rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

ジョージ・オーウェルの1984は「戦後秩序」をどう予見したか

2014-07-31 16:37:17 | 書評

書評 1984(新訳版)2009年刊 早川書房6494

訳者あとがきによると、ジョージ・オーウェルの1984は英国においても「読んでないのに読んだふり」をする本の1位に選ばれるそうで、「ビッグ・ブラザーがあなたを見ている」という有名な台詞が現代の監視社会を見事に予言しているという思い込みから「あの作者はすごいね、描かれた未来は怖いね」という安易な反応を生み出してきました。私も「何となくこんな内容」と予想はしていましたが、IQ84はともかく、本家の1984は一度きちんと読んでみたいと思っていた本であったことは確かです。今回「新訳」として出されたものが本屋に平積みになっていたので購入して読んでみました。

 

  小説1984                  George Orwell

読んだ事ある方はご存知でしょうが、この「1984」という小説の主題は「ストーリー展開」ではなく「舞台となる社会設定の妙」だと思います。ストーリーの展開はどちらかと言えば「数幕しかない舞台演劇」のようにスペクタクルには欠けるもので、展開自体もやや強引というか必然性を欠いたものであり、血湧き肉踊るようなワクワクするものではありません。やはり何と言ってもこの小説が発表された1949年という世界を巻き込んだ第二次大戦が終わって間もない時期にこれだけ将来を予見し、また大胆な仮説をもって未来の社会設定を行った作者の想像力こそがこの小説の価値を決めるものだろうと思います。

 

以下、舞台となる社会設定の中で特に印象深い点を抽出して感想を述べます。

 

○   イングソックという社会を律する秩序が、社会を動かす権力層(上層)の永続的固定化を目的に作られていること。

社会を上層、中間層、下層に分けると、上層は自らの地位を永続させるように社会を支配しようとするが、力をつけて下層を味方につけた中間層にいずれ取って代わられるのが、世の常である。だから中間層が力を付けないよう、また下層を味方につけられないような社会システムを構築すれば上層が常に権力を保持できる、という考え方が基本になっているのは秀逸。この目的を達するための道具が論理的考え方や自由といった抽象的思考をなくしてしまう「ニュースピーク」という言語体系であったり、2+2=5であることを自ら進んで矛盾を感じずに答えられる「二重思考」(誤りであることを認識しながら、誤りの方を自ら納得して正しいと自然に考える認識法)であったりします。また中間層は徹底した監視社会におかれて、秩序に反する「おそれがある」と見られただけで社会から抹殺される状態におかれ、思考警察の制度で「反秩序を考えただけで犯罪になる」システムが構築されます。一方で下層に属する人達は「プロール」と呼ばれて中間層よりは自由なのですが、常に日常生活に追われて中間層的な豊かさは持ち得ないような社会システムに設定されています。つまり生かさず殺さずになるよう物質的供給がなされているのです。

 

○   世界がオセアニア(米英中心、思想はイングソック)、ユーラシア(ロシアと欧州中心、思想はネオ・ボルシェビズム)、イースタシア(中国中心、思想は自己の滅却)に分かれていて、しかも常にどこかと戦争状態になっていることで逆に安定していること。

1949年の中国共産国家ができるかどうかの時点で米ソは分かりますが、よく中国を第三極とした社会を想定したものだと感心します。しかもこれら3国の思想は実際の所ほとんど同じ内容ということも興味深いものです。

 

○   資本主義が否定されて社会主義の世の中になっており、上層が維持するものは富ではなく権力であるという設定であること。

この設定が「社会主義は酷い社会だ」という宣伝材料として使われて、1950年代のマッカーシズム(赤狩り)にも使われたと解説にありました。1990年には共産主義が消滅するとはさすがにオーウェルも予想しなかったようですが、現在の社会を見ると、「富と権力を一体としてそれを永続的に維持するシステム」が構築されつつある、つまりオーウェルの予想したシステムを一ひねりしたものが現実化されつつあるように私には感じます。この「富と権力を一体化したもの」を単純に「自己の持つ寿命」として映画化したのが「Time」という映画(2011年米国ジャスティン・ティンバーレイク主演、アンドリュー・ニコル監督脚本)でありました。この映画では下層民はその日を何とか生き延びる寿命しか持たず、上層民は数千年もの有り余る自己の寿命を持て余して賭け事や浪費に費やしたりします。その日を生き延びる寿命が稼げず、また寿命を借金することもできなかった下層民は腕に表示された寿命が0秒になった途端に道でも家の中でもばたりと倒れて息絶えます。社会は層毎に住み分けられていて下層民は上層民の住む地域には行けない設定になっていて社会システムが永続するようになっているのですが、「Time」という映画は、そのシステムを撹乱する革命児が現れてしまうというストーリーです。

