rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

書評 自然死への道

2011-01-30 00:14:28 | 書評

書評 自然死への道 米沢 慧 朝日新書 2011年刊

 

前にも取り上げたことがある、病を治すことを目的とした医療を「往きの医療」とするならば、病と共に良く生きることを目的とした医療を「還りの医療」と表現してどちらも大切、或いは前者ばかり重視されていないか、と問題提起した米沢慧氏の新刊で、私が氏を知った「選択」という雑誌のコラム42本をまとめて本にしたものです。

 

改めて読み返して見ると、氏の一貫した「良く生きるということを助けるための医療とはいかにあるべきか」という主張が、飾らない肩肘張らないことばで優しく語られていることに共感します。日常的な医療の中で全て氏の主張に添えない部分も多々あるのですが、世の中にある「批判のための医療批判」ではなく、現代医療に関して医療現場、行政、国民目線においても見逃されている部分に光を当て、深く考えさせてくれる点で、医療者のみならず患者、国民皆が読み、考えるべき内容を含んでいると思います。

 

構成として雑誌の掲載順でありながら「老いる」「病(やま)いる」「明け渡す(死への道のり)」という内容に別れていて、それぞれ老いを受け入れる、病いと共に生きる、死を受容する(受け身的な死ではなくて、死に至るまでどのように生きるかを自分で選択する)ということについて「緩和ケアのありかた」「アルツハイマーについて」「無縁社会における死」などのテーマを決めて語りかけ、考えさせてくれます。

 

この本の表題で最初のエッセイでもある「自然死への道」、特に「自然死」とは何なのか。何となく理解できるようで説明するのは難しい言葉だと思います。米沢氏は病院での延命治療を拒み、自宅で点滴を拒んで「がん死」を選んだ吉村昭と脳梗塞後の老いを伴う不自由と最愛の妻を亡くした喪失感に堪え兼ねて自死した江藤淳を引き合いに出して「自然死」の形を描こうとしています。

 

(引用はじめ)

「老い」とは老後の事ではないし、死の手前とか生の終わりの段階でもない。老いの受け入れに始まり、老いを超えるという未踏の劇がそこにあるということである。それは心身の慢性的なうつ病状態を受けとめることでもあろうし、介護する・介護を受け入れる勇気でもあるだろう。「病」についてもまた、闘病から病を超える(いのちの明け渡し)過程がいる。自然死は、これらの過程を避けたり、退けてはやってこないということであろう。

(引用おわり)

 

と著者は結んでいます。この一文はその後のエッセイの展開と氏の主張を理解する上でキーとなる文章であろうと思います。またこの本には「なるほど」と腑に落ちるようなフレーズをいろんな個所に見いだすことができます。例えば上に書いた

 

「老いとは心身の慢性的なうつ病状態を受け止めること」

日本語で「私はがんです」という場合”I have Cancer”ではなく”I am Cancer”のニュアンスになっている。

本来の看護とは、心に串を刺されたような状態の患者にただ寄り添うことだ。

痴呆状態になってからの人生は澱のようなものだが、それを「いのちの深さ」(いのちの長さ−いのちの質)ととらえたらどうか。

がん患者の「できるだけのことをしてほしい」という希望は「可能な治療を全てして」というより「最期まで見捨てないで欲しい」という願いだ。

いのちの明け渡しとは病気への降伏ではない、大いなるものに身をゆだねる道を自分で選択することである。

 

などなど、短いエッセイの中に深く考えさせるものが沢山詰まっています。

終わりに私が普段から主張している、健康な人の検査値を異常と規定することで、将来急性疾病がおこるリスクを統計的に減らすことができるとして薬を飲ませる「予防医療」や、既に死んでいる人に儀式のごとく蘇生をする救急医療の欺瞞について考えさせる記述を中川米造氏のことばとして記されている部分を引用します。

 

(引用開始)

「病には病気と疾病がある。検査で異常がみつかったのは疾病であって病気ではない。病気とは自覚症状がでて生活が障害されるようになることだ。前者は患者になるのであり、後者が病人。この病人が医療から取り残されている。」「病気とは臓器と臓器、自分と身体、自分と社会とのあいだを含めて関係のこだわりであり、関係の切り離しである」

