できないドイツ人らしいこねくり具合が奴ら(ドイツ人)らしいなと感ずるのです。ちなみに物語の語り始めからオスカルが正気になってからもずっと慕い続ける祖母は祖国を持たないカシュバイ人なのですが、現在のドイツ首相メルケルも祖母はカシュバイ人であるとwikiにも記されています。一方ナチス時代には大道芸人、ロマ、小人、ジプシーといった人達は迫害の対象だったのでこのような慰問団というのが優遇されていたのかやや疑問です。一方現在のウクライナ政変の原動力になったのは反ソ連を主導した当時のナチズム党員達が元になっていることなど、東欧の民族問題の複雑さを感じます。そういった複雑さ全てを欺瞞として否定する「オスカルの潔さ」がある種の魅力として感じてしまうのかも知れません。

コメント (4)

「医療の質」を考える

2018-10-20 17:48:40 | 医療

余命告知なく死亡 賠償求め病院を提訴

「医療の質」という言葉はやや聞き慣れない言葉ですが、最近の医療業界では大変重要なことばとして注目されています。私も勤めている病院の「医療の質検証委員会」の責任者をしており、毎週委員会を開いて病院で行われている医療についての検証をしています。

 

「医療の質」とは何か

 

医療の質とは一体何かというと、「患者さんに対して、最小のリスクで最大のベネフィットが得られる医療が行えたか」という一言に尽きます。医療が身体に侵襲を加えるものである以上、リスクのない医療というのはありません。「毒薬も薄めて使えば薬になる」の例え通り殆どの薬は大量使用すれば致命的な毒になります。また医療は人間が人間に対して行っているものである以上、誤りを犯す事が皆無であるはずがありません。「to err is human」人は過ちを犯すものである、という前提で全て考えるのが医療では常識とされています。過ちを犯してもそれを早期に発見して、致命的な障害に至る前にリカバーをして正しい方向に修正する事が何よりも大事なのです。その状況を検証するのが「医療の質の検証」と言えます。

 

米国で1980年代に教育者として医療の質について活動してきた「ドナベディアンDonabedian, Avedis 1919-2000」はドナベディアンモデルとして医療を行う際の構造(環境)、過程(何を行ったか)、結果(医療の結果)に分けて検証し、提供された医療の質を評価することを提唱しました。つまり時代、社会背景、施設や医療従事者の状況によって提供できるベネフィットの内容が変わります。その最大の能力を提供して最も良いと思われる医療結果が導かれればそれは「医療の質」が高いと評価されるのです。

 

日本において「医療の質」は常に高いか

 

医師を含む日本の医療従事者が「高い質の医療」を提供したいと考えて努力していることは間違いないと思います。しかし結果的に行った医療の質が常に高かったか?については残念ながら疑問が多いと私は正直思います。患者さんによってはその医療の結果を「医療ミス」「医療事故」と認識することも多いでしょう。

 

今回の事例について、医学的状況が解らないのに軽々にコメントをすることはご遺族、医療者側どちらにも非礼なことだとは思いますが、報道されている内容からの類推で医療の質につながる所を述べます。この乳がんの患者さんは2009年に再発してから10年近く種々の治療を行いながら生活をしてきたことが記事から解ります。完治ではないながら、在宅でなくなる前日まで買い物に行けるくらいの状態で過ごしていたようです。次第に進行はしていても、外来で化学療法などを行いながら癌の患者さんを診てゆくのはなかなか難しい面があります。「がん救急」と呼ばれる分野の救急疾患があって、元気に暮らしていても何らかのきっかけで急速に状態が悪化する場合があります。癌の進行で腎動脈や尿管が閉塞して数日で急性腎不全になり高カリウムで突然死することもあります。化学療法で前回までは問題なかった量でも今回白血球や血小板が危険域まで減少して敗血症になることもあります。他にも緩やかに経過していた病態が急激に悪化してしまうこともあります。この患者さんの例はこのような経過であったかも知れません。「これは進行が急になった。家族に知らせなくては。」と思っているうちに不幸な転機に至ってしまうという経験も私もあります。家族にしてみると「こんなに悪くなっていたとは、」と思いがけない結果であることもあり、感じ方では医療ミスがあったと誤解されかねないこともあるでしょう。患者さん、家族との連携、情報提供というのは「医療の質」を考える上では「結果」につながる重要なポイントであり、大切なことだと思います。

 

医療の質の検証をしていると、高齢者の手術後の回復が十分でなく、手術がうまく行っていたのに不幸な転機となった例、化学療法後に肺炎を併発して回復しなかった例、検査後に出血があり、たまたまそこに感染など併発して不幸な転機となった例などあり、最小のリスクで最大のベネフィットからはほど遠いと感ずる医療もあります。自分の行った医療でも何とかリカバーはしたけど危ない所だった、患者さんには負担をかけたと反省する例も多々あります。個人のミスではなく、システムの問題でうまく行かなかった医療もあります(その場合はシステムの改善を行い再発を防ぎます)。患者さんや家族が医療に対して不満に思う場合、それが全て医療ミスではなくても「医療の質」が悪かった場合は十分にありえます。そのような事例は医療者側も謙虚に受け止めて再発のないよう改善に努める必要があると思います。

コメント

国家主義か社会主義かで割れる米国

2018-10-06 09:51:07 | 社会

米国は11月6日の中間選挙に向けて激しい選挙戦が繰り広げられています。与党共和党はトランプ大統領がアメリカファーストを掲げて国内の産業復興に向けてやや過剰なまでの諸外国(主に中国)への輸入超過是正、課税をアピールしている一方、民主党は若手を中心に「社会主義」政策を掲げる候補者が人気を集めています。

 

グローバリズムは富の再分配を行わない

 

民主主義国家の重要な役割は税収と言う形で国民・企業から集めた「富の再分配」を行い、社会の公平性や秩序を維持することにあります。しかし行き過ぎた拝金資本主義の下では、グローバリズムに基づく企業・個人はタックスヘイブンを活用して収益を挙げた社会に税は払わず、本社を法人税の安い他国に置いたり、収益を名義のみのタックスヘイブンに移してしまいます。日本の全商業を脅かすアマゾン・ジャパンも「本社・決済業務を他国で行っており、日本には集配施設しか置いていない」という理屈で法人税は払っていないそうです(「決裂する世界で始まる金融制裁戦争」渡邉哲也 著 徳間書店 2017年刊 )。グローバリズムも一応「トリクルダウン」という金持ちが金を使うことで貧乏人にも金が回って社会全体が底上げされる、という理屈を富の再分配の替わりに掲げていましたが、QEや金融緩和で金をいくら市場に放出しても富が一部に集中するだけである実体から、99%の庶民・国民から「もう騙されない」と言う声が上がって来ているのです。藤井巌喜氏の近著「国境ある経済の復活」2018年刊(徳間書店)で説明されているように、各国は債券(基本的には税で返すから増税と同じ)発行を繰り返して「富みの分配」を続けるものの、景気の良いグローバル企業・富者は税を払わない、それでいて企業や法人が米国では「市民」と同じ発言権を得て立法府に自分達に有利な法律を作らせ(企業献金はほぼ無制限)益々太って行く。そんな実体に国家という枠組みを再度堅牢に構築し直そうという動き(リベラルの名を借りたグローバリスト達は右傾化と呼んで恐れている)が出て来ているのが現在の世界の情勢なのです。

 

反グローバリズムの流れ

 

そこで米国で出現したのが地方の労働者層を中心とした「トランプ流国家主義」の流れと、前大統領選の民主党候補選びの際、特別代議員という企業の下僕達が全てクリントンに投票した一方で若者を中心とした一般の民主党員達の半数近くが支持したバーニー・サンダース議員が掲げる「社会主義」政策の流れです。8月に公表されたギャラップの調査で民主党支持層の57%が社会主義を肯定的に見ているという結果があります。NY州から連邦下院選に出るオカシオ・コルテス候補、ミシガン州のラシダ・トレイブ候補はメディアでも紹介されていますが、それぞれヒスパニック系、イスラム系の候補で「アメリカ社会民主主義者」という政治団体からの民主党候補です。この動きに従来からのグローバリズム民主党系の重鎮達は戦々恐々としており、ベトナム戦争以来の左傾化とも言われています(雑誌選択2018年10月号)。

グローバリズムからはトランプ流国家主義を極右、サンダースの社会主義は極左とレッテル張りがされますが、それぞれの主張は「反グローバリズム」で共通であり、「富の再分配」の方法が異なっているだけのように思います。

 

民主党サンダース議員とオカシオ・コルテス候補   イスラム系初の女性候補Rachida Tleib候補

 

追いつめられる既存エスタブリッシュ勢力

 

リベラルは不法移民の閉め出しを嫌います(安価な労働力がなくなるから)が、メキシコ経由の不法移民に混ざって流入するドラッグカルテル勢力、MS-13は米国の日常生活を脅かすほどの勢力になっており、トランプの主導する国境警備強化(うまく利用しているという批判もありますが)の重要な課題になっています。一方既存エスタブリッシュ勢力の雄であるカソリックでも激震が走っていて、米国、カナダ、西欧各国で聖職者による児童への性的虐待が次々に明るみに出て、2018年8月のフランシスコ法王のアイルランド訪問では野外ミサで民衆に謝罪する結果にもなっています。NPRラジオニュースでもその様子が録音で流れて聴衆から「謝罪以上にもっと被害者に対してやることがあるはず」といった不満の声も聞かれていました。

現在10月から始まる米国最高裁判事に新たにトランプ派のブレット・キャバノー判事が推薦されていますが、トランプ派から罪を追求されると困る人達(drain the swampの対象者)がでっち上げでもよいから判事就任を阻止しようとあがいています。中間選挙がどのような結果になるかは未定ですが、米国に日本のマスコミでは報じられない新しい流れが確実に現れて来ていると思います。

