rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

書評 「財政危機と社会保障」

2011-05-29 17:38:35 | 書評

書評 財政危機と社会保障 鈴木 亘 著 講談社現代新書 2010年刊

 

日本の福祉を中心とする社会保障制度を網羅的に解説した上で、財政危機が叫ばれる現在、この制度が今後も存続可能なのか、また今後どのように変えてゆくべきなのかを解りやすく解説した好著です。

 

著者は日本銀行から28歳で阪大経済学部博士課程に入り直して経済学の博士号を取得、学芸大学准教授を経て学習院大学経済学部教授として医療や福祉関連の経済学の著作を多く物しています。私も医療についてはそこそこ詳しいですが、その他の福祉や年金のしくみなどは理解していない所も多かったので素人にもわかるように単純明解に書いてあったので勉強になりました。

 

この本全体を通してのテーマは「経済成長に寄与する福祉はありえるのか。」という1点にあります。2010年の日本政府の債務はIMFの算定基準では973兆円と政府発表の862兆円より100兆円も増えており、対GDP比は1990年には70%弱だったものが現在は終戦時に記録した200%に近い数字になっています。現状の福祉規模を続けるだけで少子高齢化の影響で福祉予算は毎年1.3兆円ずつ増加してゆくのに、「より充実した福祉」「○○手当ての増加」「震災特別復興予算」などで遠からず日本の政府予算は破綻(予算の全てが国債返済分になる)することになるでしょう。

 

福祉予算が増えることで、新たな雇用が生まれ、それが消費に回って税収も増えるというのが「福祉立国」の考え方ですが、著者はそれが幻想であると断定します。それは医療や介護の殆どが公的予算から出されており、畢竟その値段が需要と供給の市場原理からでなく、予算枠によって決められていること、供給側にも効率性や自然淘汰を阻止する強固な既得権保護の政治団体があり、制度改善や新規参入が阻まれていること、また福祉の恩恵を弱者のみでなく中間層以上の国民全体が享受しているため、かえって制度の膠着性が増してしまっていることを理由としてあげています。

 

これらの理由はそれぞれがその通りなのでかなり説得力があります。従って現在の福祉を維持するためには、思い切った増税が必要だという結論になるのですが、最近の選挙結果を見ても増税は当分国民が許さないという結論も出てしまっています。

 

自分が積み立てた年金を年を取ってから受け取るという積立方式の年金制度が本来の日本の公的年金制度だったのですが、70年代に勝手に若い人達が納めた年金がその時の老人達の年金になるという賦課方式に変えられてしまった、ということを初めて知りました。自分達が納めた年金を自分たちがもらうのであれば100%年金が破綻することなどないのですが、労働人口が少なくなってゆくのに賦課方式でゆけば、先に行くほど若い人達の負担が増えて年金が破綻するのは当然です。破綻しないよう政府が税金を投入しても、その税金は若い人達が働いて納めているものですから同じ事です。唯一の解決法は積立方式に戻すことしかありません。つまり払ってなかった人は諦めてもらい(当たり前のように思いますが)、支給額は積み立てた額に比例するということです。

 

我々以降の世代は年金を払ってはいますが、自分たちはもうもらえないだろう、ということは薄々解っています。自分たちの子供たちの世代に多大な迷惑をかけてまで「働かないで金だけもらおう」などと虫の良い事は考えるべきではありません。我々の世代は死ぬまで(動けなくなったら話しは別ですが)自分たちの食いぶち位は何とかするという覚悟でいるべきです。だから高額でなくても年を取ってもできる何らかの働き口は確保してほしいと思います。

 

現在の年金制度では1940年生まれの人は死ぬまでに自分が払ったよりも3090万円多くの年金をもらい、1950年代後半生まれ(小生の年代)でとんとん、2010年生まれだと払うよりも2840万円少なくしかもらえない計算になるそうです。働かず金をもらうということは代わりに奴隷がいないとできないことであり、我々日本人は(西洋人と違って)奴隷制度を否定しているのですから(前の滅私奉公のブログ参照)、また自分達の子供の世代を奴隷扱いするつもりもありませんからそのような制度は直ちに廃止すべきであると思います。(そのような声を是非団塊の世代から出して欲しいものです)

 