「それを修復し、病人を癒すことが医療の役割だとすれば、医学という科学を患者の治療に適用することでできることはごく一部。医療が文化といえる倫理をもつようにならないといけない。」

忘れてならないのは「慰めと癒し」とは患者への配慮、(いのち)への配慮を指すことである。

(引用おわり)

 

ここに記されているように「予防医学」には慰めも癒しも必要ないのであり、医療が文化といえる倫理など全く必要としていないことが解ります。症状のない早期癌を治療することも、疾病の治療であって病人の治療ではないということになります。癌が進行して日常生活に支障を来すようになり、本当の病人になったとき、現在の急性期を主体とした医療は「慰めと癒し」「いのちへの配慮」について十分な手当て(医療内容としても診療報酬としても)がなされていないと感じます。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

結婚について

2011-01-27 00:40:40 | その他

最近は男性の看護師が増えたといってもやはり看護学校には女子学生が多い。講義で学生達を眠くさせない話題の一つは「結婚」について話題にすることです。

 

自分が学生の時に女子大でも教えていたという心理学の先生から聞いた話とか、自分自身の結婚観とか交えて「こうすると良い結婚ができる」的な話しをすると目を爛々と輝かせて聞いてくれます。

 

要約すると、

 

1)            生活信条はあまりかけ離れていない方が良い。

見合いや紹介だとあまり心配ないでしょうが、恋愛の場合やはり生活信条は近しい方がうまく行きますね。共働きの可能性とか子供の要否とかも意見が合わないと結局うまく行かないでしょう。

 

2)            生理的に無理と思ったら止める。

これは以外と重要なこと。見合いや紹介による結婚では必須。しかし生理的に無理でなければ容姿はそれほど重要ではないと思う。

 

3)            結婚したいと思うような相手は2−3年に一人しか現れないと肝に銘ずる。

学生時代にあれだけ沢山異性がいても「結婚したいな」と思う相手は数えるほどだったはず。社会に出たらもっと出会う機会は減るから自分なりに努力しても適齢期の20代から30前半のうちに出会える結婚したい相手はせいぜい3−4人です。「相手はいくらでもいる」「世の中の半分は異性」などというのは嘘で、目の前にいる「良いかな」という相手と結婚しなかったら次は数年後でなければ結婚の機会はないと考えた方が良いです。

 

4)            まだ少し早いかな、と思う時が結婚時である。

女性について言うと、「まだ結婚なんか早いし、もう少し遊んでいたい」という頃が一番輝いていて魅力的です。一番良い相手が見つかるのはその時と考えた方がよいでしょう。「そろそろ相手を見つけないと」の時期になると明らかに輝きが減る(年齢だけの問題ではない)のが男性からみると分ってしまうものです。

 

5)            ええい、と勢いで結婚してしまうことも必要。

結婚にはマイナス面も多いので打算的になっていると永久に結婚などできません。勢いも大切です。

 

6)            結婚式や旅行は行った方がいいと思う。

面倒な結婚式の準備や高額な費用は、「結婚は生涯一度で沢山だ」と思うためにもやっておいた方がいいです。女性の側からもやってないと後々機会があるたびに旦那が不平を言われる元になるようです(私はやったからいいけど)。

 

7)            結婚は1+=2になる訳ではない。

結婚しても自分の生活を守りたい、などという考えは捨てるべきです。結婚したら自分の生活はなくなると考えた方が良いです。そのかわり新しく二人の生活が始まる訳で、「1+=新しい1になる」と割り切った方が良いです。子供ができるとそれがもっと変ってしまう。私の場合も結婚前と現在の自分の生活で変ってないのは職場の机に座っている時だけです。まあカミサンの方が大分合わせてくれているから家でも0.6位は結婚前の自分の生活が続いているかも知れませんが。自分たちの生活を大切にしたいから子供は作らないとか言っている人達がいますが、これは理解不能です。子供ができた生活も自分たちの生活と考えるべきですし、女性が職場で同じ仕事ができなくなることを危惧してそう表現しているようなのですが、実力のある人ならば子供を持ってからの方がより懐が深い良い仕事ができるように感じます(勿論苦労が多くなることは当然で、その苦労がその人を育てているのだと思いますが)。

