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rakitarouのきままな日常

人間の虐待で隻眼になったrakitarouの名を借りて人間界のモヤモヤを語ります。

書評「日米同盟の正体」

2009-09-21 01:12:25 | 書評
「日米同盟の正体」迷走する安全保障 孫崎 享(講談社現代新書2009年3月刊)

著者は外務省でイランを初めとする各国大使として外交の第1線で活躍した後、防衛大学校の教授となり人文社会学部長として国際関係や危機管理を教えてきた第一人者です。本書は今年3月に定年退官するにあたり防衛大学の学生への最終講義のつもりでまとめた本であるという位置づけで、題名の「日米同盟の正体」というのは現在の日米(軍事)同盟の実体は一般に認識されている戦後の日米安全保障条約と同一ではなく、05年の10月に日本の外務大臣、防衛庁長官によって署名された「日米同盟:未来のための変革と再編」に変わったのだ、ということが主題であることを示しています。

著者は旧来の東西冷戦体制の下に交された日米安保の考え方、つまり日本は共産主義の防波堤として米国に基地を提供する代わりに「核の傘」により共産圏からの侵略から保護される。自衛隊は専ら自国領土内における防衛任務を旨とすればよい、と言う時代は終わり、新しい同盟関係においては「米国の利益となる政策は日米共通の利益と考え、協同して対処する」に変わったのだと説明します。つまり「テロとの戦い」が米国の国益であれば、日本も戦地に赴いて積極的に役割を果たす事が求められている、というものです。これは殆ど日本人の間で報道される事も議論されることもなく、知らないうちに決まったことと言えます。しかし言われて見ればインド洋における給油支援やソマリアの海賊退治に自衛隊が参加し、アフガニスタンへの派遣もいつの間にか議論に上がってきている現実を見るとこの新しい同盟関係は既に機能していると考えた方が良いでしょう。

氏は日米同盟のあり方が変わってしまったからには、否応なく軍事的に共同歩調を取る米国の外交戦略を正確に理解するべきであり、またそれが本当に日本の国益にかなうものなのかを見通す眼力を養いなさいと主張します。

私は著者の米国の国家戦略を分析する視点は非常に論理的であり、一見陰謀論的に見えるけれども、私が常々「国家には表の戦略と裏の戦略がある」と主張するように種々の情報を組み上げてゆけば911からイラク戦争への流れも国家戦略のシナリオ通りに行われていることを見事に説明していると思いました。

私が考える大切な点は、本書の内容が国防の一線を担う防衛大学の学生達に向けて書かれているということです。田母神氏の論文問題が国会で取り上げられたときに「東京裁判史観を否定する自衛官がいることは文民統制上許せない。」という国会議員がいましたが、この程度の知能の国会議員がいる方が私には許せないと感じました。軍人たるものの基本は愛国心であり、国益を実現するための方略は様々な方法があるのだから歴史観や周辺国の国家戦略の分析は固定観念なく柔軟に考えるべきものだからです。米軍の退役将軍ACウエデマイヤー氏が60年代に書いたWedemeyer Reports!日本名「第二次大戦に勝者なし(講談社学術文庫)」では真珠湾攻撃前に氏が大統領命令によって米軍がヨーロッパへの大規模な兵力派遣計画を極秘に作成していた時にも「米国の国益を考えると私は現時点で欧州の戦いに参戦することは反対だ」と公言していたと述べています。軍人たるもの愛国心さえあれば、国益を実現させる方法について様々な意見を持っていてかまわないのです。但し一度政府の方針が決まって命令が出されたら目的を達するためにそれが本人の意見と異なる場合でも全力を尽すのが努めです。その使命がどうしても自分の信念に反するものであるならば職を辞すれば良いのです。もっとも田母神氏の場合、現職の空幕長として問題にされることを解っていてやった確信犯的な所が賛成できないのですが。

自衛官たるもの米国の国家戦略がどのように決められているか、それが日本の国益にかなうものなのかを正確に分析する能力が求められるのは当然と言えましょう。特に日本では国家間のパワーバランスや地政学を教える大学がなく、軍事や国家戦略、インテリジェンスといった各国の俊才達がしのぎを削って勉強している分野がからきし弱いのですから、二度と第二次大戦の過ちを犯す事がないように世界を見る目を養ってもらわないといけないと思います。

米国の対外戦略は同じ政権下でも短期間のうちに変わる、という点言われて見れば成る程と思いました。例えば対北朝鮮政策は小泉の時代には非常に強行で、フセインと同様将軍様は悪の枢軸の極悪人であり、小泉が勝手に北を訪問して正日と会談して条約を結んだことで米国はカンカンに怒りましたが、安倍の時代には日本だけが北には強行でむしろ浮いた存在になってしまいました。米国のいいなりになる必要はないでしょうが、米国の出方を勘案して歩調を合わせる事でより多くの利益を引き出す事ができたかも知れません。

本書の第八章「日本の進むべき道」では氏の考えに基づく日本の防衛のありかたについて展望が述べられています。この内容は私の普段考える所と大いに共通していて共感がもてました。国際関係の専門家である著者と共通の認識であったことは愚考していたことも無駄ではなかったと嬉しく感じました。つまり軍事力は国防力の一部でしかないこと。核の有無は絶対的な国防力の決定条件にはならないこと、その点で現在の日本には核は無用であること。米国に盲従せず国益を第一に考えること、その際欧州の出方も見る事などわが意得たりと思えました。

この本は神田の紀伊国屋でも書店内に1冊、講談社現代新書の棚にはなく、日米関係の専門書の棚にあるだけでした。他の書店では殆ど見かけません。他の新書よりもよほど内容の濃いものと思うのですが品数を減らす特別な理由でもあるのでしょうか。
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書評 「数字で見るニッポンの医療」

2009-07-19 22:51:47 | 書評
書評 「数字で見るニッポンの医療」読売新聞医療情報部編(講談社現代新書―2008年)

普段日本のマスコミの偏った医療報道に苦言を呈している私ですが、この本は客観的な数字を元に日本の医療を解りやすく解説した良書と言えます。医師の私からみて変に欧米の医療を礼賛することなく、また日本の医師を精神論で批難するようなこともなく、私も普段からおかしいと感じているような事例にも具体的に正しく取り上げられていて「マスコミも良く勉強すればまともな報道ができるではないか。」と思わせる内容です。

マスコミも省庁と同様縦割り社会であり、医療のことを知らない社会部の記者が偏った報道をしても事情を良く解っている医療担当の記者が訂正できないということは聞いています。だから医療者はマスコミに対する時は「マスコミを上手く使うようにしなさい。」と言われます。こちらが初めから敵対してかかったり警戒しすぎたりすると却って悪いように報道されてしまうのであり、マスコミが知りたい所を良く説明しつつこちらの知らせたい内容を報道してもらうように仕向ける工夫が必要だと言います。

第一章では日本の医療の全般的な数字が紹介されている。つまり日本の医療費は安いのか、手術件数と手術死亡率は関係あるのかなど論じられている。日本の医療が効率的であるけれど診療費が安いのであって諸外国より薬にかかる医療費が多いといった指摘はその通りだと思う。私の事例の紹介ですが、先日腎外傷で出血がひどいため、夜中に腎動脈塞栓術を行いました。時間外に出てきた放射線科医や泌尿器科医の手当ては一人3000円足らずですが、一本十万円以上する塞栓用コイルを20本も使用したので治療費は車一台分近くになりました。医療費が高いといってもそれは医者がもらう賃金ではないということが良く解ると思います。

本にもどります。心臓手術の症例が少ない病院の手術死亡率は多い病院の2倍というのは真実ですが、死亡率自体が1.6%が3.8%になるだけであって田舎の病院でも96%の人が助かるのであれば医療レベルは十分に高いと言えるのではないでしょうか。30%が60%に跳ね上がるならば手術できる病院を制限するべきですが、交通事情など田舎の病院の方がハンディもあるのですから数字だけで批難するのは片手落ちであるとこの件では本書を批判しておきます。

その後身近な医療費、がんと生活習慣病、心の病気などの話題が続きます。これらの内容はその通りだと思います。日本の癌医療は遅れているなどと言いますが、緩和医療や「死に向き合う患者さんの心のケア」といった面では問題はあるけれど日本の「癌治療」そのものは諸外国と比べて全く遜色ない。日本で癌の死亡率が減らないのは一つの癌を治しても同じ人が死ぬまでに3つ4つの癌にかかるからで米国ではそうなる前に心臓や脳血管障害で死亡しているだけの違いです。本書で紹介されている「外国で承認されている画期的な新薬といっても延命効果が2-3ヶ月延びるだけである」といった解説は国民全体に知らしめるべき真実だと思います。

7章の「医師の姿」も普段私が主張している通りですし、8章の「検査大国」も理学所見よりCTという行き過ぎたデータ尊重主義の姿を紹介していて共感します。終章にかけてメタボとコレステロールの話題を取り上げていますが、「コレステロールを下げた所で1000人に薬を飲ませて1年で一人心筋梗塞が減る程度なら国民をあげて大騒ぎするほどのことか」という問いかけに私大いに賛成します。

日本人は薬好きであり検査データ好きですが、この本を読んで正しい医療データを知って欲しいと思いました。
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オバマの時代に日本がアメリカを赦す日は来るか

2009-01-25 23:47:17 | 書評
書評 日本がアメリカを赦す日 岸田秀 文春文庫 2004年刊

昭和8年生まれの心理学者でものぐさ精神分析などの著書で知られる岸田秀氏が日本とアメリカの関係を精神分析的解析で解説したもので、多少強引なところもあるけれども外交政策が所詮人間の思考により出てくるものであるからどのような心理の結果このような政策がなされたのかが納得できる分析で語られています。

幕末のペリー入港による開国以来、日本の外交は現在に至るもアメリカ抜きでは語れない関係にありますが、氏は日米関係は御互いの一方的な思い込みの上に共通認識のないまま続いているカップルのようなものだと分析します。日本にとってアメリカは軍事力で脅されて強制的に開国させられ、結果的に政権交代までおこり、屈辱的な不平等条約を結ばされた相手です。何とか屈辱を晴らそうと日清日ロの戦いで勝ち、第一次大戦で漁夫の利を得て一等国の仲間入りをしてやっと平等の立場に立ったと胸を張るのですが、第二次大戦でこてんぱんに痛めつけられて再び屈辱の日々に戻ります。しかし日本はこの屈辱感を「アメリカに民主化してもらって却って良かったのだ」「これは日本が自ら望んでいた結果なのだ」と思い込むことで封殺してしまいます。それは人質にとられた本人が人質となった屈辱感をむしろ犯人の意思と同化することで封殺する「ストックホルム症候群」と同じ心理であると分析します。だから憲法にしろ、小泉改革にしろアメリカに強要されたことなのに「これは日本が自分から望んだことなのだ」と慎重な検討・分析もせずに自ら進んで言われた通りを行ってしまうのだと説明します。これは正にその通りでしょう。

一方のアメリカは、時代遅れだが文化を持ち、見どころのある日本を「植民地」でなく「子分」に取り立ててやった気でいます。日清日ロの戦いも仲裁を買って出て子分が損をしないように立てて、西欧に並ぶ国家の仲間入りをさせてやったと思っています。しかし「子分」のくせに一人前になったような気になってアメリカに楯突いて勝手に中国に領土を広げようとしはじめました。「親に逆らう者は徹底的に叩く」。第二次大戦ではインディアンを虐殺したように日本人を虐殺したけれど、「もう逆らいません」と恭順の意思を示した日本に対してアメリカは様々な監視を付けながら再度「子分」として取り立ててやることにします。日本は親であるアメリカの意を進んで酌んで「とても良い子」を演ずるようになりました。相手の文化など考えずに力で捩じ伏せて虐殺し、まいった所で優しく「子分」として取り立てれば皆日本のように意のままになると勘違いしたアメリカは戦後の外交政策で失敗し続ける事になります。

岸田氏の表現を借りると、無理やり股を開かされて強姦されて処女を奪われたのに、「自分は強姦されて性の喜びを知って良かったのだ」などと自分を偽っている限り日本とアメリカはまともな国家関係になどならないと言えます。もう一度アメリカと戦争をする必要はありませんが、日本が感じている屈辱感を素直に日本自身が認識すること、そしてそれをアメリカに訴えることが真の友好関係には必要だろうと考えます。アメリカは中国やロシアは「子分」ではなく「やくざ」で言えばシマを争う「他の組」と考えているでしょうが、日本は今も間違いなく「子分」と考えているでしょう。

オバマ政権は「中国重視・日本軽視」と危惧されていますが、アメリカにとっては中国を重視する度合いが共和党と異なるだけで日本は「子分」であることに変わりはないと思っているのではないでしょうか。武闘派の「アメリカ組」も軍事力は健在ながら随分経済力が落ちてしまい、子分である日本の上納金が頼りという状態で、力をつけてきた「中国組」に切り札を握られて強い事を言い辛い状況になってしまいました。日本は「子分」であることを止めるべきか、「物言う子分」となるか、自分を偽って「良い子」を演じ続けるのか、そろそろ日本自身が決める時が来ていることを考えさせる本でした。また外交政策を考える時には、政府の中に岸田氏のように精神分析的に相手国の出方を分析する専門家を付けて、日本の国益を考えて政策立案をすることも大事なのではないかと考えさせられました。
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現在のアメリカを理解する好著2冊

2008-12-28 23:02:09 | 書評
○アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない 町山智浩著 文藝春秋08年刊

○ 次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた(上下) ヴィクター・ソーン(副島隆彦訳)徳間書店06年刊、文庫本08年刊

「アメリカ人の・・」はいろいろな所で取り上げられている話題の本で、週刊現代で06年から08年6月まで連載された著者のアメリカ観察のコラムを編集しなおしたものだそうです。表題や水道橋博士絶賛といったややB級的宣伝からは毒気のない肩の凝らない読み物を連想してしまうのですが読みごたえのある思わず「アメリカはどうなってしまうのか」と唸ってしまうような内容です。後者の「次の超大国・・」がアメリカの政治経済のストーリーを書いてきた人達、つまりアメリカを陰で動かす人達の存在を露にした本とすれば、前者はアメリカの一般ピープルがいかに何も考えずに動かされているかを市民目線から赤裸にした本と言えるでしょう。前に少し紹介した堤未果著「ルポ貧困大国アメリカ」(岩波新書08年)も庶民の目から現在のアメリカ社会を描いた好著でしたが、真面目に勉強して働こうとしても現在のアメリカは下層階級の人は中流になどなれず、一層酷い状態に落ちてゆくしかないような社会のしくみになっているという悲劇を描いているのに対して、「アメリカ人の・・」はそのようなアメリカ大衆が現在のアメリカに対して問題意識を持っていない、つまり愚民化され搾取されている「おばかな状態で良い」と思ってしまっていることを種々の例をあげて証明している点で一層救いがたい状況であることを明らかにしています。

アメリカを駄目にしてしまっている重大因子として氏は「キリスト教原理主義」「ユダヤ的拝金主義経済」「愚民化を促すメディア」の存在をあげています。「キリスト教原理主義」は聖書の教え通りにつましく生きるというよりも「異教徒の排除」とか「科学的合理的思考の排除」とか「同性愛の禁止や堕胎の禁止」など現代的思考から離れたエキセントリックな生き方を強要することで愚民化を促し闇の支配を行いやすくしていると言えます。「拝金主義」は現在の経済破綻とアメリカ製造業の衰退を見れば解るように「目先の利益追求」と都合の良いグローバル化が結局アメリカの製造業を衰退させ社会構造を貧困にさせてしまった原因です。「愚民化を促すメディア」は日本も当てはまりますが、民衆を都合よく洗脳するためには嘘やでっちあげも平気で繰り返し流すジャーナリズム精神など消滅した「利益集団にに支配されたマスコミの現状」のことです。「次の超大国は・・」でも触れていますが、テレビだけでなく大新聞も殆どが金融財閥に直結した一部の人達に所有されている現実はヒトラー時代のメディアによる大衆操作以上のものです。

町山氏はだからアメリカの時代が終わり、アメリカはもう駄目なのだと嘲笑しているのかというとそうでもありません。第6章「アメリカを救うのは誰か」と終章「アメリカの時代は終わるのか」の所でSFでしか存在しえなかった黒人大統領が21世紀早々に出現したことと、アメリカ的良心を体現したようなマケイン氏が大統領候補になったことへの期待が語られ、世界から金や資産がアメリカに持ち込まれ、世界各地から希望を持った人材がアメリカに集まってきている現実に触れています。アメリカに住む人達が期待できないなら世界から夢を抱いて集まってくる人達にアメリカのあるべき姿の実現を託そうよ、と言っているようです。

「次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた」は副島隆彦氏の学問道場では「中国ロック本」と呼ばれて重要視されています。私は当初題名から中国のことを重点的に書いた本かと思っていたのですが、原題「The New World Order Exposed」が示すようにヴィクター・ソーンが原著で示したのは民主国家を偽装したアメリカを陰で動かしてきた勢力、つまりロックフェラーやロスチャイルド、ワールブルグといった巨大財閥とそれを取り巻く外交問題評議会や三極委員会がアメリカの政治経済のかじ取りを行っている現実であり、それを50冊以上の書物から抜粋・紹介しています。またアメリカ政治のバックグラウンドに暗い我々日本人読者の理解のために副島隆彦氏が解説文を注釈の形で挿入しているところが重宝します。日本語の題は「暴露された新世界秩序」では日本人にインパクトがないので(アメリカを食い尽くした)「国際ユダヤ資本が次に根城にしようと狙っているのは中国だ」という本の結論的な部分から付けられたものだと解ります。この本はある種の陰謀論を暴露した本とも言えるのですが、アメリカの様な超大国が、民衆による民衆のための政治をてきぱきと行えるはずがなく、誰かさんが書いた筋書きをあたかも民主主義的に決められたような劇場型政治に上手に持って行っているのだということを説明した本とも言えます。問題なのは優れたリーダーが国民全体の幸福のために筋書きを書いているのではない点で、だからこそ筋書きが決められる過程が隠されている、また隠されていることを国民が知りたがらないようにパンとサーカスを与えてごまかしていることにあるでしょう。

日本は幸いにして世界を征服している国ではないので、日本の政治経済の筋書きを裏で書いている人も所詮誰かの使い走りでしかなく、日本人の中に支配者と被支配者がいるわけではないのが救いですが、アメリカや世界の政治経済のレベルでは支配者と被支配者が存在するのだなということが良く解ります。解った所で自分が支配者の側に廻りたいとも思いませんが、このような状態を理解した上で世の中の動きを見て初めて21世紀の波乱の世界情勢の中を日本が生き抜いてゆく知恵が生まれるのではないかと愚考する次第です。

オバマ=クリントン政権は間違いなく中国重視の政権であり、アジアにおけるアメリカの存在が縮小する一方で中国が覇権を拡大することは明らかです。中国の経済発展と軍事的覇権拡大を容認する国務省がある一方でアメリカの覇権を維持したい国防総省は中国の覇権拡大には反対であり、日本に一層の軍事的パートナーシップの増大を期待してくるでしょう。国際ユダヤ財閥としてはここで日中に一戦交えてもらって一儲けしたい所でもあるでしょう。副島氏はその筋書きが見えているからこそ「アジア人同士戦わず」とのスローガンを掲げているのであり、天木直人氏が憲法9条を擁護するのも同じ危惧を抱いているからと考えます。

中国人が中華思想を刺激されて日本に対して覇権拡大の欲望を露にしてくることは大いにあり得ます。現在の日本の外交姿勢を考えると日華事変の前のように散々挑発した揚げ句に島の一つや二つ占領しにかかるかも知れません。日本に求められるのは、隠忍自重の揚げ句に結局挑発を正面から受けて立つような「狙い通りのうすらバカ」ぶりを発揮するのではなく、中国に挑発させる隙を与えないよう守りを厳重にしつつ、そのような意図を諦めさせることが大事だろうと考えます。簡単には日本と戦えないぞという姿勢を示すことも大事ですし、日本とは戦争するより経済その他で協力関係でいた方が得だと思わせることも大事だと考えます。

主題が逸れましたが、この2冊、隆盛を誇ったアメリカがなぜ現在のようになったのかを理解するには必読の書かもしれないと思います。
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書評 異次元の刻印(上・下)グラハム・ハンコック

2008-11-18 23:52:36 | 書評
書評 異次元の刻印(上・下)グラハム・ハンコック 川瀬勝(訳)
バジリコ2008年刊

「先史時代に高度な文明があったのではないか」というのが著者が「神々の指紋」でピラミッドやマヤ文明の検証から証明した問い掛けであり、出版当時人類史上最高の文明を享受していると考えている現代人にはショッキングな内容でした。今回の問い掛けは人類がただ生きている状態から「文明」を持つに至ったきっかけは何だったのか、抽象的非現実的な啓示である宗教の元になったものは何だったのか、という問い掛けから、特定の薬物による幻覚が古今東西誰にとっても類似した内容を示すのは薬物によって脳内から本書のタイトルである異次元を覗く事ができるからではないかという考案を呈示しています。

「薬物でトリップして見ている内容が異次元の世界である」などという主張は何をアホな事をで片づけられてしまいそうですが、著者は大まじめである種「霊感」の強い人が見る幻覚や、古代から薬草の力を借りてシャーマン達が見てきた神の啓示といったものが現在の文明につながる動物から人への進化のきっかけだったと考えています。またアメリカで多発する知らないうちにUFOや異星人に拉致された記憶(催眠状態で思い出す)は古代の壁画や遺跡に残された異星人を思わせる形態と同類のものであり、ある種のトランス状態で見ているものは古代人も現代人も同じなのではないかと主張します。

私が思うには、脳科学的に見るとある種の薬物で古今東西で同じような幻覚を見る理由は、原初の昔から人類に遺伝的に伝えられている記憶をある種の薬剤が特異的に覚醒させるからだろうと推測します。本能が生きてゆく上で必要な生まれながらに持っている記憶であるとすれば、生きてゆく上で必須ではないために特別なことがない限り呼び起こされない遺伝的記憶も当然あるはずで、それらが特種な薬剤や状態で幻覚の状態で出てくるという説明もできると思います。

しかし著者はもう少し夢を膨らませて、ある種の薬剤によって脳内から確固として存在する異次元への扉が開かれるのではないか、と表現します。それは原初からの記憶と考えたとして、何故異星人のような容貌をした者や宗教的啓示のような幻覚を原初からの記憶として我々人類が持っていなければいけないのかの説明がつかないからです。

遺伝子の二重らせん構造を発見したワトソンは実は薬剤のトランス状態にあるときにこの構造を思いついたと紹介されています(ベンゼン環の発見も夢で見たとかだったが)。ある種の薬剤を使った時の幻覚はこの二重らせんを思わせる絡まった二匹の長い蛇であることが多いと言います。どうも生物化学の秘密の解明につながるような記憶を我々は元々持っているようなのです。著者はこれらの記憶は、生物を地球上に送り出した「何者か」が地球上の生物が進化して自ら文明や科学を創出するようになった時(現在のことか)に解明するよう我々に托した何らかのメッセージなのではないかと主張します。

これは面白い仮定だと思います。人類は動物も植物も含めてバクテリアのような原始的な生物から進化して出現したというのが現代科学の考え方ですが、アミノ酸や核酸を一緒にしたら自己複製や進化の能力を持った生物ができるということは証明されたわけではありませんし、確率論からゆくと自然発生的に生物が生まれることはほぼ永久にないとも考えられます。誰かが原始的生物を地球上に創造し、メッセージを残したとすれば「進化」は証明されているので人類にたどりつくことも納得できます。しかし生物を創造した「その誰か」はどのようにして生まれたのかという堂々めぐりの問が始まってしまうことにもなります。そこで「異次元」という考え(逃げかな)が出てくるのかと思います。

ウイルスやプラスミドのように必要最小限の核酸情報しか持たない物はどうなの、という疑問は残るにしても、信じている宗教の違いで戦争をしたり、地球が滅びても自分たちだけは助かると信じている人達がいたりして、結局は現世利益というか自分たちに都合が良いようにしか宗教を解釈していないのが現代人の現実と思われます。各宗教の教祖達や古代のシャーマン達が何を見て何を伝えようとして宗教が生まれたのかを、現在でも同様の「異次元」を見る方法で再度科学して、その内容をより人類が幸福になる方向に活用してはどうかと著者が提言しているのならば私は同意したいと思います。
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書評 さらば財務省

2008-11-16 22:47:19 | 書評
書評「さらば財務省」 高橋洋一 講談社2008年刊

 小泉・竹中改革の司令塔、安部政権における政策参謀として郵政民営化、道路公団民営化、政策金融改革、公務員制度改革の設計図を描いた政策コンテンツクリエータ(自称)の6年半の苦闘を描いた記録であり、主に自分の出身官庁である財務省との軋轢や、役人の論理による政策遂行上の障害がどのようであったかをわかり易く解説しています。

 私も役人の端くれであったことはありますが、なかなか霞ヶ関の中央における高級公務員たちの日常や考え方を知る機会はありません。この本を読むと中央官庁の仕事のやり方が漠然とではありますが想像できます。著者の高橋洋一氏は東大理学部数学科を出て大蔵省に入った変り種である。中学の時には大学の数学の問題がすらすら解けていた数学の天才である。私など「数学は暗記だ」と割り切ってからやっと試験で点数がとれるようになった数学的才能のない人間なので彼とは頭の構造が違うと思う。映画で言えば「goodwill hunting」の主人公のようなもので、彼が映画の中で話すように「音楽の得意な者が自由にメロディが浮かんで楽譜に写してゆくのと同じように数学の問題が解ける」のだろうと思います。

 この論理的思考が自然にできてしまう才能というのがある意味役人的才覚とは相反するものとしてその後の著者の人生を決定付けてしまうことになります。役人というのは「課題」を出されるとそれに対する模範的回答を準備することには長けていますが、誰も問題にしていないことをわざわざ論理的におかしいという指摘はあえてしないものです。著者は大蔵省理財局時代に巨大な貸付である財政投融資のリスク管理の方法を提案するのですが無視され、後に民間の不良債権問題が出てきてからあわてて財投全体のリスク管理のシステム構築を任された話などが明快に述べられています。

 経済学者の竹中氏と著者は旧知の仲だった由ですが、小泉政権の経済担当大臣に竹中氏が起用されてから著者の経済改革政策の企画立案の手腕が発揮されてゆくようになります。それは財務官僚としてというよりも論理的思考を優先した役所の利害からは独立した政府側の政策立案者としての活躍となり、結果的に霞ヶ関の慣習や利益とは対立するものとなって官僚組織の中では孤立してゆくことになります。

 私は行政府のトップに立つ官僚としては著者は実に有能な官吏「能吏」であるという印象を持ちました。各省庁の官吏のトップ3人くらいは政権交代とともにアメリカのように交代しても良いのではないか、それらの人たちは民間や省庁を自由に渡り歩ける状態(ただし国民監視の上で)で生活も保証できるようにしたら現在のような硬直した縦割り官僚機構の弊害も少しは改善できるのではないかと感じています。医者は国公立病院と私立病院を自由に行き来しますが、官僚もそのようなことがあっても良いように思います。厚労省の官僚のトップが医科大学の公衆衛生学の教授や助教授、或いは医療経済学の専門家であっても良いように思うことと同じです。

 能吏であるという印象なのは、小泉さんの郵政民営化にかける情熱に協力することにおいては非常に有能なのですがでは小泉さんは何故そんなに郵政民営化に固執するのかということには疑問を感じていないように見えるからです。与えられた課題に省庁の利益にとらわれず論理的に優れた回答を出すというのは「能吏」以外の何者でもありません。省庁の利害を優先して当たり障りのない回答を出す「奸吏」よりははるかによいとは思いますが。

 公務員制度改革や年金問題についても彼なりの明快な解説が行われていて参考になりました。特に民主党の対案というのが対案のための対案という感じで自民党のよく練られた案よりも明らかに論理的に劣っているのに表現としては国民感情に訴える内容でマスコミ受けしていることが残念であると記されています。日本人は確かに論理的思考よりも感情を優先しがちです。しかし私は日本人がマスコミや政治家が考えるほど大事な局面でも感情に流される愚かな国民ではないだろうと思っています。休みも取らずまじめに働き、暴動も起こさず犯罪も少ない国民性が感情だけに支配されているわけがありません。マスコミも政治家ももう少し国民の知性を信頼してあまり馬鹿にしたような「受け」ねらいの行動をしないほうが良いのにと思います。確かに小泉氏の郵政改革選挙はマスコミの扇動どおりの結果になり「所詮日本人などこの程度だ」とマスコミも政治家も自信を深めたかも知れません。しかしその思い上がりに胡坐をかくほどに国民はより確かな情報を得られるメディアやインターネットに流れて行っていることも確かなのですから。
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書評 「朝鮮戦争(金日成とマッカーサーの陰謀)」

2008-09-11 00:51:40 | 書評
書評 「朝鮮戦争(金日成とマッカーサーの陰謀)」萩原遼 文春文庫1997年

1993年に文藝春秋社から出された単行本の文庫化されたもので、77年に情報公開されたアメリカ公文書館の160万ページに及ぶ朝鮮戦争時の資料から戦争に至った経緯、当時の北朝鮮側からみた韓国の状況などを公平な視点で詳述した好著だと思います。著者は大阪外語大の朝鮮語科を卒業して赤旗の記者として20年勤務し、平壌特派員も勤めていた朝鮮のエキスパートですが、内容はイデオロギーに捕われず、事実に即し、人間としての自然な感情に従い、欺瞞や非人間的な事態には右も左もなく分析批難するまっとうなジャーナリズム精神を持っておられる方であると思います。

北朝鮮が欺瞞と抑圧、餓え、犯罪の渦巻く収容所国家であることは現在では常識となりましたが、93年当時はまだ世界は社会主義の幻想からやっと覚醒したばかりで北朝鮮がこれほど酷い国だとは思っていなかったと思います。筆者は北朝鮮国家の成立時点まで遡って、朝鮮戦争発生の起源を探ってゆきます。

朝鮮半島北部を占領したソ連軍は、極東方面軍88特別狙撃旅団にいて亡命朝鮮人隊員「キムソンジュ」という33歳の大尉を1920年代からの伝説的な抗日の勇士金日成にすりかえて北朝鮮首班に指名し統治させました。北の施策は全てソ連の指示の下、最終的には朝鮮半島全体をソ連の指揮下に納めることが目的とされ朝鮮人による主体的国造りなど全く認められなかったのです。

朝鮮戦争の開戦は北の南進から始まったことは常識ですが、先に開戦したのは南であるという主張は「先に戦争を始めた方が倫理的な悪」という思想に基づいており、最近のグルジア紛争でもロシアかグルジアかで争われたように正義の旗印をかかげるためには必要な言い分と考えられています。計画的南進は計画的軍の配置を確認できれば容易に判断できることで、北の計画的南進は当時の軍の命令書や兵士達に開戦前に配布された南進後の行動計画などから弁解の余地はないものです。しかし題名に(金日成とマッカーサーの陰謀)とあるように、興味深いのは開戦前の時期から米軍側に北の間諜から計画的南進を示唆する多くの情報が寄せられていたにも係わらず米軍が南進を留まらせる策を何ら打っていなかったという事実があることです。

「アメリカは真珠湾攻撃を知っていた」、「911の直前に既に情報が入っていた」など、アメリカの戦争には優れた情報組織からの確実な情報を得ていながら、先に手を出させておいて自らのやりたい戦争を行うというパターンがあるようです。1950年の段階でその直前に成立した共産中国はアメリカのアジア支配にとって当時覇権を争っていたソ連との関連からも許しがたい状況にあったことは否めなかったでしょう。どこまで本気か不明ですが、北に手を出させて弱小北朝鮮軍を一機に蹴散らしてから、蒋介石と協力して共産中国も追い払うという戦略が考えられていたこともあったようです。実際マッカーサーは蒋と秘密に会談して大統領に叱責されています。

一方で金日成は南進の計画で米軍が参戦してくることは眼中になかったことが見て取れます。仁川上陸後、米軍に敗退した北朝鮮はソ連の参戦を望みますが、冷たく却下されます。ソ連一辺倒だった北がソ連と距離を置いて中国に近づくのはここからですが、もう一方の中国はアメリカの参戦を自国の脅威と戦略的に見ていたことが明らかなのもまた興味深い所です。

当時の中国人(共産党でなく)にとって他国である北朝鮮にアメリカが来ようがソ連が来ようがどうでもよいことだったはずです。それをのべ300万人を動員し、山を埋め尽くす人海戦術で装備が勝り、制空権を持つ米軍を38度線まで押し返した共産中国の裏事情というのは十分な情報はないものの、今後ますます明らかになってくるでしょう。大量の国民党軍の捕虜を背後から銃で脅して一機に処分したという話しもあります(http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20070613/1181698643)。

本書にはその解釈はありませんが、私は朝鮮戦争は朝鮮の独立戦争であったのではないかと考察したことがあります。つまり当初の南進で北が勝っていれば、共産朝鮮の、南の巻き返しで北を中国に追い出していれば韓国が朝鮮を統一していたはずです。しかし米軍の参戦、中国の参戦がそれぞれの独立朝鮮の成立を阻み、現在もその両国の存在が朝鮮統一の障害になっている事実は変わりません。

北朝鮮は主席も動向不明(08年9月)とされ、韓国も対外債務がかさみ経済が破綻しかかっている現在、両国が建設的な方向で統一に向かう事は困難な状況です。しかし軍事は別として、米中の経済的命運が意外にも表裏一体と見られていることから、情勢判断が適確であれば将来的に朝鮮が平和的に統一できるチャンスはあるように思います。そのためにも両国民が欺瞞や見栄にとらわれないありのままの歴史解釈ができる人達に成長してくれることを隣人として望みます。
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書評 黒幕「昭和闇の支配者 一巻」

2008-06-29 00:48:26 | 書評
書評 黒幕「昭和闇の支配者 一巻」大下英治 著 だいわ文庫 2006年刊

戦後の政界の黒幕としてまた様々な経済事件のフィクサーとして活躍(暗躍?)し、ロッキード事件で田中角栄とともに起訴されてその政治的影響力に終焉を迎えた児玉誉士夫の一代記を小説風に記述した興味深い一冊である。

貧しい生まれの乱暴者だが、純粋なところのある少年が、工場労働者から労働運動に引かれ、それが日本人の気質に合わないと知って右翼運動に惹かれて行く。純粋な心から天皇陛下に直訴する手紙を渡そうとするが失敗して投獄され、帝都暗黒化事件に係わって失敗し拳銃自殺を試みるが辛くも一命を取り留める。その後の詳しいいきさつは省かれるものの「この男は使える」と見込まれて外務省情報部の密偵として中国大陸で活躍するようになる。その中で陸軍の石原寛爾や辻政信ともつながりを持つ。大陸での実績を認められて中国対立における海軍の物資調達を一手に引き受ける児玉機関を創設して莫大な資金を動かすようになるのである。

戦後は児玉機関に残った莫大な資産を使って自由党の鳩山内閣の成立に奔走する。その中でロッキード社とのつながりや、経済事件との係わりができてくる他、日本の左傾化に危機感を持ってやくざ社会と右翼との結合を計ったりするのである。中曽根首相や読売新聞のナベツネ氏や氏家斎一郎との交流なども紹介される。

これらの事件が現在進行形で起こっているときは、その背後関係などは我々一般人は知る由もないが、時を経てこのような形でダイジェストとして解説されるとなるほどと理解できるものである。

「どんな人でもそれなりの地位、立場に就くような人というのは、それなりの物(他人より優れた懐の深さといったもの)を持っている」というのはよく現した表現だと思う。単なる拝金主義の中身のない成金というのは、手にした金は豪邸と女に使うものである。児玉誉士夫という一見風采の上がらない小男が政界、経済界、やくざからも恐れられる存在になるにあたって、彼はどのような日本、どのような社会の存立を理想として活動していたのかというところが一番知りたいところだと思う。

1960年の安保改定に際してアイゼンハワー大統領が来日する予定であった時に、日本は国論を二分するほどの猛烈な反安保闘争が行われていて、当時の警察力では十分な警備体制が敷けない状態であった。そこで左翼勢力を抑えるためにヤクザ界が大同団結して行動右翼として警察を補佐するという計画が実行される。結局大統領の来日は中止されて前代未聞の警察とやくざの連合は実現しなかったのであるけれども、そのようなことをやくざ側のみならず政府側までも、その方向でまとめあげてしまう実力を持っていたことに驚かされる。

昭和40年の日韓基本条約締結の準備にあたっても、日韓の交渉上の橋渡しを繰り返し行っていた。朴大統領との会談では李承晩ラインによって韓国側に組み入れられて、韓国が実力で支配してしまった竹島について、将来条約締結の際にもめる元になるからいっそ爆破してしまいましょう、ともちかける話も出ている。見方によっては彼のスタンスは日本にとって必ずしも有利なものではない売国的な行動に見えるところもある。しかし戦前からアジアを西欧列強に対抗する日本中心の版図と考えて幅広く活躍してきた彼にとっては、ソ連や共産中国に侵食されないようアジアを連帯させてゆくことに国益を見出していたのかも知れない。私は中学時代の70年代に韓国にホームステイしたことがあるが、当時も占領時代を悪とする博物館はあったが、現在のようなヒステリックな反日機運はなく、老人などは日本人に昔使っていた日本語で普通に話しかけてきたものであった。

ロッキード事件ではロッキード社の日本側エージェントとして報酬を得ながら政治家や航空会社に収賄を行ったとして取り調べられて、報酬を得ていたことが脱税にあたるとして起訴され、家屋敷なども追徴の対象として結局黒幕としての活動に終止符を打たれて、本人も脳梗塞に倒れて亡くなるのだが、ひとつの時代が終わると同時に彼を黒幕として利用していた勢力からこの事件を機にお払い箱にされたという感が否めない。

若いときに外務省の諜報員として利用された時から、ロッキード事件まで、彼の人生は黒幕として体制を動かすために勢力から利用されることに終始してきた。その立ち位置は彼自身が一番よく理解していたのだろうと思うが、その立場において彼自身が自らの意思でなそうとしてきたことは何であったろうか。児玉は青年思想研究会(青思会)という右翼団体を形成してきたが、彼なりの一つの思想に沿って日本を動かしてゆきたいという志を持っていたと考えるべきであり、私腹を肥やしたいだけの単なる凡夫でないことだけは確かであろうと思う。
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書評 「甘えの構造」 

2008-05-15 00:09:01 | 書評
書評 「甘えの構造」 土井健男 著

私は大学時代に読んだのだが現在の日本がやはり日本独特の「甘えの構造」にはまっているのではないかと感じて再度購入した。60年代から刷数を重ねているロングセラーの本であり、今読み返しても内容に古さを感じさせない。

大略は「甘え」なる語彙は日本語独特のものであり、欧米にはこれに相当する概念がない。キリスト教的な「奪う愛」と「与える愛」の関係とも異なり、「甘え」には相手を甘えさせる「我」の方にも「見返り」の期待が内在する。

「甘え」の概念は日本ではあまりに日常的になっているから日本人はつい世界でも通用すると思ってしまい外国人から誤解を受けたり、独りよがりの禅譲をして損をする。「甘え」は精神分析においても有用な概念であり、外国人にもこの概念を当てはめると理解しやすい場合がある、といったものだ。

日本的な行動すべてを「甘え」で説明しようとするやや強引なところもある本だが、精神科医としての分析的手法で論を積み上げる著者の論理は説得力がある。私には最近日本で問題になっている多くの事も「甘え」が土台になっているように感ずる。

以下は私見ですが、例えば医療ミスで医師がカルテを改ざんする行為は、「普段は一生懸命医療を行っていて、たまたま失敗してしまった事は次の患者さんに生かせばよいだろうから」許されるのだ、と理由づけて行われるものだ。この普段身を削って、寝る間も惜しんで医療に挺身しているのだから失敗を隠匿することを許されてもよいだろうというのは「甘え」である。

普段安月給で家庭も十分省みず、ボロい官舎に住んで日夜国民のために身を危険にさらしているのだから警察の捜査費用を一部交際費に流用しても許されるだろう、というのも「甘え」である。基本的に警察官は真面目で熱心であるからこそ「仲間うちで自由に使える金」を国が困らない程度に捻出することは、悪い事と自覚していても罪悪感はないのである。

中国や朝鮮のしつこい戦争責任追及に対して、「心から謝罪すれば、恨みは水に流してくれる」と考えていることも「甘え」にほかならない。謝罪されて恨みを忘れるのは日本人だけである。

中国では「謝罪される」とは相手の首を掻き切って高々と上げる行為を言う。歴史書を見ればわかる。だから中国人は絶対に「謝罪」などしないのである。日本人は歴代の首相が毎回謝罪の言葉を述べるのにその後も謝罪を求められることでかえって中国への反感を高めているが、それは日本人が言葉の上での謝罪に対して「きっと恨みを水に流してくれるだろう」という期待を持っているからである。謝罪しているのに許さない態度を日本人は「無礼」とみなすが中国人は謝っているのに首を差し出さない(ありていに言えば中国の属国にならない)から謝っているとは認めないのだろう。

私には中国、朝鮮とうまくやってゆくには謝罪など金輪際せずに丁々発止、利を求めて渡り合うことで相互の理解を深めてゆくのがよいと思っている。中国には程々に勝つ、程々に負けるという考えがある。また弱みを見せると「水に落ちた犬を叩く」という考えもある。政治経済研究家の副島隆彦氏は著書で「アジア人同士戦わず」とことあるごとに主張しておられる。それは正しい主張だと思いますが、その本意は「欧米を利するためのアジア人同士の戦争をせず」という意味であると私は解釈している。相手と喧嘩することは殺し合いの戦争とイコールではない。
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心理療法はあてにならない

2008-05-12 18:29:42 | 書評
書評「フロイト先生のウソ」 Rolf Degen 著 赤根洋子 訳 文春文庫2003年刊

何か大事件が起こるたびに被害者や家族の心理的「トラウマ」への公的対処が議論されるようになりました。まるで「心のケア」という科学、社会的概念全てが完成しているように感じますが本当はどうなのでしょうか。今回紹介する「フロイト先生のウソ」は、少し心理学に興味を持った人ならば常識とされるような既成概念の殆どが実は科学的根拠のないでたらめであり、古色蒼然たるフロイト理論をもっともらしく焼き直ししただけの場合も多数あることを数多くの心理学分野の論文を示しながら証明しています。

心理療法について述べた所では、心理療法は「プラセボ」(治療効果がないとされる偽薬、偽治療)以上の効果は証明されず、人は治療を受けようが受けまいが精神の自然治癒力によって治ることを示しています。例えば神経症患者の66%は2年以内に自然治癒し、90%が5年後には精神の健康を取り戻していて、これは治療を受けて治った患者の比率と変わらないと述べています。「心理学産業は市場と顧客の拡大を図るために日常のささいなことに無理にでも病名を付けるしかないのである。ただの疲れが「慢性疲労症候群」となり、つらい思いでは「心的外傷後ストレス障害PTSD」と呼ばれる。遂にはちょっとでも心に不調があれば専門家に相談すべきだということになる。」と心理業界の本音を暴露しています。

他にも「幼児教育が生涯の能力を決めるなどという科学的根拠はない」、「人は無意識の世界に完全な記憶を持っていて催眠によって再現できるなど嘘である」、「催眠術は被験者の自覚があるないに関わらず協力にすぎない」、「幼小児期のトラウマによって成人してから苦しむことなどない」、「多重人格は存在しない」、「右脳、左脳分担説の嘘」といったその道でメシを食べている人たちが読むと卒倒しそうな内容の真実が科学的根拠を示しながら次々と明らかにされて行きます。この本が明らかにしたことは環境によって犯罪がおきたのであって本人が悪いのではないという風潮の法曹界にもかなり厳しい現実をつきつけることになるでしょう。

「心のケア」は「悩みを聞いてあげる」だけで8割は治ったようなものだと言います。家族や友人がその役割を果たせば十分であると筆者は述べます。昨今の何でも公的ケアを求める風潮は本来責任を負うべき家族や教員の「責任転嫁」に過ぎないことは明らかで、それに心理業界の思惑が一致しているということでしょう。現在医療心理師と臨床心理士の二つの国家資格があり、混乱を生じているようですが、利用する側から言えば呼び方などどちらでもいいじゃん、と思うのはそもそもこの分野がどうでもよい分野だからかも知れません(ああ言ってしまった)。

ちなみにこのRolf Degenという著者はドイツ心理学会から科学出版賞を授章しているそうです。心理学会というのは懐が深い。訳者が後書きで述べているように内容にやや強引、日本の現状と異なると感ずる所はあるのですが、淡々と事実を積み重ねて示す事で皆があえて指摘しようとしない既成概念に挑戦するこの本は「心理学分野の副島本」とも言えましょう。
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書評 歴史とは何か 岡田英弘 著

2008-05-02 19:33:04 | 書評
書評 歴史とは何か 岡田英弘 著 文春新書 2001年2月刊

中学高校と歴史を学び、受検のために一生懸命覚えても、では現在の世界情勢が理解できるかというと殆ど分らないのが真実ではないだろうか。私も含めて多くの日本人は日本の歴史教育の成り立ちについて知らされないうちにただ記憶することを強制されてしまい、そもそも歴史とは何なのかということを考えてこなかった。この本はこの根源的な問題を明快に解説した目から鱗の良書だと思う。受検が終わって大学に入り、国際問題に目を向けるようになったら全員目を通すべき本ではないかと思う。

世界において歴史とは中国の王朝史と地中海文明周辺の大国興亡史(西洋史)の二つしか存在しないという。中国王朝史は所謂天が支配者を決める「革命」の正当性を時の支配者が明確にするために司馬遷が紀元前二世紀に「史記」として記述したものが最初であるし、地中海文明はヘロドトス、ツキディティスを始祖に強者の対立盛衰をストーリイ(history)として記述したものがモデルとなっているという。これ以外の文明には所謂通史というものは存在せず、後付けで歴史というものが造られていったにすぎないという。

面白いのは日本文明(史)は7世紀に中国文明から独立する形で成立したと喝破していることである。つまり日本列島に住んでいた倭人は朝鮮半島の中国の直轄地と関係を結んでいたが、隋から唐にかけて中国の勢力が拡大して白村江の戦いに破れて日本列島に隔絶された段階で中国のアンチテーゼとして皇帝と対等の天皇を作り上げて中国からの独立を保ったとする説明である。聖徳太子が送ったという「日出ずる所の天子云々」の書簡も日本という中国と対等の国ができましたという宣言と考えれば「史記」の立場からすると日本史が成立したと言えるのである。しかしこの辺りの記述は日中の歴史的前後関係が不明瞭な所が多く、著者もあえてここでは詳述していないようだ。

また著者はペルシア文明のゾロアスター教による明「善」暗「悪」の葛藤の末、最後は明が勝った後救世主が現れ、その後世界は滅ぶという思想が後のユダヤ教、勿論その分派であるキリスト教、イスラム教に影響しているという記述など興味深い話題を提供しながら歴史という考え方の広がりを解説してゆく。

著者は最終的に歴史を考える上で「国民国家」の概念の複雑さを述べている。日本は幸運にして1500年以上国土と住人と政治が概ね一つにまとまっていたから明治以降の近代国家の成立における国民という概念がすんなり理解できる。その反対軸としてアメリカ合衆国は合衆国憲法に従い米国の国民になることを誓った人間は誰でも基本的にはアメリカ人になれるから分りやすい。しかも憲法成立以前のアメリカ古代史は存在しないので単純である。問題はそれ以外の国である。国と民族の境が一致していないところの方が多い現代世界において国史と呼ぶ物が国民にどのような意味を持つか実に難しい。著者が「歴史とは何か」という題で最も強調したかったのはこのことではないだろうか。特に「国民国家」においては現代の政治に利用するため、歴史の解釈上自分たちに都合の良いことを「善」悪いことは「悪」という善悪の判断をかませていることが多い。

歴史を善悪で考えるのは対立の当事者以外は何の意味もないと著者は言う。その通りである。日本の世界史教育において、ローマ帝国や元の制覇、ナポレオンの遠征などなどいちいちこれは良い事、悪い事と規定して教えたりはしない。しかし突然明治以降の近現代史になると日本や枢軸国は悪として教えられ、戦後は再びどの戦争も善悪の判断が下されず事実の羅列として教わる事になる。これは占領軍の戦後政策の賜物なのだが、これでは現代世界が理解できないのは当たり前である。

