rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

日独伊三国同盟とは何だったのか

2016-12-13 19:20:50 | 書評

書評「欺かれた歴史」松岡洋右と三国同盟の裏面 斉藤良衛 著 中公文庫2012年刊

 

学校の歴史で習う日独伊三国同盟とは、多くの人達にとって第二次大戦における民主主義連合国家に対抗するファシズム枢軸国家群としての「悪の同盟」というイメージしかないと思います。実際戦後秩序は正義の戦勝国が悪の枢軸を駆逐したことによって確立したことになっていて、米国もソ連、中共もそれぞれ「正義の国」として世界秩序構築にあたることになっており、この正義の国々は原爆を保持しても良いことに一応なっています。

 

「そんな阿呆な」と現在の人達は思うかもしれませんが(教科書通りをそのまま信じている人達も沢山いますけど)、1970年代くらいまではけっこうこの歴史観は盤石のものとして世界を支配していました。私は「何故日本は第二次大戦を起こしてしまったのか」について種々検討することを一つの課題としてブログを書いていますが、本来「米国との戦争を避ける事がドイツ第三帝国繁栄の条件」を肝に銘じていたはずのドイツが何故日米開戦を断固として止めなかったのか、という疑問が昔からありました。また三国同盟は悪の枢軸として有名ではありますが、実質的に三国にどのような利益があったのか、というのも疑問でした。欧州戦線でドイツと共に戦ったのはオーストリア、スロバキア、ルーマニア、フィンランド、ヴィシーフランスなどの同盟国であって、日本はドイツにとってアメリカが戦争に参加して来たという最悪の結果以外何の影響も与えていません。ソ連を挟み撃ちにして東西から同時にソ連に侵攻して初めて日独同盟の意味があったはずです。

 

このような疑問に対して、松岡洋右の右腕として第二次大戦前の外務省において外交の最前線にいた筆者(1880−1956)のレポート(1955年読売新聞社刊行の同名書の再販)は非常に示唆に富むものでした。松岡洋右と言えば三国同盟締結や国際連盟からの脱退における勇姿が有名で、日本を戦争に巻き込んだ戦犯の一人とも言える人間であり、昭和天皇からは嫌われていたとも言われています。ここで松岡洋右の略歴をまとめておきます。

 

松岡洋右 (1880−1946)山口県に生まれる。

13歳で父親の事業失敗に伴い渡米、メソジスト派の洗礼を受けてキリスト教徒になる。苦学してオレゴン大学法学部を1900年(20歳)で卒業、22歳で健康問題などで帰国してから明治大学法学部に通いながら東大を目指している間に外交官試験に合格して外交官になる。欧州勤務などを経て1921年、41歳で外務省を退官して南満州鉄道理事、衆議院議員に転身。

1931年満州事変の後、1932年12月の国際連盟ジュネーブ特別総会で日本の全権代表として出席。本来その英語力を買われての出席だったものの、翌1933年2月のリットン調査団に体する報告書で日本が批難されると松岡は連盟を脱退して退場する有名なシーンの立役者となる。(松岡が独断で決めた訳ではない)

議員辞職して再び満鉄総裁として勤務していたが、1940年の近衛内閣の際に外務大臣に任命され、そこで三国同盟締結のために奔走することになります。戦後はA級戦犯として起訴されるも東京裁判の結審を待たずに結核のため没となっています。

 

略歴は上記の通りですが、基本的にどのような人物で思想であったかをまとめると、天才肌、自己主張と自己顕示、人の言う事は聞かない、親米、反共、基本は平和主義、となります。良い外交官、良い政治家とは人の言う事を聴く耳を持つ、柔軟といった事が基本条件になりますが、松岡が正反対であったことがせっかくの親米や平和主義が活かされず、日本を戦争に導く先導役を果たす結果になります。

 

以下三国同盟の屈折した経緯について、この本を参考に日独両方の時代背景や思惑からまとめます。

 

1939年1月ドイツが日独伊三国同盟を提案

日本は1937年7月7日の盧溝橋事件から発する日華事変が終結せず、1938年には国家総動員法を発令、米欧から一層孤立する状況が作られていました。

ドイツにとっては1938年オーストリア併合、ミュンヘン会談でスデーデン地方を英仏の了解を得て併合したものの、欧州の領土と帝国の拡張を望むドイツとしては日本がアジアにおける列強の牽制を希望していたようです。

 

1940年(昭和15年)7月第二次近衛内閣で松岡洋右が外相就任、9月には日独伊三国同盟がベルリンで調印されます。紀元二千六百年に国内は沸き立っており、民政党の斎藤隆夫氏が衆院で有名な戦争批判の演説をするも除名処分になるなど、軍部が幅をきかせて勇ましい言質が優先される時代であり、平和への志向を表立ってしにくい時代でもありました。

 