聖職者への批判が渦巻く

コメント (10)

日本人の死生観と仏教

2018-08-24 19:06:58 | 社会

 終末期医療を考える上で、日本人の死生観と仏教的な考え方というのは深い関連があるのではないかと思います。そうは言いながらも日常生活において、お寺にお参りには行くけれども、仏教というものを本当に理解しているかというと本当の所は理解していないとも言えます。今までも何度かブログで取り上げて来た題材ですが、白鳥春彦氏の「仏教超入門」ディスカヴァー携書203(2018年刊)に仏教について解り易い解説があり、死生観を考える上でも参考になったので検討してみます。

 

魂魄、輪廻の思想と仏教

 

 日本人は死生一体、死んでも魂は肉体(魄)から離れはしても消滅することはない、と考えていることは玄侑宗久氏の不二と両行(死生などを二つに分けない、矛盾する二つの物をどちらも活かす)という日本人的な考え方につながっている所で紹介しました。この魂と肉体という概念は儒教や道教から来るもので、本来仏教の基本的な考え方ではありません。仏教では「死」も「生」も全ては「空」である、というのが正しい解釈で存在としての魂といったものを特別重要視していないと思われます。「空」といっても存在が無い「無」という物とは異なり、過去から未来にかけての現在の刹那はそれぞれの縁起によって実際に起こっているけれどもそれを「ある」とか「ない」とかで定義付けして拘ることをしない、と言う意味の「空」という考え方のようです。

 般若心経は仏教の神髄を表した基本的な教典で、わずか300字程の中に「悟り」に至る境地が読み込まれていると言われます。内容的には世の中の物は感ずる事も苦しみも全ては「空」であり、「空」であることを理解すれば「悟り」に達するから魔法の呪文「ギャテイ」を唱えて一切の苦から開放されよう、という経です。有名な「色即是空」などは、以前は「性欲を超越せよ」みたいに理解していたのですが、肉体は(苦を感ずる意識と同様)無であると言っているにすぎない。西遊記に出てくる「悟空」というサルは仏教の神髄である「空」を悟るというすごい名前がついたサルだと気がつきます。

 

 葬式において、仏教は切っても切れない宗教ですが、先祖を祀る事も、死者を弔う事も、実はあまり仏教の神髄とは関係がないということが解ります。日本古来の神道においては、墓さえないのですから、仏教は日本に渡来してから今までの変遷において、江戸期の人別帳代わりの檀家制度などを通じて日本人の生活の中にあまり細かい教義を押し付けないでうまく溶け込んで来たのだろうと思います。

  この「仏教超入門」で知ったのですが、小泉八雲の有名な怪談、「耳なし芳一」は琵琶法師の芳一が全身に「空」を表す般若心経を書かれたが故に、平家物語を語らせるために芳一を連れに来た「さまよえる魂」の平家落人の武士からは経文の書かれていない「耳」以外は見えなかった、というのが話の根幹をなします。この話は仏教の神髄と日本的な魂魄の考え方、死生観がうまく組み合わさった逸話になっていて興味深いと思います。

 

死を一段上のステージとみなす日本人

 

 我々は亡くなった人を「仏さん」と言い、死ぬ事を「成仏」と表現します。

 仏教では「仏」とは悟りを開いた人を指す言葉であり、釈迦のみを指す訳ではありません。修行中の菩薩から悟りを開いた如来になって「仏」になるのですから、死んだだけで「仏」になれる日本人はかなり優遇されていると言えます。「迷わず成仏してくれ」というのは「お化けになって出てくるな」という意味ではなく「あの世で悟りを開いて仏に成って下さい」という意味です。英語では遺体は単に「body」と表現されますから、戦争で亡くなった敵でも「仏さん」と言って敬う日本の心はかなり優しいと思います。Shootingゲームの世界でも外国語版では飛行機を撃墜すると”He goes to hell!!”(地獄行きだぜ)とテロップが出ますが、日本語は「お陀仏だ」(悟りを開いた)となります。日本においても神道では死を「穢れ」とする習慣があって、清め塩などに名残がありますが、いつの頃からか、死者は現世の人間よりも敬うと言う方向に変わって来たと言えます。

 

終末期医療と仏教

 

 死は容易には受け入れ難い恐怖でありますが、日本的仏教の考え方で、全ての苦から悟りを開いて「仏」になる、しかも魂は生き続ける、となると必ずしも絶対に忌避すべき物、怖いものではなくなるように思います。仏教においても自死・自殺は周囲との「縁起」を自ら絶つ行為であり、悟りとは結びつかないとして認められていませんが、与えられた生を全うした末に「仏」になるのであれば、「修行が足りない」人生であっても悟りの度合いはどうあれ許される物かも知れません。その意味で成仏を迷わせるような医療を終末期に行うことは医師として避けたい、安らかに人生の終末を迎える上で役に立つ医療を行いたい(具体的に表現するのは難しいですが)ものだと思います。

コメント (8)

グレゴリー・ペック主演の映画2題と米中露北朝鮮情勢

2018-07-31 16:19:11 | 映画

勝利なき戦い(Pork Chop Hill) 1959年 米国MGM ルイス・マイルストン監督 主演グレゴリー・ペック(ジョークレモンス中尉) ジョージ・シバタ (スギ・大橋中尉)

概要:Wikipediaから

1959年アメリカ映画朝鮮戦争の最終局面、板門店で休戦協定会議が開かれる中、交渉を優位に進めるために両軍が国境付近の丘を巡って不毛で熾烈な争奪戦を余儀なくされる。

1953年に起こったポークチョップヒルの戦い英語版)を題材としており、主人公のジョーゼフ・"ジョー"・クレモンス英語版)中尉は実在の人物である。

あらすじ

休戦協定を少しでも有利に進めるため、クレモンス中尉(グレゴリー・ペック)率いる米陸軍の部隊に対して板門店の近くにある中国人民義勇軍に占拠された丘「ポークチョップヒル」を奪取するように命じられる。休戦を間近に控えた部下の兵士らの士気が上がらない中、丘を巡って両軍の激しい争奪戦が繰り広げられる。

映画自体のアメリカでの評判は今ひとつのよう。  戦闘場面は大量の中国軍など独特。    副官の日系大橋中尉が良い味を出しています。

感想:

トランプ 金正恩会談で朝鮮戦争の終結が話題になる中、休戦協定直前の中間線における両軍の激しい、しかも内容的には虚しい攻防を描いたという点で朝鮮戦争の実相が浮き出されていると言えます。戦闘場面は迫力があるものの、この映画は朝鮮戦争や時代背景をある程度理解していないと解り難い部分があるように思います。

北朝鮮軍がソ連の支援を受けて1950年6月25日に突如(米国がわざと隙を見せたという説も)南北境界線を突破して南進して始まった朝鮮戦争ですが、韓国駐留米軍が国連の決議を経て国連軍としてマッカーサー指揮の下、仁川上陸で形勢逆転、中国の境の鴨緑江まで北朝鮮軍を押し返します。ここでマッカーサーは台湾の蒋介石と計って成立したての共産中国に攻め入りそうになります。危機を感じた毛沢東は廃残国民党軍の多数の残党を後方から「督戦隊」が銃で脅し、「せめて中国のために死ね!」とばかりに装備の整った国連軍の前線に「人海戦術」で送り込みます。倒しても倒しても雲霞の如く押し寄せる中国軍に米軍を中心とする国連軍は38度線まで押し返され、そこで膠着状態のまま1953年7月に停戦協定が国連軍と中国北朝鮮の間で結ばれて今日に至ります。

 この映画はこの停戦協定間際での戦いを描いており、米軍の兵隊は全く戦意がなく、早く停戦が適って帰国したいと皆考えています。戦う相手はこの時点では北朝鮮ではなく、中国人民解放軍に変わっていて米中の代理戦争が行われていたのが実体でした。

 面白いのは、主役のクレモンス中尉の副官として日本人二世(と思われる)スギ・大橋中尉というのが全編に渡って主人公から信頼され、かなり良い働きをする様が描かれる所です。1959年は60年安保で世の中が揺れていた時代であり、反安保、反米感情も国内で強かった時代です。また59年には二世部隊の英雄ダニエル・イノウエ(ホノルル空港の正式名に引用)が米国初の日系上院議員になり、戦争中の日系人強制収容などの見直しがなされていた事とも関係するかも知れません。さしずめ現代に直すと「集団的自衛権の発動で米軍と自衛隊は信頼しながら協力して戦おう」というプロパガンダになるかも知れません。後半の白兵戦で突撃をする場面で大橋中尉は「先祖達は万歳突撃を得意としたからね。」と冗談めかして言う場面があるのですが、朝鮮戦争のつい数年前に日本軍が行っていた事です。トランプは金正恩と終戦協定を進めていますが、この映画で描かれるように現実には中国と終戦をしないといけないように思われます。

 

 

渚にて(On the Beach) 1959年 米国MGM ネヴィル・シュート原作 スタンリー・クレイマー 監督

主演 グレゴリー・ペック(タワーズ中佐 潜水艦Sawfish艦長) エヴァ・ガードナー(モイラ)アンソニー・パーキンス(ホームズ大尉)

 

 あらすじ

米ソの核戦争によって北半球が壊滅し、人間を含む全ての生物が放射線で死滅してしまった所から話が始まります。米国潜水艦Sawfishは核戦争を生き延びて未だ放射線プルームが到達していないオーストラリアの南側にある都市、メルボルンにやってくるのですが、放射線のプルームはやがて同地にも到達する運命にあります。映画は自分達が起こした訳でもない核戦争によって死に至る運命にある人達の苦悩を淡々と描いたものですが、当時は本当にいずれ近いうちに核戦争が起こると世界中が考えていた時代であったのでこの淡々とした描き方に説得力があります。活劇やスペクタクルはありません(ストーリーと関係ない自暴自棄の自動車レースはある)。潜水艦で偵察に行く太陽に照らされたサンフランシスコの無人の街(どうやって撮影したのか)がとても不気味です。メルボルンの市民達は最後放射線障害で苦しむことがないよう、子供達の分も含めて自殺用の薬を政府から配給されます。主人公達もそれを服用してメルボルンの街も無人になる所で映画が終わります。

