書評 自然死への道 米沢 慧 朝日新書 2011年刊
前にも取り上げたことがある、病を治すことを目的とした医療を「往きの医療」とするならば、病と共に良く生きることを目的とした医療を「還りの医療」と表現してどちらも大切、或いは前者ばかり重視されていないか、と問題提起した米沢慧氏の新刊で、私が氏を知った「選択」という雑誌のコラム42本をまとめて本にしたものです。
改めて読み返して見ると、氏の一貫した「良く生きるということを助けるための医療とはいかにあるべきか」という主張が、飾らない肩肘張らないことばで優しく語られていることに共感します。日常的な医療の中で全て氏の主張に添えない部分も多々あるのですが、世の中にある「批判のための医療批判」ではなく、現代医療に関して医療現場、行政、国民目線においても見逃されている部分に光を当て、深く考えさせてくれる点で、医療者のみならず患者、国民皆が読み、考えるべき内容を含んでいると思います。
構成として雑誌の掲載順でありながら「老いる」「病(やま)いる」「明け渡す(死への道のり)」という内容に別れていて、それぞれ老いを受け入れる、病いと共に生きる、死を受容する(受け身的な死ではなくて、死に至るまでどのように生きるかを自分で選択する)ということについて「緩和ケアのありかた」「アルツハイマーについて」「無縁社会における死」などのテーマを決めて語りかけ、考えさせてくれます。
この本の表題で最初のエッセイでもある「自然死への道」、特に「自然死」とは何なのか。何となく理解できるようで説明するのは難しい言葉だと思います。米沢氏は病院での延命治療を拒み、自宅で点滴を拒んで「がん死」を選んだ吉村昭と脳梗塞後の老いを伴う不自由と最愛の妻を亡くした喪失感に堪え兼ねて自死した江藤淳を引き合いに出して「自然死」の形を描こうとしています。
(引用はじめ)
「老い」とは老後の事ではないし、死の手前とか生の終わりの段階でもない。老いの受け入れに始まり、老いを超えるという未踏の劇がそこにあるということである。それは心身の慢性的なうつ病状態を受けとめることでもあろうし、介護する・介護を受け入れる勇気でもあるだろう。「病」についてもまた、闘病から病を超える(いのちの明け渡し)過程がいる。自然死は、これらの過程を避けたり、退けてはやってこないということであろう。
(引用おわり)
と著者は結んでいます。この一文はその後のエッセイの展開と氏の主張を理解する上でキーとなる文章であろうと思います。またこの本には「なるほど」と腑に落ちるようなフレーズをいろんな個所に見いだすことができます。例えば上に書いた
「老いとは心身の慢性的なうつ病状態を受け止めること」
日本語で「私はがんです」という場合”I have Cancer”ではなく”I am Cancer”のニュアンスになっている。
本来の看護とは、心に串を刺されたような状態の患者にただ寄り添うことだ。
痴呆状態になってからの人生は澱のようなものだが、それを「いのちの深さ」(いのちの長さ−いのちの質)ととらえたらどうか。
がん患者の「できるだけのことをしてほしい」という希望は「可能な治療を全てして」というより「最期まで見捨てないで欲しい」という願いだ。
いのちの明け渡しとは病気への降伏ではない、大いなるものに身をゆだねる道を自分で選択することである。
などなど、短いエッセイの中に深く考えさせるものが沢山詰まっています。
終わりに私が普段から主張している、健康な人の検査値を異常と規定することで、将来急性疾病がおこるリスクを統計的に減らすことができるとして薬を飲ませる「予防医療」や、既に死んでいる人に儀式のごとく蘇生をする救急医療の欺瞞について考えさせる記述を中川米造氏のことばとして記されている部分を引用します。
(引用開始)
「病には病気と疾病がある。検査で異常がみつかったのは疾病であって病気ではない。病気とは自覚症状がでて生活が障害されるようになることだ。前者は患者になるのであり、後者が病人。この病人が医療から取り残されている。」「病気とは臓器と臓器、自分と身体、自分と社会とのあいだを含めて関係のこだわりであり、関係の切り離しである」
「それを修復し、病人を癒すことが医療の役割だとすれば、医学という科学を患者の治療に適用することでできることはごく一部。医療が文化といえる倫理をもつようにならないといけない。」
忘れてならないのは「慰めと癒し」とは患者への配慮、(いのち)への配慮を指すことである。
(引用おわり)
ここに記されているように「予防医学」には慰めも癒しも必要ないのであり、医療が文化といえる倫理など全く必要としていないことが解ります。症状のない早期癌を治療することも、疾病の治療であって病人の治療ではないということになります。癌が進行して日常生活に支障を来すようになり、本当の病人になったとき、現在の急性期を主体とした医療は「慰めと癒し」「いのちへの配慮」について十分な手当て(医療内容としても診療報酬としても)がなされていないと感じます。