松岡の本音は日米戦争の回避であり、自分が国際連盟から脱退を宣言した経緯からも何とか日中戦争を終わらせて平和を取り戻したいという祈念があったようです。それがソ連を巻き込んだ日独伊ソ四国同盟構想につながります。

ドイツは1939年8月に独ソ不可侵条約を結ぶと、9月に独ソで協同してポーランドに侵攻、東西で分け合うという暴挙に出て第二次大戦が始まります。しかし英仏はドイツにのみ宣戦布告をして、ソ連にはしません。ソ連はバルト三国や11月にはフィンランドにも侵攻してゆきます(失敗しますが)。

1940年にはドイツはデンマーク、ノルウエー、オランダ、ベルギーを占領、6月にはパリに無血入場を果たし、破竹の勢いを見せます。

 

松岡を除く日本の軍部は三国同盟を「バスに乗り遅れるな」とばかりにドイツの勢いに乗る事を目指していたのであり、ドイツの日本への期待は列強のアジアにおける陣地、シンガポールなどの攻略にあったとドイツ代表であるスターマーの記録などから読み取れます。独ソが1939年にポーランド侵攻をするに当たり、8月には独ソ不可侵条約を締結しており、松岡としては独ソの良好な関係を軸に日本もその仲間入りをさせてもらう事を狙っていた事は明らかです。

 

1941年(昭和16年)は開戦の年ですが、

日本への圧力を高める米国に対して、何とか対米融和を計りたい松岡は活発な動きを見せます。2月には大本営が松岡の4国同盟の案を了解し、野村大使を米国に送ってルーズベルトと会談をさせます。3月には松岡がモスクワでスターリンと会談、その足でドイツにも行き、ヒトラーとも会談します。しかしどうも独ソの雲行きが怪しいと見ると帰途再びモスクワに寄って4月13日日ソ中立条約を調印してしまいます。つまりドイツに任せていてはソ連と融和できないと踏んだのです。

案の定、ドイツは6月に前年に結んだ不可侵条約を破ってバルバロッサ作戦を発動、独ソ戦が開幕します。

 

ここで日独伊三国同盟が普通の軍事同盟であれば、日本は自動的にソ連との戦争が始まり、ソ連は東西からの侵略に備えなければならなくなります。しかし、日本(少なくとも松岡は)はあくまで対米戦争を避けるためにソ連に味方になってもらう必要から三国同盟を締結したのです。だから条約には「いずれかの国が侵略を受けた場合に戦争に加担する義務はあっても一方が他国を侵略しても一緒に侵略する義務はない」という内容になっていました。ドイツはソ連を一方的に侵略したのであって日本が一緒に侵略する義理はないという結論です。

 

それでも6月には関東軍が関東軍特別演習を行ってソ連侵攻の構えを見せます。しかし有名なゾルゲの諜報によって、日本のソ連侵攻の意図がないことがソ連に知られると、シベリアに置かれていたソ連の部隊が引き上げられて一斉に欧州に投入され、最終的にはドイツの敗北に繫がって行くのです。

 

日本にとって1940年9月に結んだ日独伊三国同盟は1941年の6月独ソ戦開始を持って意味のないものになった訳です。ドイツにとっても独ソ戦で東側から全力でソ連に侵攻して来ないならば三国同盟など無意味だったと言えるでしょう。もともとヒトラーは日本を重視してなどいなかったと言います。むしろ中国国民党政権に軍事顧問団や武器を送って戦争指導をしていたのが実体で、三国同盟締結を契機に引き上げたという経緯があります。

 

日本の戦争指導がヒトラーのような独裁者によってなされていたのであれば、ここで日独伊三国同盟は解消して新たな対米融和の策を練る事になるのでしょうが、「慌てて乗ったバス」から降りようなどと言う者は一人も居らず、ドイツの欧州席巻によって主のいなくなった南部仏印に日本は7月進駐開始します。これに怒った米国は8月1日日本への石油輸出を禁止します。

 

これで日本は追いつめられ、9月の御前会議で対英米戦を決意し、真珠湾奇襲作戦の準備が始められて行きます。アメリカは12月8日の日米開戦を機にドイツとも開戦しますが、これは三国同盟を通常の軍事同盟と見なしていたからに他ならないと思われます。結局日独伊三国同盟はソ連にとっては日本の対ソ参戦を避けるきっかけとなり、米国にとっては1941年8月に英国への戦争援助を決めた大西洋憲章を一歩進めたドイツとの開戦の口実となり、英国は滅亡の危機から救われることになり、中国にとっても米英を味方につける機会を与えたことになり、連合国にとってのみ都合の良い軍事同盟であったと言えるでしょう。

 

計算高いヒトラーが益のない三国同盟を何故締結したのかは謎です。また日本の対米開戦を何故阻止しなかったのかも不明です。強いて挙げるならば、信用しがたいスターリンを煙に巻くためのおとりのような扱いとして考えていた可能性はあります。