 

 映画「Time」腕に自分の寿命が時間で示される。寿命が貨幣の代わりになり、貸し借りができる

 

○   宗教の存在が否定されていること。

イスラム、ユダヤ、キリストなどの一神教においては、個人が忠誠を尽くす相手は神である、とは丸山眞男の「忠誠と反逆」でも述べられていますが、この社会では個人が忠誠を尽くす相手は「党」であると明確に規定されていて、宗教のシンボルである教会は「オレンジあるよ、レモンもね、鐘響かせるセント・クレメント・・」というわらべ歌の中で繰り返し語られるだけになっています。つまり実社会において社会システムを固定化するには宗教は邪魔だということが明瞭に謳われていると言えます。現代社会でも資本主義グローバリズムによる世界統一(New World Order)に最も強く抵抗しているのはイスラム社会であるという現実があります。

 

○   世襲が否定されて、上層には中層から一代限りで誰でもなれるシステムになっていること。

これは一見上層構造を不変とするシステムと矛盾するように思われてしまうのですが、社会変革が起こるのは世襲によって能力のない人間が上に立つ事が原因と考えると、一切の世襲が否定されて中層から社会システムへの適合性について「忠誠心と能力」を幼少期(ユーゲントや青年団のようなコミュニティで育つ)から選別されて適切な役職に一代限りで就かせるというシステムは、社会システムを普遍にするには有用な手段であると思われます。血族の情は許されず、子供は社会の所有物という思想が徹底されています。

 

このような特徴を持つ社会システムですが、オーウェルが予見した未来社会と現在の戦後秩序とされる国際社会の類似点、相違点を検討してみます。

 

< 類似点 >

○   上層の永続性の工夫。

豊かな中間層をなくし、1%の富裕層と99%の貧民層に分けるというのは上層の永続化につながり、情報の独占もやりやすくなります。

 

○   監視社会になっている。

町中至る所ビデオカメラだらけ、砂漠のキャンプも人工衛星で監視、全ての電話やメールは盗聴済みです。ビッグデータは監視社会の果実と言えます。

 

○   偽旗作戦をやっている。

小説でも、時々プロールの町中にロケット弾が打ち込まれて被害者が出ていますが、これは戦争をしている事を認識させ、また反社会勢力のテロだと宣伝することで国民に敵愾心と社会への忠誠心を抱かせる政府の自作自演の行為なのですが、現実社会でも911、ボストン爆弾テロ、公文書まで公表された過去のノースウッド作戦など自作自演の偽旗作戦が数限りなく行われています。

 

○   過去を創り変える。都合の良い情報操作を日常的に行う。

イラク戦争の大量破壊兵器がある口実、南京虐殺や慰安婦問題、政権に都合がよい過去の創作や情報操作は今や日常茶飯事。戦争広告代理店という本にあったように、いかに相手を悪く作り上げるかが、大衆を騙して権力を信用させる大事な方略になっています。

 

○   タブーとして再考を禁ずる。

ナチスのユダヤ人虐殺数の問題、原爆投下が本当に必要だったのか、欧米列強の過去における植民地支配の総括、白人が行った奴隷売買の総括、国連の場で徹底的に討論できるものならしてみれば?

 

○   誤りでも良いと進んで考えるようにする。

これは日本人にも耳が痛いことが多い。しかし中国で共産党独裁のまま民主化が進まないことについて、金が儲かるなら独裁政権のままで良いとする中国国民が増えているのも確か。

 

○   幼少時からの教育をシステム維持に用いる。

自分で考える能力を学ぶことでなく、知識を学ぶことを教育の本質とするのが現状であるように思う。社会を維持するための大人を育てることが教育(内田 樹氏の持論)という考えも一理ありますが。

 

○   社会システムに背くことをテロとして弾圧する。

同じ事をしても米国に都合が良い物を「民主化勢力」と言い、都合が悪い物を「テロリスト」と呼ぶ。日本でも義賊、逆賊という言い方がある。

 