男の子育て支援について言うと、私は子育ても年子が続いたり子供が病気したりしたせいでけっこう手伝ったので(ミルクやりもおむつ変えも全部できます)魅力的な女性がいても浮気したいという気が起きません。浮気して子供ができたらまたあの面倒くさい子育てを振り出しに戻って始めるのかい?と思っただけで萎えてしまいます。

 

結婚の要点をまとめると、以上のようなことになるでしょうか。

核家族の時代になってから、一時「友達夫婦」みたいな家庭の体をなさないような姿が脚光を浴びたようでしたが、今不況で生活が家族で助け合わないとできないような時代になって再び旧来の家族のありかたが見直されてきているように感じます。何より若い人が家から出てゆかない場合が増えています。いきなり昔の家と家を単位とするような結婚には戻らないと思いますが、次の世代に社会をつなぐためにも結婚は大事な習慣であると私は思います。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画セブンイヤーズインチベットと尖閣事件報道

2011-01-24 20:33:35 | 映画

Seven Year in Tibetは1997年のアメリカ映画でブラットピット主演、監督はジャンジャックアノーで中共のチベット侵略を描いた作品として製作当時も現在も注目されています。監督や主演のブラピはこの映画のために危険人物として製作当時から終身中国入国拒否になっているそうですが、この映画には密かにチベットで撮影されたシーンも20分位入っているそうです。

 

映画の感想としては、何か物足りない淡々とした映画だな、という印象です。主に描きたかったのがブラピ扮するオーストリアの登山家ハラーが、第二次大戦直前にドイツ帝国の国威をかけてヒマラヤ登頂に挑み、戦争勃発でインドで英軍に捕らえられて脱走してチベットのラサに行き着き、そこで幼いダライラマ14世と7年に渡り交流し、50年の中共チベット侵略を機に母国に還るという(故郷を離れていたのは10年)物語だから、文明国を離れた非日常的な生活、しかもヒマラヤの絶景と密教的な異文化の中で過ごしたことを物語るだけで十分映画としての面白さはあるのかも知れません。

 

しかし描きたい中心がチベット文化なのか、若き日のダライラマなのか、中国のチベット侵略なのかがはっきりしない所が長尺な映画の割に何か物足りなさを感じてしまう所以なのだと思います。

 

若き日のダライラマを描いた時点で当然中共のチベット侵略が映画の焦点として描かれない訳にはいかないのですが、描き方が肩透かし的で、中共軍によるチベット人の虐殺もダライラマの夢に出てくるだけ、チャムドの戦いもちょっとした砲撃でチベット軍は雲散霧消、指導者ンガワン・ジクメの降伏勧告があっさり描かれているだけです。

 

この中国のチベット侵略はハラーを交えた物語の一部として映画で描くには、実はあまりに複雑で長期に及んでいるから簡単には描けなかった、というのが監督の本音ではないかと思われます。49年の中共成立、50年のチベット攻略宣言、51年の17条協定の強要、56年からのチベット動乱58年ラサ暴動とダライラマ亡命など実際には10年以上かかってじわじわとチベットの独立(自律的政権の消失)が行われてきた訳ですし、中国も当初は香港的一国二制度を西蔵といわれる地域には認めていた経緯などもあって、監督としては「まあこんなもんだろう」という感覚でチベット侵略を描かざるを得なかったのだと推測します。その点は某在日韓国人監督が描く日本統治時代の朝鮮と似たようなもので、「まあこんなもんだろう」という嘘だらけの内容になってしまうのだと思います。チベット併合の是非はともかく描かれた中国としては「許せない」という気持ちも多少理解できます。

 

この映画、1月22日の夜CS放送で見たのですが、その日の夕方TBSの「報道特集」というニュース番組で尖閣諸島の中国漁船巡視船体当たりビデオをYou Tubeに流した元海上保安官の一色氏を「sengoku38単独インタビュー」と題して特集していました。明らかな犯罪現場が写されているのに、その犯人の漁船員が無罪放免になっていて、その犯罪現場を写したビデオを公開した海上保安官が起訴されることはあり得ない(つまり衝突は犯罪でないことになったのだから)のですが、結局一色氏は自主的に退職をすることになり、テレビにも実名で出る事を承諾しました。