 

まだ時間はある・・というのは当時の世界へのメッセージか。

 感想

現在においても米露は人類を何回も絶滅できる数の核爆弾を保有し続けています。米露が戦争をすることがあっては絶対にいけません。しかしトランプとプーチンが仲良くすることに対して、世界中は非難囂々です。日本でも比較的リベラル・反戦を唱えるマスコミ勢力でさえもがトランプのロシア外交を批難しています。核戦争を回避するには、首脳同士が信頼関係を結び非戦の誓いを立てる他ないのに、トランプの外交を批難するリベラルというのは所詮「似非平和勢力」であったことが明確になりました。恥を知れ!と普段偉そうな事を言っていたマスコミを思い切り軽蔑したいです。二度と自分達を平和愛好家などと自慢するな!と言いたい。

 

当時はありませんでしたが、現在コロラドやテキサスの都市地下には広大な核シェルターがあり、一部の金融支配層は核戦争が起きても生き残れるように準備が整っているようです。モスクワにも市民全員が入れる核シェルターがあると報道されています。シリアやウクライナでしきりにロシアと戦争を起こさせようとしていた勢力は、何があっても自分達は生き残る前提で仕掛けていたのでしょう。そのような動きを批難・報道しないメディアの「腰抜けぶり」には反吐が出る思いです。

 

トランプと金正恩トップ会談のその後ですが、私はやはり北朝鮮内部の調整が取れていないために進展が遅いのだろうと考えています。中朝の協同歩調による離反という説もありますが、中国の習近平体制は今北朝鮮に関わって米国に敵対する余裕はないように見えます。貿易戦争では負けつつ有りますし、EUに接近していますが結構足元を見られているようにも思います。結局「中国が損をしない範囲で北朝鮮を処分する」という方針は変えようがないでしょう。

トランプの米国内での政治体制ですが、確かに中間選挙を意識した調整に苦心している事は否めないでしょう。ロシア疑惑もしつこく報道されていますが、金融Deep state側の犯罪もどこかで暴露追求(メディアが報じないので出し方に工夫が必要)して逆襲を計っていると思われます。ただネタニヤフとの蜜月、イランとの対立をどこまで行うのか、プーチンとは先日の直接会談で(2時間近く通訳のみで会談したという)ある程度打ち合わせを済ませていると思われますが、現状では政権の不安定要因であることは確かです。

コメント (6)

2018大河ドラマ「せごどん」の「大欠点」と「一寸だけ良い所」

2018-07-30 21:43:26 | その他

日曜夜8時といえば、小中学生時代はNHKの大河ドラマと決まっていました。1970年代の事でしょうか。当時は日本史に詳しくないながらも、「樅の木は残った」、「天と地と」といったいまだに名作と言われる大河ドラマがあり、印象に強く残っています。しかし大人になってからはとんと見なくなりました。長丁場のドラマを毎週見れる身分でなくなった事もありますが、あまり面白いと感じなくなった事も大きい原因です。

 

ところが昨年ひょんなことから「女城主直虎」の第一回目を見たら「面白い」と感じてしまい、毎週楽しみに見るようになりました。昨年の「直虎」は期待を裏切らず、最終回まで次はどうなることかとワクワクしながら見る事ができました。家康や信長との確執など、歴史の新しい解釈(こういうのも有りかな)が楽しく、また今まで光が当たらなかった今川氏真などの人物像を描いた所も新鮮でした。

 

新しい大河の姿を見せた直虎    途中退場なのに存在感抜群だった小野政次  したたかに生き抜いた姿が新鮮な今川氏真

次の年は明治150年を記念して「西郷隆盛」の生涯か、と非常に期待して今年の大河が始まるのを待っておりました。しかし・・今年の大河は「大外れ」であります。まず人物がつまらない、ストーリーにワクワクしない、画面に工夫がない。今年の大河のダメ出しについてはいろいろな所で語られていますので、詳細は省きますが、一番の欠点だけ指摘しておきます。

 

「主要な人物の生き方のバックボーンを描かない事」

今年の西郷は「皆から愛される西郷」を描く、と脚本家が述べたということですが、西郷隆盛は自身の損得や出世よりも「天に向かって恥じない生き方」を常にしてきたと思います。江戸の街をわざと荒らしたり悪い事もかなりやりました。しかしそれは他国に侵略されない新日本を作るという島津成彬の理想を実現しようとする過程における手段として行って来た。そのような「天に向かって恥じない」所こそ皆が愛した理由だとして描くならば見応えがあるのですが、毎回「表面的な良い人ぶり」「民のため」とか「戦争は否」とかそのような台詞で皆に愛されるという描き方では全く説得力がありません。底知れない悪い事もするけどよく見て行くと「天に恥じない生き方」が通奏低音として見えてくる、といった描き方こそが1年を通じてドラマを作る大河の醍醐味でしょうに。このドラマは複雑な幕末の薩長・幕府・朝廷の事情や考え方、事件を殆ど説明することなく、適当に西郷の周辺に起こった事だけを繋いでドラマが進んでゆくので、幕末とは、明治維新とは、といった中身は自身で勉強するか、時代背景は考えず無視するかしないとさっぱり理解できない造りです。おまけに「侍」というものの魂を全く無視しているので簡単に仲間内で刀を抜いたり、上の者に刀を向けたりします。そして役中の善玉悪玉の区別が小学生並みに明らかすぎる。遠山の金さんや水戸黄門でももう少し丁寧な造りをするのではないかと残念に思います。

 

この銅像も薩長史観に基づく

一寸良い所

最近は新しく見つかった資料を元に史上語られて来た薩長主観による明治維新の見直しがなされて来ています。勝てば官軍で薩長によって新しい斬新な思想の明治政府が作られた。征韓論に敗れた西郷は不満分子に祭り上げられるようにして西南戦争を起こして死んだ。そこで古い体制が終焉して帝国日本が築かれて行った。とされていますが、実際の明治政府はグダグダであったし、幕府の方に私利私欲に捉われない優れた頭脳の知識人が多数存在していた。西郷は征韓論には反対であり、西南戦争も政府を諌めに旅立った西郷をかねて用意周到準備を整えていた政府軍が一方的に成敗した、というのが本当の姿だったようです。このドラマの良い所は、わずかですが端はしにこの新しい解釈を入れている所です。第一回目冒頭の上野の西郷さんの銅像除幕式で3番目の妻「いと」が「あの人はこんな人ではない!」と叫ぶ場面から始まるのですが、このストーリーは本当のようで、「犬をつれてウサギを追っている暇人」ではなく、「常に軍服に身を固めて天に恥じず生き、背筋を伸ばし天下のために生きた人」だというのが「いと」にとっての西郷だったということです。しかし明治新政府にとってはその西郷を銅像にすることは不可であった(実際に軍服姿のものから作り替えたそうです)。その西郷の真の姿が1年のドラマで見られるかと期待したのですが、大外れだから残念至極なのです。

コメント (12)

So whatだけど素晴らしい

2018-06-27 18:52:35 | その他

 NHKの科学番組は時に解り易く面白い内容の物があります。BSプレミアムで6月7日22:00から放送されたコズミックフロント☆NEXT「重力波 天文学を変えた奇跡の2週間」もその一つでした。アインシュタインがある(はず)と理論付けしながら、実際に測定することができなかった重力波が2016年に初めて測定され、この重力波がブラックホールや中性子星の変化で放たれる事が解ってから、新たな「重力波天文学」の幕開けであるとまで言われていました。

 

 私も実際は理解できていないのですが、宇宙(現実世界)には重力、電磁力、ミクロレベルの(電磁力より)強い力、弱い力の4種類があって、全ての現象はこの4つの力で説明できるとされます。重力は「空間のゆがみ」だそうですが(この辺から感覚的には理解不能になる)、その小さな変動を波として捉える方法が90度直角にしつらえた4Kmに渡る管の中をレーザー光線を当てることで事が可能になったというものです。このLIGOという装置は米国の南部(ルイジアナ-リビングストン)と北部(ワシントン州-ハンフォード)にあって、同時に測定された「ゆがみ」が同一であればそれは「宇宙からの空間のゆがみ」=重力波を捉えたものであるということです。

 

LIGO施設(ハンフォード)                 初めて捉えられた重力波(2016年4月号Newtonに掲載されたもの)

 今回の番組で何が感動的かというと、このLIGOで2017年8月17日にたまたま1億3千万年前に起こった中性子性の衝突によって起こった重力波が捉えられた、というニュースが瞬く間に世界中の天文学者に共有されて、真夜中や早朝を問わずそれぞれの分野でその解明のための研究が動き出した事です。特にどの中性子星が衝突して得られた重力波なのかという追求が素晴らしい。設定の方角が異なるイタリアの重力波測定装置VIRGOでは測定できなかったことから、その角度設定に影響を及ぼさない方角からの重力波である、という仮定で仮説が立てられて、衝突後短時間で輝きが出現して消えてしまう中性子星の衝突を光で捉えるために世界中の天体望遠鏡が協力して可能性のある方角の観測を始める。そして南米の大学院生が当番であった観測所からのデータから、とある小さな点でしかないはるか宇宙のかなたの中性子星の衝突の場所が特定されるという展開になります。この点は世界各地の天文台で観測を続けるうちに数週間で消えてしまうのですが、その変化によって金やプラチナの宇宙における生成過程も明らかになって、それらの多くに日本人の研究者もかかわっていることが紹介されます。