○   社会システムのパワーが、人がコントロールできない程強くなってしまった所が、大きくなりすぎたマネーのパワーが世界の経済を破壊するほどになっている現在に類似。

これはリーマンショックを始めファンドマネーが右往左往することで実態経済をかき回して制御できない状態にしていることに似ています。

 

○   常にどこかで戦争をしていること、しかも多くの人にとってそれが他人事であること。

米国の現状がこれ、日本もそうならないように。

 

< 相違点 >

○   資本主義である。

○   人、物、金、の往来が国境の障壁が少なく盛んである。 

○   ますます世襲である。

ということで、2014年は小説が書かれて、1984年を想像した未来の約2倍先まできているのですが、果たして現実社会は類似点の方が多いことになっています。この1984という小説がこれからも社会の中で種々引用されて評されると思いますが、この小説で描かれた社会を「最悪の設定」として、いかに現実をこの設定から回避できるか、という尺度で我々は考えて行かねばならないでしょう。

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書評 愛国の作法

2014-07-24 15:16:44 | 書評

「愛国の作法」 姜 尚中 著 朝日新書001 2006年刊

 

8年前の第一次安倍政権の際に書かれた著作であり、「愛国」という右翼的な響きの持つ言葉のイメージに惑わされずに「国を愛する」とはどのような心構えであるべきか、を在日2世である著者の視点から論考したものです。実は私も「愛国の作法」というような題名のエッセイを書きたいと思っていた所、完全にかぶった題名の本があった(勿論姜氏の方が専売特許)のでこれは読まねばと購入した次第。以下自分の思っていた「愛国の作法」に比較して、姜氏の著作の1)共感できるところ、2)共感できないところ、3)物足りないと思う所、の3点に分けて書評としてまとめてみたいと思います。

 

1)      共感できるところ

○   特定の政権や組織が作った方針に沿って行動することが愛国ではない。

「愛国心に基づく行動」を特定の集団が自分達の利益のために作った、「愛国の衣をまとった体の良い暴力的な政策」を遂行させる使い走りにされぬよう自分でよく考える必要があります。それは現在戦争が行われているウクライナにも中東にも当てはまる事柄です。

 

○   愛国には迷いや対立があってはならないなどと言う事はない、それぞれの愛国のありようがあってよい(盲目的な愛国というのはありえない)。

100人100様の愛国があって良い、ただし本心からの売国は良くない。自分と意見が違い、一見他国を利するように見えてもその人なりのしっかりした考えがあっての事であれば理解してもよいと思う。例えば日露戦争の時に明石元二郎から資金援助をもらって帝政ロシアを倒した共産主義者達は日露戦争では敗戦を導いたから「売国奴」と批難されるかも知れないが、その後の強大なソ連の形成に貢献した事からは愛国とも言えるはず。

 

○   国家には単なる郷土とは異なる意味合いや意義が存在する。

国家は国民の自由を奪い、時には生命をも害する権力を持っている。それは国民が豊かな社会生活を送る方便として権利の一部を国家に移譲した結果ではあるが、単なる郷土や故郷といった概念とは異なるというのはもっともな理屈だと思う。

 

○   それぞれの人が信ずる大義を自国に尽くすことが愛国ではないか。

丸山眞男の「忠誠と反逆」でも述べられていた「大義への忠誠」という事が「真の愛国」につながるという思想は共感できると思う。

 

2)      共感できないところ

○   郷土愛の同心円的拡大が愛国になることはないという意見。

一民族一国家は一つの理想であり、米国のように「憲法を国の柱」とする国家もあるし、アフリカや中東のような他国の都合で線引きされてできた国家もある。しかし日本の一民族一国家を僥倖とすることはあっても悪い事であるかのごとく敢えて否定する必要はないと思う。それはひねくれである。第二次大戦以降国家の数は増加し続けている。それは一民族一国家の理想を追求している結果であることを筆者は考えていない。他民族多文化を良しとする国家があっても勿論よいけれど、現状ではうまくいっていないのである。しかしイスラム教のような一宗教一国家的な発想が今後強くなる可能性はあるとは思いますが。

 