著者は将来の社会保障のありかたとして、継続可能なものは自力更生を中心とした最小限の福祉以外にはないだろうと結論しています。現在は健康と安全はタダという認識の下、中間層以上の人達も医療介護などの福祉を公費によるディスカウントによって安く享受していますが、この公費の部分はばっさり切って、本当に貧しくて払えない層の分だけセーフティーネットとして後から払い戻すなどして保障し、公費によるディスカウントをなくすというのが解決策であるとしています。この結論は直ぐに万人に受け入れられることはないでしょうが結局これしかないかと私も思います。

 

終戦時のGDP200%という財政危機はその後のハイパーインフレによって資産家の資産を実質消滅させることで解決し、朝鮮戦争などの景気回復によって国民全体の所得をあげることでうやむやにしてしまいました。現在GDP200%に達しようとしている政府債務をいかに消滅させるかは妙案がありませんが、戦争ならぬ災害があちこちで起って復興のために政府紙幣を発行してハイパーインフレを起こして年寄りの資産を消滅させることで解決する。ある所まで行ったらギリシャのように破産宣言してデフォルトしてしまう(結局庶民の銀行預金とかが無くなりますが)。日銀が無制限に国債を引き受けて紙幣を発行する(国際的に禁じ手だし長くは続かないと思いますが)。など借金の貸し手が日本国民であるうちは国民が損をすることで何とか解決はできます。外国が相手だと資源がないので島を寄越せ(租借地として)とか公務員の人事管理権を寄越せ(間接統治?)みたいな話しになりかねません。

 

日本は今後労働人口が減ってゆくので、労働効率が良くなる以上に実体経済が延びてゆくことは理論的にあり得ません。信用経済が延びるとすればそれはバブルと同じことになる危険をはらんでおり、結局90年代の繰り返しになるでしょう。だから著者が主張するように右肩上がりの経済下でなければ存続しえない現在の年金や社会保障制度は変えないといけない、という認識は国民全てが共有するべきでしょう。日本人は死ぬまで働こう。

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西洋医学の限界と似非医療

2011-05-25 23:58:12 | 医療

看護学校の講義の一部として「西洋医学の限界と似非医療」というテーマのミニレクチャーをしたので、普段自分でも強く感じていることでもあり備忘録として書き起こしておきます。

 

世の中には「がんが治る」とか「糖尿病が治る」などともっともらしく書かれた民間医療や生薬の広告が一流と考えられるメディアや新聞にも広告として載っています。こういったものが信用できるものかどうか、皆さんが相談を受けることもあると思います。所謂インチキ、似非医療と、信頼できる医療を見分ける最も確実な方法は西洋医学における「病気」「疾患」にはきちんとした定義があるのですから、その定義に従って具体的にどのようにその医療が効果があるか、説明されているか否かで見分ければ良いと考えます。

 

例えば「がん」というのは発生母体となる細胞にもよりますが、その病態の定義としては「無秩序な細胞の増殖」と定義付けられます。「がんに効く」と言うからには、秩序立った増殖になるのか(遺伝子治療など)、増殖自体が止まるのか(多くの抗がん剤)、増殖した細胞が無くなるのか(外科手術)でなければ「がんに効く」とは言えないはずです。その治療がどのように効いてがんが治るのか、「がん」という西洋医学の疾患定義を用いて「治る」と言うからには明らかにしないと「インチキ」と言われてもしかたがありません。

 

糖尿病はインスリンの分泌が低下するか(一型)、細胞のインスリン感受性が低下するか(二型)が疾患の定義なのですから、糖尿病が治るというからにはそのどちらなのかが明確でなければ似非医療と断言できます。

 

このように西洋医学の病名を用いる限り、定義づけられた病態に即した説明ができなければ単に「効果があることにしている」インチキと言えるのです。第3者が検証しようのない「治った人の体験談」しか載せられないものは明らかにインチキです。

 

所で西洋医学に対するものとして東洋医学というのがあります。東洋医学はしっかりとした学問体系がありますし、東洋医学における疾患の定義は東洋医学的に定められています。陰と陽であるとか、臓器の虚と実であるとか、私は詳しい所は解らないのですが、例えば女性の「冷え性」と言う病気は西洋医学では存在しません。そのような疾患定義がないのです。しかし東洋医学では疾患として存在して漢方薬で効果があるものが沢山あります。また「虚弱体質」といったものも同様です。だから西洋医学で「冷え性に効く」というものがあればそれは似非医療なのです。一方で漢方薬の成分でも科学的に分析をして西洋医学の病態生理にどのように効果があるかを検証した上で西洋医学の疾患に効くとされているものもあり、これは似非ではありません。

 