 

中性子星の衝突の想像図(キロノバと言うらしい)

 まあこのような事が人類の幸福に貢献するのかというとそうでもないように思いますし、「それで?」という感じでもあるのですが、何より「重力波で中性子星の衝突を捉えた」という事実からこれだけ多くの世界中の研究者達がその意義を理解して夏期休暇返上で一斉に協力しながら研究を進める、そこには人種、宗教、経済の対立もない所が素晴らしいと感じました。観測から作成された論文には世界中の天文台の観測者達の名前も載るのですが、浮世離れした世界でも追求される真実は一つと言う所が良いと思います。医療の世界ではデータの再現性は実は一流と言われる雑誌の論文でもあまり高くありません。基礎医学のデータは70%、臨床医学では50%の再現性があれば良い方です。しかし物理や化学では100%の再現性が求められます。世界中の天文台から集められたデータで一つの真実に迫るということが普段やや再現性が緩んだ論文を見慣れている私には新鮮だったのかも知れません

コメント (3)

日本の医学部進学システムについて思う

2018-06-18 23:39:16 | 医療

 医学部の学生や若い医師達に指導医として接していると、多くの若者達は「良い医者になろう」という意欲が見えるので安心なのですが、一部「この人は医者には向いていないのではないか。」と考えざるを得ない人達もいます。以前にも指摘したことがありますが、これは日本の医学部進学システムの問題ではないかと思います。米国では医学部は一般大学を卒業してからbusiness schoolや法律家になるlaw schoolのように専門家になる専門学校として進学します。だから難しい入学試験であるMCATに合格しなければ他の職業に大学卒として就く事が可能ですし、自分は医者に向いていないと気付いて医学部の途中で退学しても他の職業を選べます。しかし日本では高校の1-2年の間、15−6歳という年齢で自分が一生の職業として医者を選ぶ事を決めねばなりません。そして理系進学者の上位1%に入れば、ほぼ間違いなく医学部に入学できます。しかし医者、特に臨床医は数学や物理の素養が天才的である必要は全くなく、むしろ卒なく人付き合いができて、広く注意散漫でない、目端が利く人間であることが求められます。また他人に対して思いやりがあり、患者さんを実験台とか練習台としか考えないような人は医者失格です。ところが、高校で数学や物理化学が上位1%に相当する位よくできる人が、上に示した素養を持っている保証はどこにもありません。全く異なる素養だからです。

 

 勿論医者は理系で科学的な思考法ができねばならず、覚える事も多いので暗記が得意でなければなりません。また死ぬまで勉強を続ける必要があります。だから勉強嫌いや暗記不得意者はハナから失格です。現在の各医学部の教育シラバスはほぼ共通の内容になっていて、どの医学部を卒業しても一定の臨床医としての規準を満たす素養を叩き込む事になっています。つまり高校1-2年で医学部進学を決め、医学部に入学したらほぼ同じような規準を満たした卒業生の姿で医学部から送り出され、国家試験を受けてこれまた日本国中で同じようなしくみの初期研修プログラムに沿って2年間の臨床研修を行うことまで運命付けられています。医学部に入学したら医者以外の職業選択枝はありません。超優秀な人は司法試験にも受かって弁護士になったり、政界の道を選ぶ人もいますが、それも一度は医師国家試験に受かるというステップが必要です。臨床検査技師や理学療法士になることもできません。鍼灸やマッサージの資格も医学部では取れません。警察では検死を行う検死官が不足していますが、解剖学や生理学の知識があっても医学部で学んでいたというだけでは資格は取れません。私はどうもこの一方通行しか許されない医学進学のシステムはどうにかならないかといつも思います。他学部から医学部2年生への編入、医学部4年生から他学部への転出といった道がもっとあっても良いのではと常々思います。

 

 他学部を卒業してから医学部に入り直したり、編入して医師になる方も少数ながらいます。なかなかユニークな人が多いのですが、それなりに強く思う所があって医師になっただけの事はあると感ずることが多いです。一方、私が「この人は医者に向いてないかも」と思う人でも医者以外の職業であれば大いに成功したであろうという人が多いです。協調性に欠ける人もその押しの強さは起業などでは成功に必須のアイテムになるでしょうし、冷徹であることは物理学やある種の商品開発などでは緻密な研究に有利に働くでしょう。天才的な数学や物理の素養は将来の原子物理学や日本のエネルギー開発のために使っていたら大きな飛躍の素になった可能性があります。それがお年寄り相手の生きる上で必須と言えないかもしれない医療を遂行するために使われるのは日本国にとっても不幸としか言えないように思います。

 

 最近の医学部の学生は、10-20年前に比べると真面目で良く勉強している印象があります。授業に行っても皆良く聞いています。良い子であること自体、それは悪くないのですが、もう少し自由で人生に疑問を持って斜に構えて悩んでいそうな学生の方が、吹っ切れて医者になってから人間味のある良い医者になるような気もします。今年の医師国家試験など見ると、いよいよ一定の方角を向いて勉強していないと(良い臨床医になる心構えで学生のうちから取り組んでいないと)合格しないような内容に改変されてきていることが解ります。医学部を目指す高校生達はこういった現実を十分理解して勉強しているのでしょうか。高校の進路指導の先生達も成績のみでなく、こういった現実を踏まえた指導が必要になるように思います。

コメント

映画「ある戦争」感想

2018-06-12 00:10:51 | 映画

ある戦争 (Kriegen) 2015年 デンマーク 監督トビアス・リンスホルム 主演ピルー・アスベック(クラウス・ペダーゾン)2015年アカデミー賞外国語映画賞ノミネート

 あまり期待しないで見たのですが、とても良い作品だったので紹介します。デンマークは米国主導のアフガニスタン紛争における不朽の自由作戦にNATOの有志連合諸国として参加、戦死者も出しています。これは国連の平和維持活動とは異なり、米国との集団的自衛権に基づくタリバンとの戦争にあたります。あらすじは以下(ネタバレあります)—

 アフガニスタンのカルザイ政権支援のために駐留するデンマーク軍の部隊長、クラウス。3人の子と妻マリアを国に残して命がけの任務に没頭する彼は、ある日のパトロール中にタリバンの襲撃を受け、仲間と自分を守るため、敵が発砲していると思われる地区の空爆命令を行った。しかし、そこにいたのは民間人だった事が判明。結果として彼は、11名の罪のない子どもを含む民間人の命を奪ってしまった。帰国後、クラウスを待ち受けていたのは軍法会議。愛する家族に支えられながらも、消えることのない罪の意識と、過酷な状況で部下たちを守るために「不可欠」だった決断との間で揺れ動く彼に、運命の結審が訪れる。

本作は前半が戦場、後半が裁判とはっきり分かれた構成になっています。

 

非常にリアルな戦場の場面                                   隊長は裁判のために帰国するが・・

 

 主人公クラウス・ペダーソンが率いるデンマークの国際治安支援部隊の隊員ひとりがIEDによって吹き飛ばされ死亡するところから始まる前半。ドキュメンタリータッチで描かれる戦地での状況は非常にリアルです。これらシーンはもしかすると将来派遣されるかもしれない自衛官の人達にとっては他人事でなく感ずるでしょう。無為に死んで行く若い兵士を見て、アラブ系の移民?のやはり若い兵士が「こんな任務に何の意味が・・」と神経症に。クラウスは皆を鼓舞して自分達の任務がアフガニスタンの人達に受け入れられつつあるとして率先してパトロールに出かけます。しかしその後の展開で自分達のために村人がタリバンに殺され、助けを求められたのに助けてやれず、任務が無意味と嘆いた兵士が首を撃たれて死にかけます。部下を助けるために敵が撃ってくると思われる方角に空爆を指示するクラウス。その甲斐合って兵士は助かるのですが、空爆をした場所には子供達を含む民間人がいて11人が犠牲になります。

 その後クラウスは敵の存在の確証(PID)を得ずに空爆を指示したとして軍法会議にかけられます。PIDを得ていない事にクラウスは罪の意識に苛まれるのですが、裁判結審に近い6ヶ月目に部下が「敵の発火を見た」という証言によって無罪となります。

 

(あらすじ終了)

 私はこの作品、アメリカン・スナイパーゼロ・ダーク・サーティよりもはるかに内容としてはクオリティの高い作品だと思います。作者はこの1本の作品の中に実に様々な問題提起をなし得ています。つまり

1)アフガン紛争への参戦は集団的自衛権の発動として適切か。

2)テロとの戦争に軍という組織を用いる事は適切か。

3)軍の駐留とパトロールが当該国の平和維持に役立つのか。

4)戦争において国際法は確実に守られるのか。

 といった事です。

 この作品で後半時間をかけて審議しているのは4の敵を確認せずに無差別に爆撃を指示した結果民間人が犠牲になった事は戦時国際法違反であるという部分だけなのですが、1)から3)の問いかけが直接間接的に作品中でなされて、それについては審議されることはありません。僅かに3について兵士から疑問が呈されるだけです。

作品の後半では4について時間をかけてクラウス個人を裁くのですが、クラウスが意図的に民間人の殺戮を行ったのではない事が明らかであるので、民間人が誤爆されたのは「事故」という扱いです。しかしPIDを意図的に無視した事は軍紀違反であり、その結果「重大事故」が起こったのですから、民間人を意図的に殺戮すれば終身刑になるものの、PID無視では最高刑である懲役4年が求刑されるという展開でした。

