書評 1984(新訳版)2009年刊 早川書房6494
訳者あとがきによると、ジョージ・オーウェルの1984は英国においても「読んでないのに読んだふり」をする本の1位に選ばれるそうで、「ビッグ・ブラザーがあなたを見ている」という有名な台詞が現代の監視社会を見事に予言しているという思い込みから「あの作者はすごいね、描かれた未来は怖いね」という安易な反応を生み出してきました。私も「何となくこんな内容」と予想はしていましたが、IQ84はともかく、本家の1984は一度きちんと読んでみたいと思っていた本であったことは確かです。今回「新訳」として出されたものが本屋に平積みになっていたので購入して読んでみました。
小説1984 George Orwell
読んだ事ある方はご存知でしょうが、この「1984」という小説の主題は「ストーリー展開」ではなく「舞台となる社会設定の妙」だと思います。ストーリーの展開はどちらかと言えば「数幕しかない舞台演劇」のようにスペクタクルには欠けるもので、展開自体もやや強引というか必然性を欠いたものであり、血湧き肉踊るようなワクワクするものではありません。やはり何と言ってもこの小説が発表された1949年という世界を巻き込んだ第二次大戦が終わって間もない時期にこれだけ将来を予見し、また大胆な仮説をもって未来の社会設定を行った作者の想像力こそがこの小説の価値を決めるものだろうと思います。
以下、舞台となる社会設定の中で特に印象深い点を抽出して感想を述べます。
○ イングソックという社会を律する秩序が、社会を動かす権力層(上層)の永続的固定化を目的に作られていること。
社会を上層、中間層、下層に分けると、上層は自らの地位を永続させるように社会を支配しようとするが、力をつけて下層を味方につけた中間層にいずれ取って代わられるのが、世の常である。だから中間層が力を付けないよう、また下層を味方につけられないような社会システムを構築すれば上層が常に権力を保持できる、という考え方が基本になっているのは秀逸。この目的を達するための道具が論理的考え方や自由といった抽象的思考をなくしてしまう「ニュースピーク」という言語体系であったり、2+2=5であることを自ら進んで矛盾を感じずに答えられる「二重思考」(誤りであることを認識しながら、誤りの方を自ら納得して正しいと自然に考える認識法)であったりします。また中間層は徹底した監視社会におかれて、秩序に反する「おそれがある」と見られただけで社会から抹殺される状態におかれ、思考警察の制度で「反秩序を考えただけで犯罪になる」システムが構築されます。一方で下層に属する人達は「プロール」と呼ばれて中間層よりは自由なのですが、常に日常生活に追われて中間層的な豊かさは持ち得ないような社会システムに設定されています。つまり生かさず殺さずになるよう物質的供給がなされているのです。
○ 世界がオセアニア(米英中心、思想はイングソック)、ユーラシア(ロシアと欧州中心、思想はネオ・ボルシェビズム)、イースタシア(中国中心、思想は自己の滅却)に分かれていて、しかも常にどこかと戦争状態になっていることで逆に安定していること。
1949年の中国共産国家ができるかどうかの時点で米ソは分かりますが、よく中国を第三極とした社会を想定したものだと感心します。しかもこれら3国の思想は実際の所ほとんど同じ内容ということも興味深いものです。
○ 資本主義が否定されて社会主義の世の中になっており、上層が維持するものは富ではなく権力であるという設定であること。
この設定が「社会主義は酷い社会だ」という宣伝材料として使われて、1950年代のマッカーシズム(赤狩り)にも使われたと解説にありました。1990年には共産主義が消滅するとはさすがにオーウェルも予想しなかったようですが、現在の社会を見ると、「富と権力を一体としてそれを永続的に維持するシステム」が構築されつつある、つまりオーウェルの予想したシステムを一ひねりしたものが現実化されつつあるように私には感じます。この「富と権力を一体化したもの」を単純に「自己の持つ寿命」として映画化したのが「Time」という映画(2011年米国ジャスティン・ティンバーレイク主演、アンドリュー・ニコル監督脚本)でありました。この映画では下層民はその日を何とか生き延びる寿命しか持たず、上層民は数千年もの有り余る自己の寿命を持て余して賭け事や浪費に費やしたりします。その日を生き延びる寿命が稼げず、また寿命を借金することもできなかった下層民は腕に表示された寿命が0秒になった途端に道でも家の中でもばたりと倒れて息絶えます。社会は層毎に住み分けられていて下層民は上層民の住む地域には行けない設定になっていて社会システムが永続するようになっているのですが、「Time」という映画は、そのシステムを撹乱する革命児が現れてしまうというストーリーです。