 

このインタビューの一番の眼目は、

「既存のマスメディアがビデオを公表しないから素人がYou Tubeに公開し、世に問うたという事実をどのように受け止めるか」という一点にあります。つまり「既存メディアの存在価値を職を賭して世に問うた人にインタビューする覚悟がメディア側にあるか」を視聴者が評価できることにあるのです。

 

だから「この「報道特集」という番組に一色氏がビデオを持ち込んでくれれば我々は確実にこれを公表しました」或いは「中国の心証を害する可能性があったので、局として、或いはジャーナリストとして、我々もビデオの公開はしなかっただろう」という真摯なコメントが番組のどこかでなされるものと期待していました。YouTubeに出た途端に全てのテレビがこれでもかとビデオを流したということは、このビデオ自体国家機密などではないとメディアは確信していた訳で、どこかの局かジャーナリストがこのビデオを初めに流しさえすれば、全てはそいつの責任ということにして我先にとビデオに飛びついたということです。「初めに流す」という責任を誰も取ろうとせず、一色氏があえてその責を負ったということに対する既存メディアの負い目をどう表明するのかと期待していたら、何と「職を追われて家族は大変でしょう。」とか「公務員として自分のやったことは正しかったと思いますか」とかくだらない質問に終始、終いには「sengoku38とはどのような意味ですか。」ときた。このインタビュアーはバカではないのか。この番組のキャスターをしている深刻そうな顔をした良い年の記者(金平、日下部)達は自分たちの責任についてどのように感じているのだろうか。「我々にも家族がいて、生活もある。だから一色氏のような決断は自分たちにはできなかった。」という正直なコメントがあって初めてジャーナリストとしての面目が立つのではないですか。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モデルガン

2011-01-19 22:35:14 | その他

暮れから正月にかけていつになく少し自由な時間が持てたので、前々から作りたいと思っていたモデルガンのキットを購入して作成しました。銃マニアの人はマウザーと英語読みするのかも知れませんが、ミリタリーファンの人は多分モーゼルとドイツ語読みする方がしっくりするモーゼルM719のキットと、なかなか売ってない(最近ヘビーウエイトモデルとして復活したようですが)第2次大戦中のドイツ軍歩兵の主力武器だったMP40のマルシン製組み立てキットをインターネットで購入しました。

 

銃の楽しみ方には「撃つ楽しみ」「メカニズムを味わう楽しみ」「コレクションする楽しみ」などがあると言われますが、私の場合は二番目のメカニズムが面白いと感じていて、「考え抜かれて無駄がない銃の機構」に何とも言えない興味があります。実銃をコレクションするのは手入れに時間や手間がかかりますし、実銃自体にはあまり興味がないので集める気が起こりません。また「撃つ楽しみ」も実際小銃やピストルを撃った経験はありますが、あまり楽しいと感じなかったので、やはり自分はメカニズム派なのだろうと思います。

 

拳銃はマガジン式のダブルアクション(装弾しておけば引きがねを引くだけで弾が出るやつ)を何回か撃ちました。25m位の距離から30cm位の円形の的を撃つのですが、銃身の先が少しゆれるだけで外にはみ出してしまう様な大きさにしか的が見えない状態で、ゆっくり息を吐きながら引きがねを引くと自分で意識しない時に弾が発射されて気がつくと手が跳ね上がっている、という感じです。5発中4発位は円の中に着弾しますが、なかなか中心の5点には入りません。映画のように瞬時の判断で銃を抜いて相手に当たるなどまず無理だろうと感じます。

 

小銃は400m先に3−4mはある紙の的を立てて伏せ撃ちをするのですが、これがまた拳銃と同様、銃の先が少し動いただけで的から外れるような大きさにしか見えないのでゆっくりと息を吐きながら引きがねを引いて知らないうちに発射されているという感じです。銃が重くて大きい分装薬が多く発射の衝撃も拳銃より大きいはずですが、あまり大きく感じません。これまた5発中3発位は円の中に入りますが、まず400mも離れたらヒトや動物には当たらない(もともと撃ちたいと思わない)と思いました。ゴルゴ13は1000mでも動いている人物の額に一発で命中させますが、「人間業でない」ということが実感としてわかります。