 この「事故」自体の責任を個人に問わない、というのは非常に法律的によく検討された内容と思います。交通事故、飛行機事故、医療事故、これら意図的に起こしたものでない事故による障害や死亡の責任は「個人の問題」と「システム・環境の問題」に別れ、個人の過失などが明確でなければ個人に罪を問うことはできません。信号が両方とも青で車がぶつかったならそれは信号のせいであって個人のせいではありません。上記の問題4で起こった事が「事故」であって、その原因が1、2、3の国家・政治のシステム的な事が原因で必然的に起こったということになると、国家の選択自体を法廷が裁く事に成る、だから法廷ではクラウス個人のPID無視だけを審議したということなのです。そもそも「アルカイダを匿ったから」という理由でアフガニスタンという国家を転覆させる事に、集団的自衛権を理由にデンマークのような全く関係ない国が軍で他国を侵略する事は適法性がありません(1)。私が前から主張するように、テロとの戦争に軍という組織を使うことは適しておらず、様々な不具合が生じます(2)。昼間時々パトロールに軍が来るだけで、いずれそれらが撤退して去ってしまう事が解っている状態で、タリバンのような地元に根ざした敵対勢力を根絶する事は不可能で、方法論として誤りです(3)。つまりシステム的に不適切な1−3の状態を放置して、その結果生じた「事故」(4)に個人の責任を問うことは無理があるのです。それなのに隊長であるクラウス一人に罪を追求する所に観客は釈然としないものを感ずるのです。システムの問題を正さず、個人の罪を求める法廷の馬鹿馬鹿しさに、部下の一人が「私が敵の砲火を見た」と後から嘘の証言をして決着をつけた事に、恐らく検事、判事、弁護人や関係者全ては承知の上で「無罪結審」を示したように見えます。このあっけない終わり方がまた観客に何か不条理感を抱かせる良い演出であるように感じました。

 

有名な人魚姫の像

 デンマークは一度訪れた事がありますが、コペンハーゲンは落ち着いた伝統ある奇麗な街で国全体はのどかな田園風景が広がる農業国でした。税金は高く、自動車一台買うと同じ額の税金を払う社会保障の充実した国です。一方でバイキングの歴史があり、グリーンランドもデンマークでアイルランドも昔領土でした。独仏よりも先進的であるデンマークが現在戦争状態にある国家で、このような課題を真剣に抱えているという事に改めて感慨を覚えます。デンマークでさえこれだけの悩みを持ち、解決ができないのですから、法整備も国民の心の準備もない日本が集団的自衛権などをあまり軽々に決めない方が良いのではないか、単なる無責任で「問題が起こってから考えよう」では遅いのではないかと強く思いました。日本人にとって一見の価値のある映画だと思いました。

 

コメント

生きるということ

2018-06-08 17:54:37 | その他

 最近のブログへのコメントなどを踏まえて、やや漠然とした内容にはなりますが、自分が還暦を迎えたこともあり、「生きる」ということについての考え、意義などについてまとめておこうと思います。

 

人生は修行だと思う

 

 基本的に自分は仏教的な考えであり、人類が古くから自然と持っている「輪廻転生」の考え方が正しいと思います。一神教においては、人生は1回であり、神は死後審判を下して天国か地獄に行くということになっているようですが、どうも欧米の小説や映画を見ても「死後の世界はある」「輪廻転生がある」という前提で描かれた物が多く、しかもあまり異論なく受け入れられている所から「人生は一回きり」と本音では思っていない人が沢山いることが解ります。

 仏教的な考え方では、人間の今生は前世からの種々の業や因果によって規定され、現在の私は色、受、想、行、識の五蘊の統合による仮の姿(仮我)として認識されます。前世の五蘊は全く同じままで今生に引き継がれるというものではなく、種々の魂は交錯し得る物のようです(魂自体が複数あって一部が抜けると呆となる)。人間は徳を積む事で魂は次のステージに上がるものとされますが、罪を犯し、今生で償う事なく次ぎの人生に引き継がれる事もあるでしょう。

 

 罪を犯したにもかかわらず、償う事なく死んで行く者は、次の人生で黙々と徳を積む他ないと思いますし、罪を償う気さえない者は神からチャンスを与えられる事なく地獄行き(か人間界から追放=日本霊異記では畜生道、餓鬼道、地獄道の世界へ)となる「あはれ人」になってしまいます。今回の人生で夭逝するなど本懐を遂げる事なく不本意に終わる人も沢山おられますが、神は次の人生で今回果たせなかった夢を叶えるチャンスを与えて下さるだろうと思います。だから与えられたチャンスは活かして、大いに精進に励む事が「生きる」意義なのだと考えます。米国では優秀な若者が若い時は必死に働いて金を稼ぎ、四十代半ば以降は享楽的な人生を送るのが成功者の理想的人生だ、とする人生観を聞いた事があるのですが、私としては違和感を感じます。神は「優秀な才」をそのような人生を送るために与えたのではないだろうと。米国エスタブリッシュ達から何となくにじみ出る「軽薄さ」「あなた生まれてこなくても世の中困らなかったのでは?」のような感じはそのような人生観にあるのではないかと私は感じます。

 

 孔子の教えに三十にして「立つ」、四十にして「迷わず」、五十にして「天命を知る」とありますが、大体五十歳になれば、「今回の人生の意義、使命はこのような事だったのだろう」と理解して以降の生き方を定められるようになります。私も今回の人生は「一介の医師として可能な限り人の役に立つよう努力する(名誉、栄達、金銭ではなく)」というのが天命なのだな、と感じたのでそのように生きるのが自分にとって「徳を積む」ことになるのだろうと考えています。

 

清濁合わせ飲むということ

 

 社会の一員として生活してゆくには、必ずしも自分の理想や良心のままに全て事を運ぶことが許されないことがあります。最近社会で問題になっている組織の問題もそこに根ざしていると思います。所謂「おとなの対応」とか「組織の論理」という言葉で表現されているものです。また自分の利益のために必ずしも相手の利益にならない事を推し進める事もあります。これをどこまで許容するのか、というのは生きて行く上でかなり深刻な問題です。

 

 私は防衛医大出身ですが、大学当時はまだ反戦左翼全盛の時代で「自衛隊の存在」自体が許されない、といった雰囲気がありました。高校の同級生からも「人殺しのために医者になるのか」みたいな批判を受けましたし、ベトナム戦争で米軍が行った非人道的な事が取りざたされ、冷戦まっただ中の頃でもあり、将来自衛官になった時に米軍と共に戦場に行くような場合どのような心構えで行くか、といった事を真剣に大学の同僚達と話し合ったりしたものでした。森村誠一の「悪魔の飽食」といった731部隊の話も話題になっていました。そんな折、大学の倫理学の先生に「自分の本懐に沿わない命令を下された時にどうするべきか。」という問いを悩める青年達がぶつけました。

 先生は「日本には職業選択の自由がある。自分がどうしてもできない命令であれば職を辞するしかない。しかし少しでも意に添わなければ辞めるといった態度はよろしくない。自分が許容できない限界、red lineをはっきりと決めておきなさい。そこまで行かない命令は意見を言うのは良いとしても命令であれば最終的には従うのが社会人、組織人としての勤めだ。その覚悟で辞表は胸にいつでも用意しておきなさい。」と指導されました。これは自衛官のみならずどこの社会でも通用する至言であると思っています。このような指導をしてくれた倫理の先生を私は今でも最高の教育者であると尊敬しています。私は卒業後12年自衛隊に奉職して退職し、民間に移りましたが、red lineを超えたために辞表を提出する事態にその後も合わず勤務できたのは幸せであったと思います。

 

 還暦を過ぎて体力の衰えと共に長時間の手術などが耐えられなくなって来たことを痛感しています。しかし知識や経験を後輩に伝えたり、体力勝負でない治療を行う事はまだ可能だと思います。健康でいられる間、天命を果たすためにもう少し現職を続けて行きたいと思っています。

コメント (5)

北朝鮮国内の混乱が米朝会談を左右するか

2018-05-24 20:43:12 | 政治

とんとん拍子に進んでいた南北朝鮮の対話ムード、北朝鮮の平和攻勢がここにきて頓挫しつつあります。テレビなどでは「専門家」といわれる人達も誰一人現在の状況を的確に自信を持って分析している人はいません。5月24日(本日)北朝鮮は宣言どおりに核実験施設を破壊し、メディアに公開することを示したようですが、これはおそらく中国の指示もあってのことであり、6月12日にシンガポールで予定されている米朝会談がどうなるか、今のところ恐らく誰も予想できないのではないでしょうか。

 

今この段階で何故北朝鮮の対話ムードが縮小してしまったのかについて「より米国から譲歩を引き出すための作戦」と説明するメディアが多いのですが、私は違うと思います。私は北朝鮮の政権内での内部混乱が原因ではと疑っています。北朝鮮の政権を金正恩氏の独裁で完全に一枚岩で皆同じ意見であると勘違いしている人が多いのですが、独裁政権ほど体制維持が大変である政体はないというのが人類の歴史で証明されている事を忘れてはいけません。体制が好転している時の独裁政権は確かに安定していますが、変革期に入ると最も脆いのが独裁政権です。これは民主的に選ばれたリーダーが「緊急時」のみ独裁的権力を行使する「大統領による戒厳令時の独裁が危機管理上良く機能する」という物とは根本的に違います。危機時に独裁が機能するかの「鍵」は「政権を周りでサポートする人たちが同じ方向を向いているか否か」です。

 