○   自分以外の愛国の論考を全て「右翼小児病」的な盲目的愛国という型にはめて批難しているところ。

自分と相容れない意見や考え方の人を自分が批判しやすいステレオタイプの型にはめ込んで「レッテル張り」をした上で滔々と批判を述べるやり方を右翼も左翼も得意とします。批判されている方は自分とかけ離れた人格や思想について相手が批難しているだけなので痛くも痒くもないのですが、時間の無駄というか非建設的なやりとりに嫌気がさしてこのような批難しかできない人を「知性の限界」として相手にしなくなる、という繰り返しをネット上でも現実社会でも経験してきました。勿論自分自身が人にレッテルを張って批難するような陥穽に陥らないように気をつけてはいますが、建設的な討論ができる社会というのは極めてレベルの高い社会であると思いますし、そのような社会を目指してゆきたいと思います。

 

○   著者は最終的に韓国人としての国籍を選び、外国人として日本の愛国を論じているのに、韓国を始めとする諸外国の愛国事情について論考がなく、ひたすら倫理的善悪に基づく判定を日本の愛国に対して行っている点。

最後の章に種明かしの如く自分の立ち位置が書かれているのは何だかなあという感じで、それならもっと広い視野で世界の愛国について論考して欲しかったです。

 

3)      物足りないところ(論考がないところ)

○   国民国家における愛国とグローバリズム世界における愛国の違い。

20世紀的な国民国家における愛国は比較的理解しやすいのですが、グローバリズム的拝金主義資本主義の社会においては、国民国家的な愛国心がそのまま通用しなくなってきています。米国の軍人は米国の国益のためにイラクやアフガンで命をかけてイスラム教徒と戦いますが、得をするのは本社がタックスヘイブンにあり、国家に税金を払わないグローバル企業であり、米国は1%の金持ちと99%の奴隷的貧民社会に別れ、国家の借金ばかりが増加して行くという現実。真の愛国(自国民全てが豊かで幸せに暮らせるための国益の増進)を考える時、グローバリズムの促進は矛盾する結果にしかならない。

交易の原則は「互恵、平等、無差別」という浜矩子氏の主張の通りで、この原則に沿わない貿易協定は一切拒否するのが真の愛国であると確信します。また国家に税金を払わない企業は売国企業として国際社会から排除する国際的な協定こそ作るべきでしょう。

 

○   イスラム世界における「ジハード」と愛国の相克。

丸山眞男の「忠誠と反逆」に述べられているように、一神教においては忠誠を誓う相手は「神」であって、国家が神の教えに反するならばそれを倒すことが大義に基づく忠誠になるのであって、神の教えに忠実な国家であるならば愛国を貫けばよいのだと考えられます。現在のイスラム国家は特定の部族を王とする国家が多く、特定の人達の利害のみが国益につながっている場合が多いのが現実です。だから国民は愛国心などという概念はもともと持っていないと考えるのが妥当ではないかと思います。

 

○   国家資本主義における愛国の立ち位置。

中国、ロシアや一部中東の国で盛んになっている国家資本主義(国家社会主義ナチズムと実態は変わらないという意見も)は、グローバル企業を中心とする資本主義よりも愛国を前面に出しやすいように感じます。これは重要な論点と思われ、現在イアン・ブレマーの「自由市場の終焉」(国家資本主義とどう闘うか)などを読んでいますのでいずれ論考します。

 

という事で、自分が「愛国の作法」を書くとすれば、1)を取り入れ、2)の内容は却下し、3)について新たに論考を加えた内容になるだろうと思われます。

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丸山眞男の「忠誠と反逆」からみたウクライナ情勢

2014-07-16 22:46:56 | 政治

丸山眞男(写真)は昭和の後半における著名な社会思想学者で、左翼的であるのが一般的であった時代に比較的体制的ともいえる評論姿勢から評価が分かれているようですが、私は氏の論文はどれも緻密な論考に基づくすばらしい内容に見えます。

 

現在のウクライナ情勢は東部ウクライナの親露独立派に対して政府軍が攻撃を続けており、詳細はわからないものの、東部に住む一般の人達の生活は既にシリアなどと同様悲惨な状況になりつつあるようです。以下のyou tube動画には、現在の前線や町の様子などの片鱗がかなり具体的に伺えます。中でもウクライナ政府軍が見方のヘリに攻撃を受けて混乱する動画などは、交錯した前線ではありがちなことではありますが、一体自分達が何に忠誠をつくして身を危険にさらしながら何のために自国民と戦っているのか、を考えさせる内容に思えます。

https://www.youtube.com/watch?v=7ZGZaxz26GU これは比較的よくまとまっている動画で、タイヤを燃やして煙幕にしている生々しさや、犠牲になった若者の葬儀の空しさが戦争の現実を現しています。

https://www.youtube.com/watch?v=vw66-xqYgJo 装甲車がバリケードを荒々しく乗り越えて行く様が見られ、実際の市街戦が印象づけられます。

https://www.youtube.com/watch?v=3r0UJXUw8WI 自軍のヘリ攻撃を受けるウクライナ軍の動画です。自軍に攻撃される理不尽、そもそもこの国内戦自体に必要性などないのです。

 

 

丸山眞男の「忠誠と反逆」(ちくま学芸文庫1998年刊)は、主に明治維新の日本を題材に「日本人にとっての忠誠とは何に対してであったのか、幕府への反抗、また西南戦争における政府への反抗は忠を否定した反逆であったのか、を論考した興味深い内容です。

 

国民国家における職業軍人にとって「忠誠と反逆」の意味するものは何なのか。例えば、第二次大戦において、ドイツ軍内で起きたヒトラー暗殺計画やパリ撤退と同時に文化あふれる都、パリを破壊しろとの命令を無視し、貴重な文明の破壊を阻止したコルティッツ将軍は反逆者だったのか。現代のタイやエジプトのクーデターの主犯となった軍人達は反逆者として扱われるべきなのか、その際の忠誠とは誰に対するものであるべきなのか。ウクライナ国防軍は暴力的に暫定政権に変わった時点でその政権に従うのが忠誠で良かったのか、では日本で暴力的に政変が起こったら、権力を掌握した新体制の指示に自衛隊や警察は従うことが公務員として正しい姿なのか。こういった問いは一つの解答に限られる事はない(丸山は見方と状況で評価が異なることを限界効用と表現していますが)とは思いますが、これらの悩ましい問いを検討するきっかけを丸山の論文は答えてくれているように思いました。以下抄録ではありませんが、氏の内容を加味して自分なりにまとめた内容を記してみます。

 

映画(パリは燃えているか?) ヒトラー暗殺を描いた(ワルキューレ)

1)西洋(或はイスラム一神教も含む)のエトスにおける忠誠

一神教における社会では各個人が一義的に忠誠を誓う相手は「神」であり、雇い主や国王、或は社会そのものが神の教えに背くものであればそれに「反旗を翻す」ことが忠誠であり、倫理的にも良しとされます。これは「倫理的善悪の決め方」の項でいつも私が述べていることと同じです。だから神の教えに背く行いをする国家を倒す権利が国民に認められていると考えるのが常識となっているのです。これを「テロリズム」とレッテルを張って取り締まりたいのが体制側ですが、本来それは許されない(米国にとって都合が良い場合は「民主化勢力」といって支援することになっている)ことであり、神の教えに背くことこそが反逆者の汚名を着るべき者達と言えるのです。

 

2)日本における伝統的な忠誠の考え方

日本における伝統的な忠義の根源は親分子分、主従の関係に求めることができ、神や仏の教えは忠誠という概念とはあまり結びつかなかったと言えます。徳川の幕藩体制は分散した主従関係がピラミッド的に集約してうまく権力の分散に陥らないようになっていたに過ぎず、直接全ての侍が徳川の家臣でなかった所に維新に結びつく忠義のゆらぎがあったとされます。

面白いのは仁政を勧めるために主君に諌言を上梓する事も忠義の現れとする思想があったことで、「君も天の御心を御心とし、臣も天の御心を心とするぞ、正しき道なりける」という思想であり、西洋の神の教えとは少しことなるもののより大きな儒教的思想を大義とする部分が日本の忠義にも影響していたと言えます。但し、中国では「三諌して聴かざれば其の国を去る」と天下の広さやダイナミズムを感じさせるのに対して、日本においては諌言が受け入れられなければ不本意ながらも主君に従うか、どうしても自己主張を通したければ切腹して一死をもって忠を示すのが道であるとされた所が異なります。

 

3)維新における忠誠のゆらぎと国民という概念の目覚め

幕末の異人来航によって「日本」と「外国」を強く意識せざるを得ない状況になり、忠義の対象が天皇を中心とする「神国日本」となり、体制維持をまかされた幕府が神国日本に忠ならざるならば倒すも良しという考えが出てきました。西洋で言う所のミリシア(民兵)は日本では「賊」と言うべきかと思いますが、同じ集団も状況によって義族(民主化勢力)と呼ばれたり逆賊(テロリスト)と呼ばれたりします。