 

実銃は発射した後、必ず分解掃除をして油を塗ってやらないと痛んでしまい、次に使えなくなるのですが、これが面倒ということも「撃つ楽しみ」が持てない理由です。

 

モデルガンはでき上がった状態で売っているものもあるのですが、メカニズムを楽しみたい派としては全て分解された状態から組み上げてゆくモデルがやはり楽しいと感じます。可動部分以外はABS樹脂で出来ていて実銃の2/3位の重さなのですが、動作は弾が出ない他は実銃と同じで構造もほぼ同じにできているから十分楽しめます。ただ樹脂の部分はどうしてもプラスチックの質感が残るので、写真にあるような塗料で予め塗装しておくこと、及び組み上がってから軽く上塗りすることが必須だろうと思います。塗料のスプレーはモデルガンショップなどでブラック又はブルーがかったブラックが2400円位で売っています。私はアメヨコのガンショップまで買いにゆきました。非常にきれいに仕上がります。


詳述はしませんが、モーゼルもMP40も少し金属を削り込まないと上手く組めないような所が1−2ヶ所あってコツが要るのですが、否にならない程度の面倒さなので組み上がって上手く動作した時には嬉しくなります。

 

「撃って楽しむ」か「メカを楽しむ」か「コレクション」かというのは、一般的なミリタリーファンについても言えることで、戦略や用兵に興味がある人と、単に兵器のメカニズムが好きな人、用品をコレクションする人と「ミリオタ」とひと括りにできない「中身の違い」があると思われます。剣道の達人であっても日本刀に興味がない人がいるのと同じです。私は「ミリオタ」のはしくれですが、中身は「兵器のメカが好き」というタイプでどうも本物の軍隊は膚に合わないようです。戦略や用兵についても自衛官と話しができるような一通りの知識はありますが、どうもあまり興味が持てませんでした。かといって武器の諸元を詳細に語るなどという知識はなく、「あの飛行機はかっこいい」とか言っているレベルなのでいい加減なものです。

医者としては幸い銃で撃たれた患者さんを診ないといけない状況になったことはありません。昔ショットガンで至近距離から撃たれて亡くなった人の司法解剖のご遺体を見た事があります。多分バードでなくバックショット(鹿撃ち)なのではないかと思われる胸から上腕にかけてごっそり肉を持っていかれてる悲惨な状態だったのですが、近距離用のチョークかどうかなど事件の詳しい状況は判りません。アメリカでは銃の乱射が最近も頻繁に起こっていて、中東の戦争で亡くなる軍人よりもアメリカ国内の銃犯罪で亡くなる人の方が多いという異常な社会です。アメリカに留学した時もGunshot Woundの正書が大学病院前の生協の本屋に平積みになってました。マンハッタン留学中に幸いホールドアップに合うことはなかったのですが、セントラルパーク以外は100番から北には歩いて行かないとか、万一の時はいつでも出せるようにズボンに20ドル札を入れておくとかは励行していました。モデルガンを買っておきながら矛盾してますが、日本は銃社会でなくて本当に良かったと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

セカンドオピニオンは患者を救うか?

2011-01-06 00:50:18 | 医療

世の中はセカンドオピニオン真っ盛りだと思います。外来をしていて本人も悪い病気をあまり意識していない状態で癌を見つけて(我ながら名医だと思う瞬間なのですが、そのような患者さんに限って進行していて悪性度も高かったりする)治療について説明すると「どこそこの病院(大抵がんセンターのような名のある大病院)にセカンドオピニオンに行きたい」と言い出します。しかも複数の病院を指定してくる場合も多いです。

 

一定レベル以上の基幹病院ならば、日本ではどこの病院に行っても「悪性疾患」の治療レベルに差などありません。しかし癌以外の良性疾患については主治医の考え方や力量による差がけっこうあるのが普通です。だから本当にセカンドオピニオンが役に立つのは癌以外の良性疾患であり、考え方がいろいろあるものについては私もセカンドオピニオンを患者さんに推奨しています。

 