正恩氏は権力を握った後、おじの張成沢氏ら中国とパイプが太い実務派の閣僚たちを次々に粛清し、デノミなどの経済改革を進めようとした閣僚も失敗を理由に公開処刑するなどして切り捨ててきました。軍人も核とミサイルに従事する者、特殊部隊などは手厚く取り立てて来たようですが全体を潤すには十分な資金もありませんでした。脱北者はあとを絶たず、かなり重要な地位にあった人たちも脱北するに至り、様々な軍内部の情報も韓国などに伝わったと思われます。軍内では若い時をスイスで優雅に過ごした正恩氏を愚弄する風潮が広がり、いつ自分や家族が粛清されるかも知れず、心から正恩に尽くそうなどという人間は少ない状況です。まあ古今東西の人間の心理として当然の事だと思います。項羽と劉邦の故事をひくまでもなく、国が富み発展するには多数の人材が自由に能力を発揮できる基盤が必要で上に立つ者は「うしはく」ではなく「しらす」でなければならず、人の能力を認めて「自由にやれ、責任は俺がとる」という人間でなければリーダーたる資格はありません。正恩氏は項羽ほどの能力もなく、外国育ちの苦労知らずのぼんぼん、としか思われていない、気に入らない人間は平気で殺害するデブとしか国民に認識されていません。

 

昨年まで軍よりも国民の生活を考え、中国との関係改善などに尽力してきた人たちを迫害し、米国との戦争に備える事を第一にしてきた正恩体制が冬季オリンピックの手前から平和攻勢、雪解けムードを前面に押し出し、「米帝」と表現していたアメリカを「合衆国」と呼んでその大統領との会談に先立って一心不乱に開発してきた核を放棄する、中国の言うことも全面的に聞く、と変わったとき、次に粛清されるのは今まで正恩氏の周りにいた人達であるという恐怖が広がることは想像されます。彼らはその逆を行うことで生き残ってきた人達ですから。米朝会談で体制が保証されて、経済援助が盛んに行われるようになると、米中韓の経済資本が大量に北朝鮮内に流れ込んできます。当然各地にある反体制者を残酷に扱う収容所もそのままでは済まなくなるでしょう。今まで迫害していた側、されていた側が朝鮮人特有の手のひら返しでどのような状態になるか、それに恐懼する集団が黙っているとは思えません。そういったクーデターをおこしかねない人達を残して独裁者がシンガポールに出向いて米国に妥協するような決定を下せるでしょうか。所詮外国育ちのおぼっちゃんを「裏切り者」程度にしか思わない北朝鮮エリートは山ほどいるでしょう。その政権基盤の脆弱さが今会談を前にして露見したと言う事だと私は思います。

 

米朝会談を前に国務長官のポンペイオ氏は横田基地経由で北朝鮮を訪れて正恩氏と2回目の会談を行った際に、リビア方式の核放棄と引き換えに米軍の韓半島からの撤退も提案したようです。トランプ大統領が「北の非核化」でなく「朝鮮半島の非核化」という表現を用い、「正恩に新しい提案をした。きっと気に入る。」とツイートしていたことからも明らかだと思います。しかし真に国家の事を考え、実務的な能力に長けていた優秀な人達を粛清してきた現在の正恩氏の周りには、それでは困る人達しか残っていなかった、というのが現実なのではないでしょうか。

 

米韓軍事演習で核を搭載できる爆撃機を見て震え上がってしまった閣僚達に「俺に任せろ、悪いようにはしない。」と正恩氏が説得することは人徳的にも不可能なのだと思います。南北閣僚級会議で具体的に決める内容を指示することなど、その通りになった時に、北で今権力を持っている人達の体制保証ができない状況では、会議を開催することもできなかった可能性があります。能力のある人でも「今国のためを思って勝手に動いた結果あとでひどい目に合う可能性」を考えると「何もしないで保身のためじっとしておく」というのがせいぜいだと思います。

 

これからどうなるか

 

正恩氏が様々な意見や能力を持ったエリート達を大事にしつつ、現在の政治状況に導いてきたのならば、米朝会談も成功し、うまくすれば韓国から米軍が撤退しつつ統一朝鮮が一国二制度で緩やかな改革開放を行いながら、話がまとまっていった可能性があります。中国も北の核放棄と引き換えに韓半島全体を属国として保護する体制を作って行くことになったでしょう。しかし「どらえもんのスネオ君」のような者ばかりが残ってしまった今の体制では大きな変革はできそうもありません。結果的には

 

1)会談中止、米軍は再び戦争準備状態に戻りどこかで斬首作戦実行。

2)会談は行うがヘタレな内容しか正恩が示さず、物別れ、1の状態に。

3)会談して何とかまとまるが、その後北内部の混乱で先が見えない状態になり、結局米中ロが介入する羽目に。

 

のどれかではないか、というのが私の予想です。

コメント (2)

10年ブログが続きました

2018-04-25 18:12:21 | その他

2008年4月27日に50歳でブログを開始してからいつのまにか10年が経過し、幸い大きな病気や事故もなく10年がすぎて、本日ブログアクセス数が40万、Viewも100万を超えていました。

検索などにかかったものを含めてどこまで皆さんに読んでいただいているかは不明なるものの、アクセス解析などを見ると、医療関係や他で展開されていないような考察をしている内容には古い物でもアクセスがあるようだと感心します。少なくとも医学における学会発表よりも発信した内容を読んでもらえる率が高いのでブログを書く「書きがい」があると今まで感じて来ました。

10年前と比べて年はとりましたが、自分が成長したかは不明です。一番最初に書いた文を読み返してみると「日本は何故戦争をしてしまったのか」というブログを始める上での長期的なテーマから入っていた事が解ります。書評ながら良い点を突いていたなあと思ったので備忘録的に再掲してみました。日本はまだ「囲い込まれた時代」には入ってはいませんが、米国・日本を含むマスコミの現状は危ない方向に向かっているようにも感じます。

(2008年4月27日再掲)

保阪正康著「昭和史の教訓」書評 朝日親書 07年2月刊

日本は何ゆえに無謀といえる太平洋戦争に突入していったのか。その疑問に自信を持って答えることができる日本人は少ないと思う。「軍部の暴走」、その理論的バックボーンになった「統帥権の干犯」、きっかけを作った「陸海軍大臣現役軍人制」これらは教科書的には理解することはできてもこの組み合わせがイコール真珠湾攻撃には結びつかない。日本が戦争に突入してゆく昭和10年台に我々日本人は何を考え、指導部はどのような国家戦略をもっていたのかを振り返り、反省を行い教訓をくみ取ることは未曾有の犠牲を払った戦争を繰り返さないために必須の作業になると思う。

保阪氏の視点は常に反省的である。しかしそれは戦前をすべて悪とする非生産的なステレオタイプの決め付けではなく、極めて理論的に原因や背景を考察し、当時の指導層である政治家や軍人に対するだけでなく、当時の一般国民にも鋭い自省を促している。それは現在一般人であるわれわれすべてが日本の将来についての責任を負っているという認識に基づくものであると言えるし、私も共感を覚えるところである。

昭和10年代の日本の状態を保阪氏は「主観主義」という言葉で表現している。主観主義とは自己中心的とか他者への思いやりがないということではなく、他者の立場に立って考えることがない、自分本位の考え方ということに近い。支那の中華主義や軍事力を全てとするパワーポリティクスでもない。保阪氏は主観主義の一例として皇紀2600年において作成された「皇国二千六百年史」の存在をあげている。これは当時の日本国民から広く募集されて政府編集の上で刊行された日本古来からの天皇中心の歴史をまとめた史書で「天皇の神格化」がこれにより完成したと評されている。

明治維新までは天皇は存在したものの庶民の間で天皇は神として崇められていた訳ではなく、また明治の激動期においても天皇は国家の主権者ではあったが神ではなく、明治政府をきりもりしていた元勲達にとって天皇は国におけるひとつの機関つまり昭和初期においてまさに不敬として断罪された美濃部達吉の「天皇機関説」的な合理的考えで扱われてきたと言える。日本は昭和初期においてまさに「天皇の神格化」を行うことによって天皇および直轄する皇軍について議論することを禁止されてしまうのである。

この主観主義に基づく天皇の神格化は国家のあり方についての議論を封じ、結果として広く国民が日本という国家のあり方、国家戦略を考えることも封じてしまうのである。その典型は「戦争の目的」「戦争の終着点をどこにおくか」を全く考えずに戦争に突入してゆくことに集約されてゆく。ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンなどの独裁者、英米などの民主国家においてもその指導者はそのときの国家目標、国家戦略というものを明確に持っていて国家の上層部はその戦略に従って仕事をしていたといえよう。しかし当時の日本においては、日中戦争を例においてもアジアの西欧からの開放とか五族協和といった漠然としたスローガンはあったものの具体的な到達目標のようなものはなかったといってよい。当時の軍は軍功を重ねて日本の版図を広げることが天皇に対する自らの忠誠、忠心の証となると考え、それが自らの存在価値を高めることであると信じていたのである。その行いに意見することなどありえないことであって神である天皇に尽くすことを否定することは許されないという形になってしまったのである。このやみくもに日本が版図を広げていった結果として、日本は米英から危険視され国際的に孤立してゆき、対米英戦争に突入することになったというのが結論である。

面白い指摘として、氏はこの本の中で対米英戦の終結目標についての当時の公式文書を紹介しているのであるが、それが当時の陸海軍の一課員が官僚の作文よろしくまとめた文がそのまま政府の公式文書になってしまい、最も大切な戦争の終結点、目標について政府の中枢においてろくに議論すら行われていないことが判明している。

保阪氏は「歴史への謙虚さとは何か」と題されたこの本の終章において、庶民の側からみた当時の状態を四つの枠組みで囲い込まれた時代と表現している。

四つの枠組みとは(カッコ内はrakitarou註)

1. 国定教科書による国家統制 (検定教科書ではなく、国が決めた選べない教科書)
2. 情報発信の一元化
3. 暴力装置の発動      (公的、非公的を問わず、体制に逆らうとひどい目にあうこと)
4. 弾圧立法の徹底化     (治安維持法のようなあからさまな物や人権擁護法のように紛らわしいのもあると思う)

である。この枠組みで囲い込まれて生活することを余儀なくされると人は体制に対する疑問を感じてもそれを発信したり自ら変えようとしたりできなくなる。この状態を保阪氏は「国家イコール兵舎」「臣民イコール兵士」と表現している。この四つの囲いは昭和初期のように一見文化経済が発展していて国民が豊かになっているように見えていても存在しえるのである。現在の中華人民共和国などこのよい例であろう。

現在の日本は幸いにしてこの四つの枠組みからは解き放たれていると思われるが歴史に対して常に謙虚であろうとするとき、いつまたこの枠組みが作られてゆくかを注意深く見つめる必要がある。天皇は神ではなくなったものの日本人の「主観主義」や「国家戦略の欠如」といった当時と同じ根本的欠陥は現在も変わっていないのだから。

コメント (4)

ロボット手術の未来

2018-04-23 23:39:44 | 医療

 4月17日から22日にかけて京都でアジア泌尿器科学会と日本泌尿器科学会総会が開かれ、参加してきました。今年の保険診療報酬改定では、今まで泌尿器科領域の前立腺全摘術と腎癌の腎部分切除術のみがロボット手術による保険診療による請求が認められていたのですが、新たに胃癌や子宮摘出など多くの領域の一般的に行われている外科手術、腹腔鏡手術がロボット手術による保険請求が可能になりました。今後は200台以上日本国内で普及したロボット手術の機械でこれらの手術が行われて行く機会が増加して行くものと思われます。

 それに伴って、ロボット手術の未来、ロボット手術のできる外科医師をいかに育てるかという事が最もロボット手術が進んでいる泌尿器科領域における新たなテーマとなりました。私自身はロボット手術がどんなものかは理解していますが、自分では術者をやりません。腹腔鏡手術はある程度やりましたが、専門医としてあらゆる手術をこなすほどではありません。だからロボット手術に対してはやや冷めた見方になっていることは否めないのですが、30年間外科医として手術を行って来た経験を踏まえて自分なりの考えをまとめておこうと思います。

 

1)      現在のロボット手術のロボットとしての自動化レベルは“0”

 

 患者さんが一番誤解しているのは、ロボット手術はロボットが手術していると勘違いしていることです。工場などのロボット化されたオートメーションや、自動車の自動運転システムのイメージから、ロボット手術は精巧なロボットが間違う事なくヒトの身体を手術してくれるとイメージしがちです。しかしそれは誤りです。小さい複数の穴から体内に入れたロボット的な装置を外科医が100%操作をして通常の手術を行うのが現在のロボット手術で、手術結果は外科医の腕次第であることは開腹手術と全く同じなのです。

 ALFUS(Autonomy Level For Unmanned System)という米国政府公認の工業界が決めたロボットの自動化の度合いを決めるスケールがあり、軍事技術などでも使われていますが、現在のロボット手術はLevel 0つまりロボットによる自動化率は0%で全てヒトが操作をするレベル(Human-robot interaction100)なのです。私が前立腺癌に行っている高密度焦点式超音波治療(HIFU)はこのスケールではLevel 1 (設定をすると決まった範囲で機械が自動的に治療する)に相当します。

    (2005 SOIE Defense and security symposium, Orland Florida)

  ちなみに自動車の自動運転システムはレベル0から完全自動運転のレベル5まで定められていますが、先日事故を起こしたGoogleの自動車はレベル3-4のチャレンジをしていて失敗した例と言えます。

    自動車の自動運転システムのレベル

 

2)      通常の開腹手術とロボット手術の違いはオフロードバイクとキャデラック

 

 では、3億円のロボット手術の機械を買って、1回100万円かかるデバイスを使って専門のトレーニングを受けた術者がロボット手術を行うことと、通常の開腹手術の違いは何かというと、例をあげると現状ではある目的地に行くのに「キャデラック」で行くか「オフロードバイク」で行くかの違いであると言えば良いでしょう。東京駅から帝国ホテルに行くには多分キャデラックで行った方が快適であるし運転者(術者)も乗客(患者)も快適です。しかし目的地が階段状の坂道のある丘の上であったり、人がやっと通れる細い路地の奥であった場合にはキャデラックでは到達できません。乗り心地が悪くてもオフロードバイクでしか行けないことになります。現状ではロボット手術でないとできない手術はありません。しかしロボットではできない手術は山ほどあります。最近私が経験した例でも、膿腎症の緊急手術、腎部分切除後の再発で下大静脈と腎が癒着している症例などロボットでは不可能です。多発外傷も無理です。

 同じ手術の場合、癌の治療効果についてはどんなに検討しても開腹手術とロボット手術の差は出ていません。しかし入院期間や出血はロボットの方が少なく済む事は確かです。

 一部の患者さんには最新のロボット手術を受けた事を自慢に思っている人もいます。それは自由なのですが、同じ病気で通常の開腹手術を受けた人に対して「優越感」のような物を持っていたり、上手な開腹手術ならば起こらないような合併症であるのに、ロボットでも起こったのだから仕方がないと変に納得している患者さんもいます。医師やマスコミがロボット手術について正しく情報提供をしていない事が原因かもしれませんが、患者さんの側も自分が医療を受ける目的が何かを十分理解する必要があると感じます。

 

3)      若手外科医の教育の問題

 

 熟練のオフローダーがキャデラックも運転できるようになれば、素晴らしいドライバーになることは必定です。しかし大学病院でロボット手術を多用するようになったため、卒業したての若手医師達が通常の開腹手術を学ぶ機会が減っています。彼らは、キャデラックの運転はできるようになるのですが、オフロードバイクに乗れないので丘の上や路地の奥の目的地には行けません。中堅以上の外科医達は若い時からオフロードバイクで鍛えられて来たので険しい道のりをどう工夫すれば乗り越えられるかの知恵があります。またこれは踏破不可能と判断して引き返す限界も解っています(手術不能の判断ができる)。

 現在学会の課題としてキャデラックの運転しかできない若手医師をどうするかという問題が検討されています。中堅の市中病院で経験を積む必要があるのですが、そういった病院にもロボットが入ってくると結局本当に手術ができる外科医が育たず、ロートルが引退すると今まで治療可能であった疾患が治らない事態が生じます。

 

4)      ロボット手術の今後

 

 ロボット手術が今後発展する方向性として

(1)ALFUS levelの向上で術者の技能に関わらず手術ができるようになる。

(2)開腹手術しか出来なかった内容の手術もロボットでできるようになる。

(3)より安価な装置が普及する。

 といった事が考えられます。腹腔鏡手術が20年前に出現した際には、将来これで全ての手術ができるようになって開腹手術はなくなるかも、と言われましたが、結局そうはなりませんでした。ロボットは明らかに細かい作業や、見え難い術野の手術が可能になっているのでまだ発展する可能性はあり、到達できる目的地が増加していることは確かです。

 

しかし、疾患を治療する方向性として、「手術によらない治療」が増加していることも事実です。動脈瘤、脳血管障害、狭心症、弁膜症、早期の消化器癌、膀胱癌、前立腺癌も手術によらない治療法が主流になりつつあります。今後は外傷などロボットでできない手術のみが手術的治療として残り、いままで手術治療をしていた定型的な手術はなくなってゆく可能性が高いとなると、ロボット手術というのも時代のあだ花で終わるかも知れません。

コメント (2)

反戦?映画今昔「未知への飛行(Fail safe1964)」と「5デイズ( 5 Days of War)」

2018-04-09 23:38:58 | 映画

CS放送で対照的な2つの反戦?映画を最近見て、印象に残ったので備忘録的に記しておこうと思います。

 

1)5デイズ(5 days of war)2011年(米国) レニー・ハーリン監督 ルパート・フレンヅ、エマニュエル・クリキ、ヴァル・キルマー主演

 2008年、北京オリンピック開会中に発生したグルジアー南オセチア紛争において、グルジア側から取材に入った西側の戦場ジャーナリスト達が、ロシア軍がグルジアの村々に爆撃、侵略をして戦争犯罪と言える虐殺を起こす様をフィルムに収め、世界に発信しようとする努力を描く内容。

 あくまでグルジア側は善い者として描かれ、ロシア軍は無力なグルジア市民に一方的に武力攻撃をし、特に正規軍でなく「傭兵」として一線で戦う「コサック兵」達の残虐ぶりが強調されて描かれます。サーカシビリ大統領はNATO、米国に軍事的な救援を要請しますが相手にしてもらえず一方的な休戦によって何とか独立は保たれます。

 ロシア軍は圧倒的に強かったのですが、映画では余りに「ロシア=悪逆」で描かれ、主人公達が危機に陥る度にいかにも都合良く「救援」が入るというご都合主義が娯楽映画的で鼻につきます。サーカシビリは「ジョージア(グルジア)の自由と独立が守られた」と最後に演説をするのですが、初めに南オセチアの自由と独立を認めたらそもそも紛争が起きなかったのでは?と突っ込みたくなります。

 この南オセチア問題を始め、ウクライナ、クリミア、シリア、トルコにおいて、そして現在の英国スパイ暗殺事件においてもロシア(プーチン)は悪の権化として打倒するべき対象とされています。ロシアは本格的な西側との戦争を避けようと自重をしていますが、ロシアとの戦争の恐怖を米国、西側の人達は忘れてしまったかのようです。

 

グルジアへのロシア軍の砲撃(本物)  ロシアの爆撃による犠牲者

 