映画「Time」腕に自分の寿命が時間で示される。寿命が貨幣の代わりになり、貸し借りができる
○ 宗教の存在が否定されていること。
イスラム、ユダヤ、キリストなどの一神教においては、個人が忠誠を尽くす相手は神である、とは丸山眞男の「忠誠と反逆」でも述べられていますが、この社会では個人が忠誠を尽くす相手は「党」であると明確に規定されていて、宗教のシンボルである教会は「オレンジあるよ、レモンもね、鐘響かせるセント・クレメント・・」というわらべ歌の中で繰り返し語られるだけになっています。つまり実社会において社会システムを固定化するには宗教は邪魔だということが明瞭に謳われていると言えます。現代社会でも資本主義グローバリズムによる世界統一(New World Order)に最も強く抵抗しているのはイスラム社会であるという現実があります。
○ 世襲が否定されて、上層には中層から一代限りで誰でもなれるシステムになっていること。
これは一見上層構造を不変とするシステムと矛盾するように思われてしまうのですが、社会変革が起こるのは世襲によって能力のない人間が上に立つ事が原因と考えると、一切の世襲が否定されて中層から社会システムへの適合性について「忠誠心と能力」を幼少期(ユーゲントや青年団のようなコミュニティで育つ)から選別されて適切な役職に一代限りで就かせるというシステムは、社会システムを普遍にするには有用な手段であると思われます。血族の情は許されず、子供は社会の所有物という思想が徹底されています。
このような特徴を持つ社会システムですが、オーウェルが予見した未来社会と現在の戦後秩序とされる国際社会の類似点、相違点を検討してみます。
< 類似点 >
○ 上層の永続性の工夫。
豊かな中間層をなくし、1%の富裕層と99%の貧民層に分けるというのは上層の永続化につながり、情報の独占もやりやすくなります。
○ 監視社会になっている。
町中至る所ビデオカメラだらけ、砂漠のキャンプも人工衛星で監視、全ての電話やメールは盗聴済みです。ビッグデータは監視社会の果実と言えます。
○ 偽旗作戦をやっている。
小説でも、時々プロールの町中にロケット弾が打ち込まれて被害者が出ていますが、これは戦争をしている事を認識させ、また反社会勢力のテロだと宣伝することで国民に敵愾心と社会への忠誠心を抱かせる政府の自作自演の行為なのですが、現実社会でも911、ボストン爆弾テロ、公文書まで公表された過去のノースウッド作戦など自作自演の偽旗作戦が数限りなく行われています。
○ 過去を創り変える。都合の良い情報操作を日常的に行う。
イラク戦争の大量破壊兵器がある口実、南京虐殺や慰安婦問題、政権に都合がよい過去の創作や情報操作は今や日常茶飯事。戦争広告代理店という本にあったように、いかに相手を悪く作り上げるかが、大衆を騙して権力を信用させる大事な方略になっています。
○ タブーとして再考を禁ずる。
ナチスのユダヤ人虐殺数の問題、原爆投下が本当に必要だったのか、欧米列強の過去における植民地支配の総括、白人が行った奴隷売買の総括、国連の場で徹底的に討論できるものならしてみれば?
○ 誤りでも良いと進んで考えるようにする。
これは日本人にも耳が痛いことが多い。しかし中国で共産党独裁のまま民主化が進まないことについて、金が儲かるなら独裁政権のままで良いとする中国国民が増えているのも確か。
○ 幼少時からの教育をシステム維持に用いる。
自分で考える能力を学ぶことでなく、知識を学ぶことを教育の本質とするのが現状であるように思う。社会を維持するための大人を育てることが教育(内田 樹氏の持論)という考えも一理ありますが。
○ 社会システムに背くことをテロとして弾圧する。
同じ事をしても米国に都合が良い物を「民主化勢力」と言い、都合が悪い物を「テロリスト」と呼ぶ。日本でも義賊、逆賊という言い方がある。
○ 社会システムのパワーが、人がコントロールできない程強くなってしまった所が、大きくなりすぎたマネーのパワーが世界の経済を破壊するほどになっている現在に類似。
これはリーマンショックを始めファンドマネーが右往左往することで実態経済をかき回して制御できない状態にしていることに似ています。
○ 常にどこかで戦争をしていること、しかも多くの人にとってそれが他人事であること。
米国の現状がこれ、日本もそうならないように。
< 相違点 >
○ 資本主義である。
○ 人、物、金、の往来が国境の障壁が少なく盛んである。
○ ますます世襲である。
ということで、2014年は小説が書かれて、1984年を想像した未来の約2倍先まできているのですが、果たして現実社会は類似点の方が多いことになっています。この1984という小説がこれからも社会の中で種々引用されて評されると思いますが、この小説で描かれた社会を「最悪の設定」として、いかに現実をこの設定から回避できるか、という尺度で我々は考えて行かねばならないでしょう。