どこの病院に行っても同じ説明、同じ結論であることが明白である病態についてセカンドオピニオンの紹介状を書くのは苦痛であり時間の無駄であり、紹介先の医師の身になって「あいつ何でこんなセカンドオピニオンを送ってきたのか。」と申し訳ない気持ちになります。生検の組織結果すら出ていない段階で「いついつまでに紹介状を書け」と外来の受付に診療時間外に依頼してくるような患者に至っては「もうこの病院には来ないで欲しい」と感ずることもしばしばです。

 

本来セカンドオピニオン外来は保健適応外であり、全て自費診療になります。普通30分で数千円から一万円位かかります。しかしセカンドオピニオンと言いながら紹介状として通常の外来に提出して保険診療で済ます患者も沢山います。医療費のムダ遣いであり、開業医からの医療連携としての紹介状患者さんの診療を妨害する行為です。限られた時間、医療資源で効率的に医療を行なうことを妨げる我が儘で自分勝手な行為と言えるでしょう。

 

では「癌のセカンドオピニオンが本当に一切無駄か?」と聞かれるとそれもまたそう言いきれないことがあるのが苦しい所です。実際「進行した末期の腎癌」と他院で診断されて納得できずに来た患者さんが「腎のリンパ腫」であって化学療法でかなり改善した例もありましたし、「睾丸腫瘍で即手術」と言われた患者さんが「感染だったので抗生物質で治った」など他院で誤診されていたものがセカンドオピニオンで判ることもあります。また治療についてもスタディとして統計を取るために50歳の患者も80歳の患者も同じ治療方針になったりする大学や施設もあるので、個々の患者さんの考え方やライフスタイルに対応できない場合(治療として教科書的には正しいのですが)などもあり、前半の主張と矛盾するようですがセカンドオピニオンが全く意味がないとは言いきれないのも事実なのです。

 

ではどのような場合にセカンドオピニオンが有用になるかを考えて見ます。

 

1)            診断や治療の説明が非論理的で納得が行かない時。

患者さんが納得できるよう説明をするのも医師の力量なのですが、患者さんの側で納得ができない場合はセカンドオピニオンとして他の医師に説明してもらう、或いは診断しなおしてもらうのも良いでしょう。ここで問題なのは「納得できない」=「病気を受け入れられない」であってはならないことです。自分に都合のよいことを言ってもらえるまで病院を渡り歩いて結局手遅れになるのは自殺行為でしかないからです(かなり実例がありあます)。

 

2)            自分の受けたい医療についての希望を十分に考慮してもらえない時。

現在はどの施設も患者さんの希望をかなり聞いて「オーダーメイド」に近い医療をしてくれるところが増えましたが、やはり画一的であったり、考え方に合わない治療を強要されるような場合にはセカンドオピニオンが有用になると思われます。「病気を受け入れられない」ではなく、「病気になった状態としてどのように生きたいか」という個の確立が出来ていることが前提になります。

 

3)            当該施設ではできない医療について相談したいと考える時。

放射線でも重粒子線、陽子線であるとか、立体照射や腔内照射など一部の施設でしかできないもの、手術も腹腔鏡とかロボット手術などできる施設が限られているものを希望する時にははっきりとその旨を主治医に告げればすんなりと紹介(セカンドオピニオンというよりは治療依頼の紹介)してくれるはずです。

 

セカンドオピニオンが有用な場合にはこれらのことが考えられます。要は「単に医者や病院がハナから信用できない」ということではなく「病気を受け入れた上でどのように病気と戦う、或いは病気の状態で人生を生きるか」について納得がゆく結論が得られない時にセカンドオピニオンを活用する、相談したいポイントを整理した上で他の医師の意見を聞くというのが正しいセカンドオピニオンの取り方ではないかと考えます。しかしどうしても一定の割合でセカンドオピニオンで誤診が判明してしまうこともあります。神ならぬ医師が医療を行なっていることの限界と言えるかも知れません。医者の私が言うのも変な話しですが「医者を選ぶも寿命の内」、「このドクターならば命を預けられる」という医師に巡り合うことも実は大事なことなのです。セカンドオピニオンに行った先が「ババ」であることもあるのですから。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする