書評 集団的自衛権とは何か 豊下 楢彦 著 岩波新書1081 2007年 刊
国際政治論、外交史を専門とする関西学院大学法学部教授であった著者が第一次安倍内閣の時代に戦後体制からの脱却を提唱し、改憲や集団的自衛権の容認に動こうとした安倍政権の危うさを日本国憲法の法律学的検討、外交史的考察から検討したもので、現在の第二次安倍内閣が目指している対外的な政治も第一次の時と同じであることから本書の内容は時宜を得たものになっています。
集団的自衛権を論ずる場合、1)日本国内において同盟国である米国の軍隊が攻撃されている場合自衛隊はどのように対処するか、2)PKO活動中に国外で友軍が攻撃されている場合にどう対処するか、3)北朝鮮から日本を飛び越えて米本国にミサイルが飛んで行く時にそれを撃ち落とせるか、4)米軍がどこかで戦争をしている時に同盟国軍として一緒に戦争に参加するか、といった場合に分けて検討されます。1)は多くの日本人は国内であるから一緒に戦う、2)は場合によって目の前で攻撃を受けていたら助けるけど遠方まで出かけてまで戦うべきではない、3)4)は不可、という答えが多いのではないかと思います。1)から4)まで全てOKという人もいるでしょう(法解釈上は集団的自衛権を認めるなら全て合法だから)。また厳密に全てが不可という意見も集団的自衛権を認めないという立場からは合理的であると言えます。朝鮮戦争やベトナム戦争では、日本の米軍基地から戦場に向かっていた訳で、日本国内は攻撃対象にはなっていませんでしたが、戦術上は日本の米軍基地を空爆したりミサイル攻撃したりすることもあり得たはずです。米軍基地を爆撃するために飛来した北朝鮮空軍機を日本の自衛隊機が迎撃すればそれは北朝鮮と戦争をしていることになります。
本書ではその前半において1970年代から「国際法上は日本国にも集団的自衛権は認められているが、日本国憲法においてはその使用は認められない」とした政府解釈について歴史的背景を含めて詳しく解説しています。米国は日本を軍事的に無力化することを戦後政策の柱として日本国憲法を策定したのですが、冷戦及びその後の湾岸・中東戦争、或いは中国・台湾・朝鮮における周辺事態に対して、米軍と共に戦うことを日本に求めるようになりました。しかし日本は「憲法上できない」と頑に拒否してきたわけで、それならばできるように「改憲」しましょうというのが歴代自民党(の改憲派)の意見だったのです。結果的には米国の都合で押し付けられた憲法を米国の都合で改憲しようということであり、あくまで意思の主体は常に米国にあるとも言えます。
私は前半についてはある程度既視感のある内容だと感じたのですが、後半「第4章 自立幻想と日本の防衛」あたりから著者の国際政治・外交史の豊富な知識を元にした「そもそも米国の外交政策が場当たり的で、日本の国益と常に合致している訳でもないのに集団的自衛権における敵の共通項を米国に求めることは不合理だ」という検討に非常に惹かれるものがありました。米国は「敵の敵は味方」という安易で場当たり的政策を取る事が多いために、例えば911では不倶戴天の敵であるはずのアルカイダがソ連のアフガン侵攻、アラブの春でのリビア、シリア内戦では味方になっていたりします。英国は常に米国に寄り添うように戦争を共に戦ってきましたが、米国の外交政策を決める上での発言力はありません。日本が改憲までして米国の使い走りとして他国と戦争をしたところで日本の国益にもならず、米国の政策に対して発言力のあるイコ—ルパートナーになることもない、という主張は説得力があります。また核拡散におけるパキスタンの危険性についての言及も日本の核武装論が主に北朝鮮と中国のことしか念頭にない偏った議論であることも明確に論じられていて説得力がありました。
私自身は昭和時代の「専守防衛」を旨とする自衛隊のあり方が最も日本には望ましいと考えていますし、その点で「自衛隊は合憲である」と以前も主張しました。また日本の核武装にも反対であり、日本こそは世界で唯一の被爆国としての揺るぎない地位をもっと主張して国際政治をかき回すべきだと考えています(こいつ被爆国、被爆国とうっとおしい奴だ、と嫌われて始めて発言力がある国と認められると考えます。日本は大人しい良い子すぎます。韓国の嘘っぱち従軍慰安婦と異なり日本は世界が認める被爆国であり、第二次大戦後世界で核戦争が起こらなかったのは日本が身をもって原爆の悲惨さを世界に示したからに他なりません)。豊下氏の著書は(米軍を対象とした)集団的自衛権行使が日本の国益に利することがないことを非常に論理的に示した点で有意義なものと思いました。
同書の内容に少し関連して、近代国家(国民国家)における軍人の精神構造と「テロとの戦争の時代」における軍人の精神のありかたについて、「しばやんさんのブログ」にコメントをした内容について追記します。
しばやんさんのブログでは、太平洋戦争末期において、日本軍の中枢にかなりソ連のコミンテルンに操られた人達(個人が認識しているかどうかは別として)が混ざっていて、終戦工作をソ連に頼ろう、逆にソ連に参戦してもらおうとする勢力があったことを最近明らかになった当時の記録などから示している非常に興味深いものなのですが、「近代国家における軍人は、その精神構造において元々社会主義に親和性があるのではないか」というコメントです。
(以下転載)
近代国家における軍人は社会主義に親和性が高いかも知れません。
しばやんさんのブログはいつも精緻な資料蒐集と分析で大変勉強になります。今回のシリーズも大変興味深い内容でためになりました。以前日本が本来信用できないソ連に終戦工作を頼ろうとしていたのか不思議に思った事をコメントさせていただきましたが、逆に取り込まれていた部分もあると解ると合点がゆくところがあります。
いつの時代もどこの国でも、国際関係の仕事をしている人達は自分の得意とする国や地域があるもので、その人がその地域や国を詳しいからといって他国のために働く(魂を売る)という訳ではないだろうとは思います。知日派と言われる外国人達が全員日本のために自国の国益を損ねてまで働くとはとても思えません。だから現在の外務省職員にしても当時の軍人にしても自分の専門とする国とは良好な関係を築いて自分の地位を高いものにしたいという我欲はあるでしょうが、他国の国益のために国を売る事まではしないのではと思います。そこに騙し、騙されの複雑なやりとりが絡むと一層外から判断することが難しいものになるだろうと思います。
さて、戦前の純粋な気持ちを持った日本の軍人達は当時の若者達が社会主義思想に傾倒したように我欲にまみれた資本主義よりも社会主義的な思想に親和性があったことは容易に推察されます。元々裕福なお坊ちゃんが軍人になる事は少なく、比較的貧しい田舎出の優秀な次男坊三男坊が兵学校などに進んでいったのだろうと思います。その点学徒出陣まで兵役を免れていた大学生達とは少し違っていたのではと思います。
中世における戦争は領主達(貴族)が領民を率いて或は兵隊を雇って略奪のために戦争を行ったのであり、植民地争奪戦なども結果的には国の利益よりも自分の利益に直結するから戦争をしてきたものと考えられます。つまり軍人は資本家的な思考をしていたはずです。現在の中国解放軍も次第に革命前の軍閥のようになりつつあるようで、金と権力が結びついた構造になりつつある点で既に中国は中世に戻りつつあるのではないかと考えます。本来近代国家における軍人は戦争によって自分が豊かになる事はなく、あくまで国益が追求されるのみであり、自分が戦うことによって国民が幸せになる、と言う代償しかない点で非常に社会主義的な精神を強いられ、それを受け入れていると言えるでしょう。それは自由主義国家(西側)社会主義国家(東側)を問わず共通の事でした。だから一個人として軍人同士が話をすると体制によらず結構価値観が似ていて気が合うということがありました。
ところが、グローバル社会になって、米国が「テロとの戦争」を始めて見ると、軍人達はいくら戦っても国民が幸せになったり豊かになったりする訳ではなく、グローバル企業(や一部の資産家)が商売をしやすくするためにそれを妨害するローカルなテロリズム(或はそれを快しとしない一般の人)と戦争をするだけになってしまいました。つまり近代国家における軍人の精神構造では対応が難しくなっている。むしろ中世の貴族や資産家が傭兵を雇って自分達の取り分を増やすために戦争をしている姿に戻りつつあると考えるほうが理解しやすく、米国でもブラックウオーターなどの傭兵企業が大きな役割を担うようになっています。
長いコメントで恐縮ですが、しばやんさんの渾身のブログを拝見してそのような感慨を持ちました。中国は国内の人民解放軍が中世の軍閥化しつつある事を危ぶんで国民国家型の軍(党の軍ではなく)に変換しようと試みているように見えます。強力な軍を背景にした国家資本主義が中国の目指す「21世紀生き残り戦略」のように見えますが、そのとばっちりを日本があびないようにうまく振る舞って行く必要があると思います。
(転載終わり)