戊辰戦争における西郷、勝海舟の江戸城明け渡しの際には二人の脳内では「幕藩体制を超越した日本国の概念」に基づいて、「日本国に忠なるべきはいかにすれば良いか」という視点で「江戸を焼け野原にしない」ために話し合いがなされていたように思われます。西郷隆盛という人の生涯は何に忠誠を尽くしていたのか、若い頃の島津家との確執や、維新における活躍、下野してから西南戦争での行動など簡単には理解しにくいのですが、彼なりの大義とするものに常に誠実であろうとした生き方が、ある時は義族、ある時は国賊としての行動になったものと思われます。その誠実さがあったからこそ明治帝を始めとする多くの人達から愛される人物となったのでしょう。

 

4)忠誠の対象が天皇に集約されたこと

明治の新政府において、新憲法が発布されると、明治20年代になって「国体」の概念が成立し、「忠君愛国」が一体の思想となったと説明されます。つまり「日本国」全体や社会に対する忠誠が天皇に対する忠誠と同一であると規定されてしまうのです。結果として外来の思想であるキリスト教のように「天主」の存在を神である天皇の上に据えるような思想は敵視される結果になり、日本における「忠誠」の対象がかなり窮屈な内容になって自由民権などの社会思想の発展や展開が限られたものになります。一方以降の社会で「忠君愛国」のあり方を巡っての勢力争いが許される環境ができてしまうのです。

  

5)戦後はどうなったか

丸山の本論文では戦後における「忠誠と反逆」の様相は語られていません。それは一度「国体」の絶対性が否定されて、価値観の多様化が許され、国家やネーションに忠誠を置くことがむしろ否定的に扱われる社会になったことを反映していると思われます。私としてはそのような時代だからこそ日本古来の考え方である「天の道」とか「仁」、身近な所では「自らの良心」といったものに忠誠を誓う生き方に戻ることが「拝金主義」や「会社への忠誠」といった空しい生き方から開放され、他国を利するための「みせかけの愛国主義」といったものに踊らされないために重要になってくるのではないかと思います。

 

米国で自国民の生存と関係ない、グローバル企業の利益のために戦争をさせられた退役兵士達(多くがホームレスやinvaridとして無為な生活を強いられている)にとって「忠誠と反逆」の意味するものは何か、ウクライナで同士討ちをしている人達にとって「忠誠と反逆」とは何か、心ある日本の国会議員達にとっての現在進行している各種事態についての忠誠と反逆は、と問うて行くと、現在の自分の行いが天に恥じない「忠誠」なのか忸怩たる「反逆」なのか明らかになってくるように思います。

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裁判における医療鑑定について

2014-07-02 22:21:38 | 医療

米国泌尿器科学会の研修医向け問題集の参考書に医療裁判における医師が鑑定人として関わる際の倫理的問題点などを記したものがあったので、自分も医療裁判の鑑定に関わることもあることから備忘録としてまとめておきます。

 

1)医療過誤(medical malpractice)の現状と鑑定の意義

 

米国において、医師患者間の信頼関係はここ数十年の間に損なわれる方向にある。医療技術の発達によって、医師個人の技量が問われる部分が増大している。米国は訴訟社会であり、300人に一人の法律家がいて、その合計は100万人に達している。

医療鑑定(expert witness testimony)を行う際に考慮すべき、医療過誤訴訟で明確にせねばならない目的は次の3点。1)安全さを欠いた治療の証明2)過失(negligence)による障害の補償3)公正な正義の追求、である。

米国では、近年医療訴訟に対する裁判用保険の保険料があまりにも高額であり(年間数百万円と言われる)、無保険の医師も増加する一方で、訴訟を避けるための「萎縮医療」「予防的医療」も懸念されている。

専門家が医療鑑定に必要とされることは、過失と適切に医療を行ったが、結果が悪かったことの違い(negligence and medical mal-occurrence)を明確にして、法律家の判断を助けることにある。

 

2)医療過誤訴訟における論点

 

○治療義務或は責任(Duty of care)— 患者医療者関係を築いた時点で普通成立。通りがかりに応急的に善意で助けた場合などは法的には異なる扱い。

○治療義務の完遂(Breach of the duty of care)— 標準的な規準に照らして、当然行われねばならない医療内用(検査や治療など)が行われる事。