2)未知への飛行(Fail Safe1964) 1964年 米国 シドニー・ルメット監督 ヘンリー・フォンダ、ダン・オヘイリー主演

 核を搭載した戦略空軍爆撃機が正体不明の侵入機(UFOと表示)に反応してソ連との核戦争準備に入るのですが、コースを外れた民間機と判明。しかし1グループのみがソ連の妨害無線によって警報解除の指令が届かず、そのままモスクワへ水爆投下に向かってしまう。大統領(ヘンリー・フォンダ)はソ連の議長とのホットライン、国防総省などと協力して攻撃命令の中止、爆撃機の撃墜を計るのだが・・。Fail safe機構というのは失敗しても安全な方に自動的に導かれる仕組み、或は最小の損害で済むように導かれる仕組みの事を指す専門用語で航空機や医療の世界では日常的に使われる言葉です。この映画におけるFail Safeとは機器の誤作動で核戦争が始まってしまう状態になった時のFail Safe機構が自軍の戦闘機による撃墜、人間の声による命令、そして最後は自国の爆撃機をニューヨークに飛ばして自ら水爆をニューヨークに落とす事でモスクワに水爆を落とした事と釣り合わせて世界破滅の核戦争を防ぐ事をソ連の議長と約束する、というショッキングな内容です。

 ソ連との戦争が人類の破滅に直結すると言う危機感を世界が共有していた時代の作品。「論理的に最後の最良の選択がこれなのです」という厳しいメッセージを当時の米国市民達はどのように受け止めたか。最近の米国における、安易なロシアとの敵対をあおる風潮に私は危惧を感じます。何故何の証拠もないの元スパイ殺害容疑で世界中からロシアの外交官を追放しないといけないのでしょう。もう一度世界、特に米国民はこの作品の重み、何度も人類を滅ぼせるだけの核を持ってしまっている自分達への厳しさを確認するべきだと思いました。またこのような自国民に対して厳しい問いかけをする映画を作れていた当時のハリウッド、現在のセレブと体制リベラルに媚を売り、低俗な映画しか作れなくなったハリウッドとの明暗を感じざるを得ません。

コメント (1)

日本の本当の黒幕 を読む

2018-04-06 19:19:15 | 書評

日本の本当の黒幕 上下 鬼塚英明 成甲書房 2013年刊

 

 幕末から維新・昭和初期まで生き抜いて、伊藤博文の時代に明治天皇の宮内大臣を勤め、以降日本の黒幕として政界・経済界に影響を及ぼし続けた田中光顕(1843−1939)を中心に歴史の表では語られる事のない背景を数多くの資料を駆使して暴いた労作です。著者自らあとがきで述べているように、「田中光顕という人物を通して著者が幕末・明治・大正・昭和を研究した本であって、この本は間違いなく独断と偏見に満ちている」というのは本当だと思います。しかし我々が戦前史を知ろうとする時、世界における日本の動きは非常にダイナミックであったにも関わらず、どこか戦後押し付けられた一方的な「見方」からしかアプローチできず、またあれだけ皇室というものの絶対性が語られながら、その皇室を様々な角度からありのまま記した歴史書が非常に少ない事も事実です。だから表に出ていない部分を探ろうとする時に断片的な資料から時に大胆な類推や想像で説明を試みなければならないという現実があります。ネットなどで見られる「トンデモ説」「陰謀論」という括りで片付けてしまう事は簡単ですが、実社会で30年揉まれて生活してくると、社会というのは表に出ていない様々な思惑や陰謀で物事が決まって来る(現実には謀の2-3割しか思惑通りにはならないけど)と言う事を実体験として知るようになります。様々な裏の話を「そんなのは陰謀論」と言って本気にしない人というのは実はあまり社会を知らない「お目出たい人」だと私は思います。誤りも半分と思ってこの本を読み進めてみると、明治から昭和、戦争に向かう日本社会の裏側のダイナミズムを感じます。中身が広範雑駁でまとまりに欠ける所があって、理解しにくい所もある本ですが、そのような意味で有益な本ではないかと思いました。以下特に昭和初期の時代を決めることになった事態について、印象に残る内容を備忘録的に記しておきたいと思います。

 

田中光顕 

1)      田中光顕が宮内相引退後も政界などに力を持ち続けたのは「皇室の秘密」を武器にしたから。

 

○ 明治帝は孝明天皇の後嗣睦仁親王が長じて成ったのではなく、大室寅之佑なる山口県田布施からの出自不明の若者であるという前提で話が進みます。事の真偽は証明しようがありませんが、幕末の志士と言われるさして教養もない勢いだけの人達にとって「皇統の血筋を守る」意味などなく、「玉を担ぐ事で錦の御旗を得る」以上の物ではなかった、それくらい幕末というのは荒々しい激しいものであったというのが本当だと私は思います。大室寅之佑も南朝の末裔などと言われていますが、これも明治期に、水戸学の影響で南朝を正当な皇統と見なす事に成ってから後付けされた由緒のようです。

○ 明治帝は在職中、公式には伊藤博文、山県有朋、井上馨の元老以外は宮内相の田中光顕を通してしか他人と遭う事が適わなかったと言われていて、本当の明治帝を親しく知る人と言うのは実際にはいないのが現実だったようです。幼なじみの西園寺公望ですらあまり親しく接することがなかった(いろいろバレてしまうから)とも記されます。

○ 一方で明治帝は一般に真面目で勉強熱心で知性も高く判断力に優れた大帝という評判ですが、実情は「酒色に溺れる毎日だった」という噂もあります。明治帝には昭憲皇太后の他に記録上5人の側室がおり、10人の娘、典侍 柳原愛子に第三皇子として成人まで達した大正天皇(嘉仁親王)がいます。しかし梅毒であったという噂があって、大正帝の脳病も梅毒からみ、大正帝は幼少期から病弱で不妊であったという事も言われています。

○ これらの(勿論)公にはならない情報を武器に田中光顕は引退後も政界に力を持ち続けた、しかも要塞のような寝室を自邸に構えて、常に暗殺の恐怖に備えていたことも事実です。

 

貞明皇后と皇子達

2)      大正帝と妻貞明皇后の時代が後の昭和の方向性を決めた。

 

○   不妊で病弱の大正帝に、伊藤弘文と大山巌は妻捨松、津田梅子らと計って九条家からということにして会津出身のクエーカー教徒である節子を貞明皇后として迎えます。大正帝と貞明皇后の間には4人の皇子がいるのですが、それぞれが種違いと説明されます。1901年昭和帝(裕仁)は父が西園寺八郎(西園寺公望の養子で毛利元徳の八男、大正帝の学習院同級生)、1902年秩父宮帝(父は東久邇宮 稔彦 昭和帝の妻、香淳皇后は姪であり、終戦時の内閣総理大臣)、1905年高松宮帝(父は有栖川宮—元高松宮)、1915年三笠宮(父は有栖川宮か近衛文麿)。大正帝の息子達は兄弟と言えど、姿形が随分と違うということからこれらの推察もあながちデタラメではなさそうなのですが、なんせ不敬罪に関わる事ですから正史に出来るはずがありません。

 

3)      幕末の志士、明治の元勲、右翼左翼の大物は紙一重

 

○   幕末の志士の一部が明治政府の要職に就いて、後の元勲と言われる明治以降の日本の枠組みを作って行く役割を果たす事は正史で習う通りなのですが、後に赤旗・大逆事件で恐れられた幸徳秋水や中江兆民といった思想家が坂本龍馬の海援隊に入っていたり、大杉栄が後藤新平とつながっていたりします。田中光顕が裏で応援する右翼の大物、民間の元老と呼ばれて昭和帝の結婚式にも招待されたという頭山満も幕末の志士達と共に写真に納まっている若き日があります。

○   幕末の志士、明治の元勲、右翼左翼の大物というのは実のところ出自は変わりなく、時の流れと運でそれぞれの歴史的役割に別れて行ったというのが本当ではないかと思われます。明治になってから京都で長年生息してきた多くの「お公家さん」達は実のところあまり活躍はしていません。皇室を中心とした歴史が新たに始まった事は事実ですが、二千年の歴史を持つ旧来の皇室・お公家さんを中心とした政治が帝都で行われて明治が作られて行ったのではなく、田舎の下級武士達を中心に「一神教としての天皇教」を掲げた立憲君主国としての明治政府が試行錯誤されながら新たに作られたというのが正しい解釈だと思われます。だから明治政府中枢では常識では考えられない事も「何でもあり」だったと言う事ではないでしょうか。

 

4)      三菱→田中光顕の金の流れが昭和テロルのバックボーンとなった。

 

○   テロルというのは何の背景もなく、突発的に起こるものではなく、必ず裏で金の流れを追うことでその黒幕を暴く事が出来る、というのは鬼塚氏一流の歴史解釈です。これは現代のIS(イスラム国)成立における金の流れ見る事でも役立つでしょう(サウジアラビア、ユダヤ財閥など)。昭和にも結盟団事件、一人一殺の井上日召などのテロ事件が多発し、何より五・一五事件、二・二六事件という軍によるテロ事件が起きて、後の戦争へと繫がって行きます。実はこれらにも必ず金の流れがあって「黒幕としてのまとめ役」がなければこれだけの事件を起こす事は不可能です。

○   田中光顕と山県有朋の二人はその立場からは信じられない程の財を成した、と言われていますが、山県は政府の金、田中は岩崎弥太郎と親しくなることで継続した金の流れを作ったと説明されます。田中は引退後も金を得続けてそれらをテロルの資金として活用することで三菱の利益に資することもしたと説明されます。勿論一企業の利益のためにテロルを指揮したのではなく、国家主義者としての田中の信念が頭山満などとのつながりを持たせ、五・一五事件などへの関与に至ったという説明ですが、詳細は複雑なので省きます。

 

今二十一世紀の新たな世界情勢を迎え、日本も世界も新展開を迎えようとしています。その荒波の中を何とか日本という国と国民が生きながらえてゆくには、格式に捉われない柔軟な発想と知恵が必要だと思います。世界の動きが「とても賢い人達が人類全体の利益を考えながら慎重に動かしているはず」などと考えない方が良いでしょう。もっとデタラメ出たとこ勝負で物事は実は決まっているというのが幕末から明治の日本を見て感じます。「何でもあり」だと言う心構えで知恵を働かせて行かないとこれからの世界、生き残って行けないとこの本を読んで感じました。

コメント