世の中で似非医療がはびこるのはなぜでしょうか。それはそれなりに需要があるからではないかと推察されます。前回話したように現代西洋医学は急性期疾患についてはかなり確実に「治る」ようになってきました。しかし慢性疾患は血圧を下げるとか、血糖値や脂質の値を正常化するとかの「所見を改善する」以上のことができず、根治はできません。そこで慢性疾患が高じて急性疾患が併発することを防ぐ「予防医療」に重点が置かれてきていると話しました。二千人が薬を2年間飲み続けると心筋梗塞が50人から25人に減ったといった予防医療です。つまり1975人にとってはその薬は何の恩恵もない医療になってしまっています。またがんの治療においても末期になってしまった患者さんは西洋医学的に効果的な治療ができないから見捨てられてしまったように感ずる場合も多くあるのが事実です。

 

西洋医学は疾患を臓器・細胞レベルで定義するので、患者さんにとって医者は患者さん個人を治しているのではなく、患者さんの臓器や細胞を治していると感ずることがあるのです。

 

がん末期の患者さんが「できるだけの治療をしてほしい」と訴えていることの多くはあれやこれやの薬を使ったり処置をしてくれ、と言う意味ではなく「患者を見捨てないで欲しい」という意味だと言われています。

 

看護学の教科書の初めに「看護とは患者さんに寄り添う事」とか、痛い部分に手を当てることが「手当て」の始まりである、ということが書かれていると思いますが、西洋医学で最もおろそかにされているのはこの看護の基本の考え方であり、似非医療がはびこるのも西洋医学が患者さんの願いを十分聞き入れていないことに原因があると反省しなければいけません。

 

我々医者が患者さんの手を百回握っても病院は一円も儲かりませんが、薬の処方せんを百枚書くと処方料や薬剤料が入って病院が大変儲かります。日本の診療報酬体系がそのようになってしまっているのでしかたがありませんが、我々も看護師になられる皆さんも西洋医学の限界と患者さんの希望というものを十分理解した上で仕事を進めていかないといけません。

 

   以上

 

追記:似非医学を信奉している人達は我々西洋医学の医師が科学を信奉して、科学的に証明されない医学をインチキ呼ばわりしていることが気に入らないようです。「科学絶対、科学万能と思い込んでいる愚かな人達」と医師を見下している文を良く見かけます。医師は科学を万能とも思っていないし、西洋医学も絶対に正しいなどと考えてはいません。実臨床においては理論通りに行かないことが山ほどあります。しかし西洋医学的な手法で改善し命が助かっている実例が十分にあるのにそれを否定することほど馬鹿げたことはありません。解らない事、理屈通りでないことがあるから西洋医学も今後発展する余地があり、研究する意味があると考えます。まぐれ当たりであってもそれが理論的に解明されて正統な治療になったものもありますし、単なるまぐれ当たりで顧みられなくなったものも数多くあります。たまたま効いた(ように見えた)からこの治療は良いのだ、こんなに元気になった人がいるのにそれを認めないのは阿呆だ、というのでは何の説得力もありませんし、やはり似非医療でしかないのです。 

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国民の祝日には日の丸を掲げよう

2011-05-19 18:36:16 | 社会

先日79になるの母親が(死ぬまでに)一度は靖国神社に行って見たいわ、とかねがね話していたので、寒からず、暑からずの連休の一日を選んでお参りに行きました。いつも私が行っている夏と異なり、参拝客も少なく実に静かな佇まいでゆっくりと参詣できました。帰りは遊就館に寄って名物の海軍カレーを食べて帰ってきましたが、そこの売店で家で簡単に掲揚できる国旗のセットが1,500円で売っていたので買ってきました。

 

国民の祝日が続く連休中だったので早速家に帰って掲げたのですが、家族の反応は「宗教っぽいなあ」と今一つ。日の丸を掲げることを宗教と言われるのは「意外」だったのですが、確かに官公庁でもない限り日の丸が掲揚してある家など日本中で見なくなりました。古い家には玄関に国旗をつける器具が今でも付いていたりするものですが、何のために付けられているのかも忘れられているのが現実ではないかと思われます。何より日の丸がなかなか売ってない。

 

国民の祝日にはバスなどにも日の丸の小旗が昔は付いていたと記憶しているのですが、今では殆ど見かけません。国民の祝日に日の丸を揚げることに「努力」や「意味付け」が必要になってしまったというのは、戦後地道に反日教育を続けた左翼勢力や日教組、メディアの努力の賜物であり、見事な成果だと感心します。「戦争はこりごり」という終戦時の国民の素直な感情に「反国家」「反日」という共産勢力や日本からの仕返しを怖れる戦勝国の占領政策がうまく乗っかり、「反国家」や「反日」を気取ることが「インテリの証」「進歩的」と決めつけるプロパガンダが繰り返されたために現在の日本の状態が現出された訳です。戦後民主国家として生まれ変わった「日本」もその国旗は「日の丸」なのですから、日本大好きとして戦後生まれの我々世代が国旗を掲げるのは戦前回帰でもないし、特定の宗教とも関係ないというのが理論的には正しいのですが、なかなかそのように思えないよう「刷り込み」が見事に教育されているところが反骨的な私には大いに気に入らないのですな。

 

祝日に殆どの家で国旗が掲揚されていて、団地などのベランダからも所帯の数だけにぎにぎしいばかりに日の丸が吊り下げられているような異様な風景になり、「祝日に日の丸を飾らないとはけしからん」みたいな世の中になったらへそ曲がりの私はきっと日の丸など飾らなくなるでしょう。祝日に所々の家で日の丸が飾ってある位が丁度よい日本の文化であると私は認識していますが、今の日本の現状は明らかに「ある思想を元にした意図的な文化破壊」の状態であり、そのことに気付かない国民は阿呆だと私は思います。私は今後も飾れる内は日の丸を家に掲げてゆこうと思う次第です。

 

余談ですが、式典などで挨拶をする場合、まずひな壇に掲げられている国旗に礼をしてから演壇に立ち、話しを始めるのが国際的な常識です。しかし日本人には雛壇でふんぞりかえっている「偉い人」に礼をしてから話しを始める人がけっこういます。私はその人の人品までその1点で決めつけてしまい、きちんと国旗に礼をすることを知っている人がいると逆に「ほうっ」と感心してしまう位なのですが、この程度の常識さえ「一般的な教育で身に付けられない日本の教育」というのは何とも寂しいかぎりです。しかも「大学とは答えの出ない問題を解決する方法を学ぶ所」というこれも他国では常識かなと思うことが通常の大学教育ではなおざりにされているようで、21世紀になり、世界に通用する教育についての改革が必要と痛感します(私も大学教員の端くれですから大いに責任があります)。

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原発が安全かではなく廃炉を決断できるかが問題だ

2011-05-17 19:43:05 | 社会

夏の電力切迫の恐れ 全国の原発54基中42基停止も(朝日新聞) - goo ニュース

 

全国五十数基の原発のうち点検などで止まっているのは1/3あり、それらを再び稼働させるにあたって「安全が確保されなければ認められない」として議論が続いています。

 

私は「安全」か「安全でない」かの二元論で原発について議論を進めることは一種の神学論争であって結論の出ない「無駄」でしかないと考えます。なぜなら安全の基準をどこに置くかによって結論は別れるのであって、議論をしている人達が全て同じ基準で考えていることはないと初めから解っているからです。

一本の直線のどこかに区切りを置いてその右側を安全、左側を危険と結論づけるとして、区切りを置く場所が各人違っているのに議論だけしている図を考えて下さい。

 

このような議論では大抵その時点で力が強い勢力の言い分が通って結論が出ます。だから意味がないのです。

 

今回の福島原発の事故では1号機では隔離時復水器、2−3号機では隔離時冷却系が停電になって作動していたことは明らかにされました。電源なしでも作動できるそれらの系が動いているうちに電源の確保ができないと現場が判断したら、廃炉を前提とした海水注入などの非常措置が早期に取られていれば燃料のメルトダウン、爆発による福島全体の核汚染といった今回の悲劇は避けられていたと予想されます(http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110510/219895/?rank_n)。全ては「廃炉」を決断できる東電首脳の「危機に直面した時の決断力の欠如」が問題であったことが明らかなのです。

 

従って、原発という装置の安全を議論するのではなく、原発を管理する人間の決断力を問うことがまず第一になされるべきだと私は思います。危機に際して現場が「廃炉を前提とした処置が必要」と判断したら電力会社の首脳は即座に「廃炉」を決断できるか、と各自治体は問えばよいのです。「できない。」という答えならば原発の再開は許可するべきではないし、原発そのものも無くした方がよいでしょう。或いは「廃炉の決断権は自治体が持つ」と契約を変えてしまえば良いと考えます。「即座に決断できる。」と責任を持って電力会社の首脳が答えたならば、問題が起った場合、個人の刑事責任も含めて問うことも確認の上で再開を許可したらどうでしょう。今回の原発は「人災」であることを忘れてはいけないと思います。

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核処分施設を北方領土に作ろう

2011-05-09 19:29:22 | 社会

菅総理が思いつきか奥様に進言されたか解りませんが、「浜岡原発を止めよ」と震災後初めてと言って良い位適切な命令を出しました。過去の事例を見ても震災頻発期には1年を待たずに大きな地震が立て続けに起っていて、次は東海沖と誰でも知っている状態でM8クラスの地震で崩壊することが解っている浜岡原発を運転し続けることは壁に向かって時速100キロで走り続ける車に乗っているようなものです。 

 

中部電力の社長さんも本音では「誰か強権で止めろと言ってくれないか。」と思っていたのではないでしょうか。電力会社のサラリーマン社長程度の人間では自分から「危ないから止めましょう」などと言う勇気はないでしょうから。 

 

それにしても今回の「浜岡止めよ」発言の反応として、いかに原発利権によって札束で頬を張られて「うふん」となびいていた人達が多いかが良く解りました。福島の状況を見て「浜岡も早く止めてくれ」と考えるのが利権にからんでいない普通の人の反応ですが、「原子力村」と称されるマスコミを含むある限られた一連の人達の「唐突すぎ」「電力が心配」「仕事が」「利用者と株主が納得しない(事故が起って電気代が上がる、株が紙切れになる方が納得しないのに)」云々といった言い草は、原発予算による「札束うふん」というのはこんなに明確に効果があるものなのかと感心すらしてしまいました。

 

ダムなら二千億だけど、原発は六千億円だという利権の大きさ、電源三法交付金による城下町へのばらまき、漁協への一人五千万円といわれる補償、御用学者への多額の寄付と個人への顧問料、全部税金と世界一高いという電気代から支払われているのですが、もらっている方にしてみれば「うふん」ですよ。

 

さて、日本中にある原発を今後続けるにしても止めるにしても、解決しなければならないのは原発によって生み出された核廃棄物の処理と最終処分としての保管場所の整備です。原子炉内でウランから生み出された半減期二万四千年のプルトニウム239やマイナーアクチノイドと呼ばれるネプツニウムなどをどのように管理してゆくか、日本にはまだ答えがありません。六ケ所村はフランスの国策企業「アレバ」を信用して3兆円を越す予算をかけたにも係わらず未だに実働していません。また再処理して一部使用した所で、最終廃棄物は2万年管理しつづけないといけない訳で、どこかに管理場所を作らないといけない。

 

高速増殖炉ではなく核種を減らすための「高速中性子を使った核種変換技術」というのが実現すれば、プルトニウムよりも半減期の短い物質に変換させて処理する事ができるようになるかも知れませんが、そのような技術を日本が国策で進めるつもりなど一切ないのが現状です。だからどこかにきちんとした処理施設、特に保管施設を作らないといけない(常識で考えて各原子炉建屋にどんどん貯めてゆくのも限界があるでしょう)。

 

私は日本国内に核の最終処分場を作ることは不可能だと考えます。どんな田舎にも日本人が住んでいるのですから、現状を考えて「ここなら作れる」と言える場所などないと思います。だから日本であって日本でない場所、北方領土とか竹島に作るしかないじゃないですか。現実問題として、ロシアに「歯舞色丹さえ返してくれれば後は領土放棄をします。そのかわり択捉島に日本の核の最終処分場を作らせて下さい。そして平和条約を結び、シベリアの開発もエネルギー(天然ガス)協定もどんどん進めてゆきましょう。」と言えば、この非常事態ですからアメリカからも酷くは邪魔されずに話しが進のではないでしょうか。アメリカが文句を言ったら「それならアメリカ国内に処分場を作ってくれ」と言えばよろしい。

 

国後択捉放棄などと言うと「けしからん」「売国」などと騒ぐ右翼がいそうですが、今回の福島の事故では実質的に20キロ圏の日本国領土が失われたに等しいのですから、下手をするともっと多くの日本国領土を今後失うことになる可能性がある「日本の核処分問題」がそれで片づくのなら安いものだと私は思います。戦後60年の経緯をかんがみて、北方領土ははっきり申してロシアと戦争をしない限り今後も返っては来ません。だから領土的野心など諦めて利をとる方が利口なのです。ただし北方領土も地震多発地帯ですから、耐震設備は十分に行なう必要があるでしょう。またクリーンな核物質を作る核種変換技術などの施設もそこに作ってしまえば良いと思います。そのような技術がロシアにとっても魅力のあるものなら、日本の核廃棄物を搬入することを後になって拒む事はないと思いますが。

 

「核の処理施設をどうするかの具体案を述べずに原発の論議をするなかれ」と私は考えますが皆さんいかがでしょう。

 

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ビン・ラディンさんお疲れさまでした

2011-05-04 22:36:49 | 政治

私は一介の勤務医ですから、別に確たる証拠があって言っている訳ではありませんが、ビン・ラディン氏の突然の殺害発表をそのまま鵜呑みにしている純朴な人達は世界にそう多くはないだろうと思ってしまいます。 

 

ウサマ君が原因で戦争までやって沢山の犠牲者が出たのですから、死体の写真一枚出す位普通すると思うのですが、それは出さず特殊部隊突入時のライブを見ている大統領お歴々の写真とかを無理やり演出で出してくるところなど「プロの演出家」の手法(勿論選挙も戦争公報もアメリカのプロダクションが有名ですが)という感じです。要塞のような屋敷を準備して何ヶ月か前にウサマ君(か身代わり?)に入ってもらって今回ヘリで救出。後は空母で帰還、死体は水葬ということで終了。以前911の総括(http://blog.goo.ne.jp/rakitarou/e/1422709df2ee88b62662a04058b29822?st=1)でも述べたように、ウサマ君がアメリカを敵視するに至ったのは、米軍がメッカに駐留したからというとても多くのイスラムの若者を惹きつける様な理由ではありませんでした。米軍が直接家族を殺したり、対立するイスラムの派閥が跋扈したりすることで初めて若者が自分の命をかけて戦おうという気持ちになったのです。米軍はメッカから既に撤退していて、CIAアレック部も解散してアルカーイダ安全宣言を出し、ここ数年ウサマ君の命令でテロが起きた形跡もなく公の舞台にも出ないことからすっかり忘れられた存在だったのに、ずっと重大犯罪人で注目してたぜ、と言わんばかりの不自然な死亡演出は、この後何が起きるかできっと意味が解ってくるのでしょうが、取り合えず「ビン・ラディンさんお疲れさまでした」という世界に宣言する区切りの意味合いがあったのだと解釈します。 

 

国家が行なう「戦争」には相手があり、到達目標があります。普通は「国家」が相手であり、到達目標に達した時点で戦争終了となります。軍人はその目標到達のために戦略戦術を練り、政治家は予算を立てます。そこには誰の目にも明らかな秩序と限界というものがあります。フセイン体制に対する「イラク戦」はその点明確だったのですが、その後続いている「テロとの戦争」というのはこの「戦争」の基礎概念を一切無視した目茶苦茶な無差別無限の殺戮と言えます。一昔前の「冷戦」というのが相手となる国家はあるものの、到達目標が明確でない無期限の戦争であったのがたまたまソ連崩壊という形で勝利してしまったから「戦争と名付ければどんな形でもOK」とアメリカは勘違いしてしまったのかも知れません。しかし国家が疲弊し、国債も格下げになり、さすがに「このまま無期限の戦争はまずいよ」と気付いたのかも知れません。取り合えず戦争開始のきっかけになったウサマ君を処刑したことで何とか幕引きに持ってゆこう、到達目標達成ね、と言うことにしたい、と考えられないこともありません。

 

翻って日本では震災から1ヶ月以上が経ちましたが、福島原発の周辺住民への対処を含めて一体この国の政府はどうなってしまったのかと言う思いで1杯です。初めの対応が悪くても少しずつ良くなるというのが今までの日本の政府だったのですが、悪くなる一方というのはどういう事か。各地域の現地の人達や自衛隊が頑張っているから被災者の方達が餓えて死ぬと言う事態はもう無くなりました。被害の少なかった所は東北地方でも既に通常の生活を取り戻している所も沢山あります。ここまで来れば後は「政治の出番」、いかに復興させるかの設計図を作るのは政治家の腕の見せ所であり、ここまでお膳立てが作られるのは千載一遇のチャンスであって政治家冥利に尽きる状態と言えます。東電をいかに処分して日本の今後の日本のエネルギー政策を作るかなんてこんな機会がなければ今後100年はできそうにないチャンスです。何で「俺が命がけでやる。」と言わないかなあ。やる気満々で総理大臣になったのではなかったのですか、菅さんに投票した議員さん達はそんな総理を全力で支援する心算ではなかったのですか。国会議員が手分けして避難地域や原発を視察に行ったという話しも聞かないし、民主党の有象無象の大量の議員達はこの1ヶ月何をしていたのでしょう。

 

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