○因果関係の成立(Causation)— 行われた(行われなかった)医療によって問題となる障害が生じた法的責任(liability)があることを証明する必要。

○障害・損害の確定(Damage)— 精神的或は身体的障害が明らかであることを原告側(plaintiff)は証明しなければならない。

 

3)日本における考え方

 

日本の医療過誤訴訟では、血液型や投薬のミスなど明らかな過失で障害が生じた場合には「過失致傷」が適応され、Breach of the duty of careに相当する誤診や不作為による障害には「注意義務に違反した医療行為」として過失を問われます。また民事的にはDuty of careに相当する物として「診療契約の成立に対する債務不履行」の責任が問われ、「受診」をした時点で「最善の医療を提供することを目的とした診療契約」が結ばれたと判断されて、誤診や十分な医療が行われなかった場合に病院や医療者が責任を問われます。

 

損害の確定については、例えば専業主婦である56歳の女性が死亡した場合に、逸失利益の計算式として、賃金センサスによる年収の平均額が参考にされて、同世代同学歴の標準年収が340万円とすると、生活費控除率30%が除かれ、67歳まで就労可能と仮定して、12年分先行して取得する過剰利益を差し引く意味で(56歳12年のライプニッツ係数 8.863)係数がけすると

340万x(1−0.3)x8.863 = 2109万3940円 という計算になります。

 

この損失に慰謝料や裁判費用などを加えて被告(defendant)に請求されます。

 

米国の裁判では被告側と原告側が別々の医療鑑定を依頼することがあり、それぞれが異なる鑑定結果を示して論争になることがありますが、日本では中立の立場から裁判官が判決を下す上で参考になる鑑定が依頼されることが通常です。

 

2006年のNew England Journal of Medicine Studdertらの論文では、1452件の医療過誤訴訟において、3%は損害がなく、37%は過誤が認められなかったとされます。医療過誤のなかった例では84%で補償が支払われることなく、支払われた額も過誤があった場合に比べて低かった(過誤なし3千万円と過誤あり5千万円)と報告されています。

 

日本の医療過誤訴訟は下図のように21世紀に入って「日本の医療は駄目キャンペーン」(本当は日本の医療がWHOの評価で世界一であったのに、医療市場を開くようにという米国の年次要求書を受けて、マスコミが行ったキャンペーンで米国医療を持ち上げる一方で相次いで意図的に日本の医療過誤が大きく報道された)に従って増加し、2004年に年間1000件というピークを迎えます。しかし勤務医の立ち去り型サボタージュ、厚労省による徹底した診療報酬節減による赤字病院の閉院などで救急、産婦人科、小児科といった医療が崩壊の危機に至って社会問題化したこと、また医療者側も徹底した安全管理対策を行うようになったことで訴訟件数は減少傾向にあります。米国は日本の医療自体は儲からない事が判明したことから、その後方針を変えて医療器械や薬品を日本が多く買う事、医療保険の市場を開放する事に要求内用を変更して今日に至ります(その目的は達成され、日本の貿易赤字のある部分を高額の薬品が占めるようになりました)。

日本における民事医療訴訟数の推移(NKSJ-RJレポートE-11から)

米国では不毛で多額の費用がかかる(得た補償金の半分は裁判費用として弁護士などに徴収される)医療訴訟を減らし、調停(Arbitration)や和解(Mediation)を促すために公正で中立的な仲裁機関(tribunal panel)が設立される方向にあります。日本においても厚労省が同様の機能を持つ医療安全調査委員会を2015年10月発足に向けて正式に準備することになりました。もっとも日本の事故調はまだ難題山積でうまく機能するか疑問も多いとされています。

 

4)まとめ

 

さて話を医療鑑定にもどしますが、医療鑑定を行う医師は次の条件を満たす必要があるとされます。

○      裁判の陳述の前に十分争点になっている部分を理解すること。

○      争点について関連する文献や資料を準備し、理解すること。

○      陳述は真摯で正直であること。

○      陳述は誤解を招かぬよう言葉を選び、仮定や推測は述べても良いが、事実との違いは明確にすること。

 

日本にも医療過誤を補償する保険があり、私も加入していますが、年間数万円程度で済んでおり、また勤務医の場合は基本的に病院が被告になるので幸い米国とは異なる状況にいます。法科大学院構想も立ち消えの方向で、日本を米国のような訴訟社会にしようとした試みはうまくいかないようです。TPPもこのまま立ち消えになってくれると日本の優れた社会風土を守って行く事ができるだろうと期待しています。

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