松岡は戦後「三国同盟は僕一生の失敗である。これでは死んでも死にきれない。」といって筆者の前で号泣したと書かれています。号泣されても三百万の英霊と犠牲者は帰ってきません。その優秀な頭脳と語学力をもっと柔軟な姿勢と先見性で活かして日本を戦争への道から救えたならば、彼への評価は全く違った物になったであろうにと思います。

 

他にも三国同盟について書かれた本を読書中であり、上記の疑問への答えになるヒントが出て来たらまた報告したいと思います。

コメント (2)
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メディアは何故体制寄りか

2016-12-05 22:13:04 | 社会

米国の大統領選におけるクリントン候補一辺倒であったメディアの報道姿勢や、2度目の安倍政権になってからの日本のメディアにおいても、メディアの報道は体制寄りが著しくなっているように感じます。戦後から20世紀末までのメディアは朝日の慰安婦報道のように明らかな嘘を交えても反体制的な報道をしていたように思います。私が若い頃は体制側の視点に立って冷静適確に世界情勢や日本の政界を分析したメディアに飢えていたように記憶しています。学生時代には現在休刊になってしまいまいたが、時事通信社の世界週報を毎週購読して読んでいました。それでもたまに北朝鮮の主体思想がいかに素晴らしいかみたいな記事が載っていたりして、違和感を覚えることもありましたが。

 

現在のマスメディアは「比較的まとも」と評価して購読している東京新聞でもTPPを表立って反対していませんし、「クリントン当選危うし」と言う姿勢で米国大統領選を報道していました。

 

日米のメディアが何故かくも「体制寄り」になってしまったのかについての分析は種々あります。○景気が悪くてスポンサーの意向に反する報道がしにくくなった。 ○社会の敵とされるテロについての情報が体制批判が強いと政権側からもらえなくなる。 ○日本ではメディア幹部が政権側と寿司友の関係で握られている。 ○ネットを中心とする情報手段に押されて体力が落ちている。といったことが言われていますが、それだけではやや説得力に欠ける気がします。いくら生活がかかっているから、上司が体制側と握っているからといって、それだけでメディアの現場全てが体制側に則した報道しかしないのではさすがに従事する人達が生涯の仕事としてのインセンティブを保つことができないと思います。私はこれらに加えて、体制側が所謂「政治的正義」(politically correctness)を前面に押し出しているからメディアが表立って反対しにくいという面があるように思います。

 

政治的正義(PC)は民主主義の推進、差別の禁止などに代表されますが、社会主義経済が崩壊してしまった時に資本主義の勝利(民主主義の推進とセット)、資本主義に基づくグローバリズムの推進(偏狭なナショナリズムや差別主義の否定とセット)といった題目がそのままPCとなって無批判にメディアが報ずる事になって行ったのではないかと思われます。私は20世紀的な右翼左翼の定義は現在通用しないと以前から指摘していますが、20世紀的な左翼リベラルの主張は政府による規制の批判であったり、国家の垣根を否定してグローバルに自由に行動する事であったりしたので、21世紀における「体制」のありようがかなり20世紀的な左翼リベラルの主張と一見合致してしまって、これを批判することが20世紀的には忌避されるべき右翼思想に見まがう状況になってしまっているのではないかと思われるのです。

 

トランプ対クリントンなどまさにPC的にはクリントンを応援していれば批判される事はない状況であったと言えます。トランプは「選挙に不正がある「ISを作ったのはオバマとクリントンだ」と本当の事を訴えましたが、PC的には「陰謀論者」として相手にしないのが正しい扱いでした。メディアがその気になって調べればいくらでもトランプの主張の証拠を示すことができたにも関わらずです。

 

「韓国の朴大統領は全て素人のおばさん(崔順実)のご託宣どおりに政治をしている。」などと1年前に報道したらまさに「陰謀論」「デタラメで名誉毀損」などと一笑に付されたことでしょうが、今では疑う人もない真実です。米国の911やアラブの春の米国政府の関与、ウクライナのマイダンの米国が関与した非民主的な経過など、今後どこまで明らかになるか解りませんが、米国体制側から金をもらっていなかったトランプが政権を握ったことで、これらの内実がどこまで明らかになるか、メディアが陰謀論として封じて来たことがどれだけ表に出てくるかが楽しみです。勿論全てが明らかになることはなくて、トカゲの尻尾切りのような状態にはなるでしょうが、先日ラジオの番組で体制的とされるNational Public Radio (NPR)の地方コメンテーターがトランプの当選を受けて、日本のメディアインタビューで「アメリカ一般市民の意思を完全に見誤っていたことは真摯に反省している。」と暗にPCのみに着目していた選挙期間の報道を否定する発言をしていたことに感心しました。また「トランプの当選後特に少数民族者への迫害が強くなったとは感じない」とPCに基づいてトランプ当選後の悪影響を伝えるメディアを否定していたことも印象的でした。メディアにもまっとうな人は沢山いるに違いないと思います。真実と思われる事象を報道することに自己規制をかけずにできるかの問題なのだと思います。

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