中国の史書は政権の正当性を表わしているにすぎないはずであるが、現代中国はどうも「国民国家」の成立を目指しているらしい。「ワンチャイナ」という合言葉や「北京語」を標準語にするために広東語や少数民族の言語を公教育から締め出している事実。またチベットを始め地方の文化や習慣を弾圧し、漢人を多数支配地域に移住させて民族の統一(有り体に言えば民族浄化)を計っている。本来共産主義には国家という枠組みはあり得ないはずなのにやたらと「国家」のアイデンティティを強調するのは日本型の国民国家を目指している証拠である。それは日本型の国民国家が戦争や国力の競争という場ではとても強力であるからだという。

歴史認識の共有などと言う定義も定かでない言葉が市中を賑わせている。「国民国家」における歴史というのは極めて政治的意味合いを持つ物であり歴史上の事実の確認程度なら良いが、それをどう意味付けるかまで共有する事は100%できないのであり、危険なことである。なぜなら同じ「国民国家」内でなければ過去に起こった事象に対する認識を共有することはできないからである。
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書評 中国の闇 マフィア化する政治 何清漣 著

2008-04-28 23:27:37 | 書評
中国の闇 (マフィア化する政治) 何清漣 著 中川友 訳 扶桑社2007年11月刊

アメリカの経済覇権にかげりが見え始めた現在(08年4月)、世界経済の機関車といわれる中国がこのまま破竹の進撃を続けられるのか、アメリカの経済失速とともに大きく衰退し、膨らみすぎた風船のように国内に溜まった格差や不良債権などの矛盾が一機に破裂して再度改革開放前の状態にまで後退してしまうのか、正確に予測できる人はかなりの中国専門家でもいないと思われる。オリンピックを前に中国は前代未聞の経済発展を見せている。一方でチベット問題と世界を回る灯火リレー、各地で繰り広げられる留学生らの異様な体制支援のパフォーマンスは世界の人々の中国を見る目を変えるに十分な効果があったと思われる。

中国の政治体制は「制度が腐敗しているのでなく腐敗が制度化している」と評されているが、毛沢東時代の文化大革命やそれらを絶賛する日本のメディアの印象が強い私には中国の官僚体制がそこまで腐敗しているということがにわかには信じられない。しかし著者は中国における政府行為の黒社会化(非合法組織との連携化)は1990年代の後半から本格化し、この10年ですっかり根付いてしまったと説明する。何故中国で非合法組織がはびこりやすいかというと、経済的豊かさを縦軸に人口を横軸においた「社会経済的地位指数」が先進国ではピラミッド型を作る(頂点の尖り具合はいろいろあるだろうが)のに対して中国では逆T字型を示していて、要は中間層がなく少数の大金持ちと大多数の貧民しかいないことが原因のひとつであるとしている。そして「政治的権力」を持つ者と「経済力」を持つ者が同一(つまり共産党員で官僚)であることは、「金を儲ける」ための「権力の行使」に非合法組織を使うことが容易であるといえるのである。都市部においては僅かながら中間層といえる人々が育ちつつある。しかし14億の全人口に占める中間層の割合はあまりにも少ないのであり、現在の中国指導者たちが「和諧社会による格差の是正と中間層の成長」を目指していると言っても権力層と一致している一部の金持ちの金を均等に国民に分けることなど考えておらず、現実には貧しい者が自分で稼ぐことで自ら中間層にあがることを妨げないという程度のことに見える。

著者は政府行為の黒社会化の実態を数多くの実例を示して説明している。その多くは実際に中国国内のメディアで報道されたものであり中国を脱出した著者の裏情報ではない。開発の名の下に農民たちの家や土地が公に示された一割にも満たない額で取り上げられ、途中の役人達が本来農民達に渡るはずの賠償金のほとんどを横領してゆく。立ち退きを拒否する者達を追い出すのも官僚の横領を中央に訴えようとするのを押さえ込むのも役人に雇われたやくざ者の「黒社会」であり、集団で訴える者たちには共産党直属の人民解放軍や武装警察といった権力が行使されるのである。

中国よQuo Va Disどこへ行くのか?というのは中国関連のニュースを見るたびに思うことである。計画経済が行き詰まって改革開放路線となり、政治は共産党独裁のまま経済だけ資本主義、「なれる人から金持ちに」という思いつきでしかない政策変更を行ってしまった中国。特権を持っている者が豊かになるという当たり前の結果が出ているにすぎない現在様々な矛盾や問題が表出してきている。日本も将来についてしっかりした骨格があるとは言えないが強大な軍事力は持たず、技術立国を目指し、国民は平均的に豊かで日本文化を大事にする北欧的な国になってゆくのが漠然とした目標である。中国はアメリカのような軍事力を背景にするアジアの覇権国を目指すのか(太平洋の半分をよこせといった中国海軍の司令官がいたな)。経済は工業中心なのか農業中心なのか、国内は日本や北欧のような福祉重視の貧富の差の少ない社会を目指すのか、アメリカ的な一攫千金社会を目指すのか。おそらく誰も答えられないのではないか。

悪徳権力者を糾弾する言論を続ける著者は2001年に身の危険を感じてアメリカに脱出するのであるが、彼女が愛国者であることは間違いない。また愛国者であるからこそ著者も中国よどこへ行くという問いを発している。この本の第二部「強権統治下における中国の現状と展望」において中国の今後を強く案じている。今後繁栄し続けるか、崩壊するかの予測については種々の証拠をあげて「繁栄論の根拠が間違っている」ことと「社会権力構造が巧妙であることから容易に崩壊しない」という両方の結果を導いている。つまり繁栄が行き詰まりつつもしばらくこの状態が続くということであろうか。

著者の危惧することに目先の効く富を得た権力者たちが既に国を捨て海外に逃亡する準備を整えつつあることをあげている。この「政治からの退場メカニズム」と呼ぶ構造は、富を得た権力者が家族を海外に住まわせたり子弟を留学させて海外に拠点を設け、稼げるだけ稼いで、いざとなったらいつでも母国から逃げ出せる準備を整えていることを指している。ロサンゼルスの郊外にはすでにそのための居住区までできているという。私が米留中や日本において会った中国の留学生たちは本人達も優秀であったけれど、確かに皆共産党の幹部の子弟たちであった。

著者は今後の中国を「危機に満ちた長いプロセスをたどりながら紆余曲折を経て民主化が進んでゆくほかないであろう」と推測する。富を得た政治エリートは海外へ勝ち逃げするだろうが、民主主義のリーダーたる資質を持った愛国的指導者は踏みとどまって祖国のために頑張るかもしれないと期待する。公衆にとっては改革のコストを今払うか、子孫の時代に先送りするかの選択を迫られることになるだろうと結論付ける。著者は燦然たる文明の歴史を持つ中国が近代的な民主政治を孫文いらい100年たっても達成できない歯がゆさを憂い、ぜひ自分たちの時代に世界に誇れる民主国家に脱皮して欲しいと訴えている。私は彼女は真の愛国者であると思う。
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書評 日中戦争 殲滅戦から消耗戦へ 

2008-04-28 00:43:20 | 書評
小林英夫著  講談社現代親書2007年7月刊

2007年は日中戦争開始から70年目の節目の年だそうだ。日本は現在でも南京の虐殺や中国侵略時における贖罪意識について中国から追及されている。その立場は常に「責める中国」と「謝罪する日本」という図式であり、希に日本が中国のチベット侵略の非について口にしようものなら「お前何勘違いしている」とばかりに「ぼこぼこに殴られる」のを覚悟しなければならない(とマスコミも政治家も国民も暗黙の内に思っている)。丁度学校における苛められっ子がたまに反論しようものならさらに酷い仕打ちを受けるようなもので、漫画どらえもんで口答えをしたのび太が「のび太のくせに生意気だ」という理由でジャイアンに殴られるのと同じであると戦後生まれの日本人は感じている。

2007年の70年前の1937年、7月7日は蘆溝橋事件勃発の日である。我々歴史に疎い戦後生まれの人間にとって、日中戦争の始まりは蘆溝橋事件であるという事は理解していても実感として掴み難い。なぜならその前の満州事変は日中戦争に入らない(ここまでは批難の対象外?第一次大戦のチンタオやその後の山東出兵とか)というのがどうも理解しにくいように思うからである。しかし台湾からの友人と話した時も彼らは歴史上蘆溝橋事件を日中戦争開始と習ったと言っており、日中共同の認識としてこれは正しいのだろうと思われる。

太平洋戦争の呼び水となった日中戦争が何故行われたのか、日本は何を目的に、どのような心構えで戦争に突入していったのかというのは誠に興味深い所であり、前の保阪正康氏の「昭和史の教訓」においても最も知りたいところであった。亜細亜近代史の研究家である小林英夫氏の日中戦争(殲滅戦から消耗戦へ)は日中両国の本戦争におけるスタンスの違いを分りやすく見事に解説している。

一言で言えば、日本は強力な軍事力をもって短期決戦で決着を付ける殲滅戦思考であり、中国は弱兵であるが長期消耗戦に持ち込んで相手の疲弊したところで最終的に勝ちを取る消耗戦思考である、という事である。また直接戦闘にかかわる戦力や軍備を生み出す産業力を「ハードパワー」、国家戦略や宣伝、外交力などを「ソフトパワー」と表現し、日本は前者は強いが後者は弱く、中国はその逆であると分析している。重要な点は当時の日本にはこの分析はなく、中国の蒋介石総統は的確にこの分析を行った上で、彼の戦略にどおりに戦争が行われていったことにある。

本の中にある、1938年の蒋介石対日言論選集からの引用で、日本と中国の長所短所の分析を蒋介石がいかに的確に行っていたかがわかる。

<日本側の長所>
こざかしい事をしない
研究心を絶やさない
命令を徹底的に実施する
連絡を密にした共同作業が得意
忍耐強い

<日本側の短所>
国際情勢に疎い
持久戦で経済破綻を生ずる
何故中国と戦わねばならないのか理解できていない

<中国側の長所>
国土が広く人口が巨大である
国際情勢に強い
持久戦で戦う条件を持っている

<中国側の短所>
研究不足
攻撃精神の欠如
共同作戦の稚拙
軍民のつながりの欠如

蒋介石は日露戦争後に4年間日本に留学して日本の陸軍士官学校で学び日本軍の中で生活した経験があるから日本及び日本軍の長所短所を実に的確に把握していたのである。私がこれを長く引用したのは蒋介石のこの日本分析が現在の日本にもそのまま当てはまると思われるからです。それに引き換え中国側の短所は現在かなり改善されているように思うのは私だけでしょうか。日本は第二次大戦の教訓から何も学んでいないのではないか。

殲滅戦、消耗戦という視点で興味深いのは圧倒的なハードパワーを持った現在のアメリカとイラクゲリラの関係、現在の中共とチベット独立派の関係、当時のソ連とアフガンゲリラの関係が重なって見えることです。そういえばベトナム戦争においてもアメリカは圧倒的軍事力を持ちながら消耗戦でやられて金本位制を保てなくなって何とか戦争を敗けで終わらせたニクソンが経済も四苦八苦していたのを思い出します。

著者は日中戦争の実態を庶民の立場から紹介する目的で1953年に中国吉林省の関東憲兵隊司令部跡地で発見された当時の郵便検閲をの結果をまとめた「検閲月報」を紹介引用している。日中戦初期から後期に分けて日本人、中国人、その他外国人の手紙を検閲して、反日抗日的内容、厭戦反戦的内容、軍機密に係わるもの、親日的内容、流言飛語、銃後の民心に係わる戦争の実相を示す物など例をあげて紹介している。この章で印象深かったのは、どれを紹介するかという点で著者のバイアスが入る事は否めないとしても、検閲月報に書かれていることは真実であると考えられることから、特に銃後の民心に係わるとして削除された中国人殺戮の模様や村落からの物資略奪の模様が中国が「日本の戦時中の悪行」として批難している多くの内容と合っていることです。勿論、南京虐殺や100人切り問題や日本の悪行の代表として喧伝されているものの多くは事実以外の誇張が含まれていて多分に政治的意味によって脚色されているとは思います。しかし極限状態の戦場において日本軍は何も残虐なことや悪い事はしていないなどということはあり得ないということがこの検閲によって削除された内容を知る事で理解できます。

日本はうまくいった満州事変の如く華中にも日本支配の及ぶ地域か中国全体に親日的な政府を簡単に造れるだろうと目論んで戦争に突入し、蒋介石の消耗戦戦略にまんまと乗せられて中国奥地への泥沼の戦いに導かれてゆきます。途中早く戦争を終結させようと汪兆銘に傀儡政権を造らせますが近衛内閣の蒋介石への態度が二転三転で結局親日的な汪政権にも不誠実な対応しかできず、ついには欧米を蒋介石の側に付かせてしまい太平洋戦争が始まる事になります。この辺の経緯において、戦前日本は民主国家でなく軍事独裁国家ということになっているのですが、では明確な国家戦略を描いて独裁の指揮をとっていたのは誰なの?と聞いてみたくなります。天皇でもなく、転々と変わる首相でもない、陸海軍の首脳も百花総覧いろんな考えの人がいる。ただ「血気盛んな若手」とか「統制派・皇道派」に代表される「空気」があってそれに逆らわないように物事が決定されていったに過ぎないのではないかと思ってしまいます。

今の日本はしっかりした国家戦略を持っているのでしょうか。独裁はいけませんが、民主的に選ばれたリーダーは日本の進む道を明確に示しているでしょうか。日本の経営が、誰が決めたか分らない「空気」に反しないような選択肢をただ選んでいるだけであるとすれば、これまた日本は戦争から何も学んでいないということになると思います。
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昭和史の教訓 書評

2008-04-27 14:49:42 | 書評
保阪正康著「昭和史の教訓」書評 朝日親書 07年2月刊

日本は何ゆえに無謀といえる太平洋戦争に突入していったのか。その疑問に自信を持って答えることができる日本人は少ないと思う。「軍部の暴走」、その理論的バックボーンになった「統帥権の干犯」、きっかけを作った「陸海軍大臣現役軍人制」これらは教科書的には理解することはできてもこの組み合わせがイコール真珠湾攻撃には結びつかない。日本が戦争に突入してゆく昭和10年台に我々日本人は何を考え、指導部はどのような国家戦略をもっていたのかを振り返り、反省を行い教訓をくみ取ることは未曾有の犠牲を払った戦争を繰り返さないために必須の作業になると思う。

保阪氏の視点は常に反省的である。しかしそれは戦前をすべて悪とする非生産的なステレオタイプの決め付けではなく、極めて理論的に原因や背景を考察し、当時の指導層である政治家や軍人に対するだけでなく、当時の一般国民にも鋭い自省を促している。それは現在一般人であるわれわれすべてが日本の将来についての責任を負っているという認識に基づくものであると言えるし、私も共感を覚えるところである。

昭和10年代の日本の状態を保阪氏は「主観主義」という言葉で表現している。主観主義とは自己中心的とか他者への思いやりがないということではなく、他者の立場に立って考えることがない、自分本位の考え方ということに近い。支那の中華主義や軍事力を全てとするパワーポリティクスでもない。保阪氏は主観主義の一例として皇紀2600年において作成された「皇国二千六百年史」の存在をあげている。これは当時の日本国民から広く募集されて政府編集の上で刊行された日本古来からの天皇中心の歴史をまとめた史書で「天皇の神格化」がこれにより完成したと評されている。

明治維新までは天皇は存在したものの庶民の間で天皇は神として崇められていた訳ではなく、また明治の激動期においても天皇は国家の主権者ではあったが神ではなく、明治政府をきりもりしていた元勲達にとって天皇は国におけるひとつの機関つまり昭和初期においてまさに不敬として断罪された美濃部達吉の「天皇機関説」的な合理的考えで扱われてきたと言える。日本は昭和初期においてまさに「天皇の神格化」を行うことによって天皇および直轄する皇軍について議論することを禁止されてしまうのである。

この主観主義に基づく天皇の神格化は国家のあり方についての議論を封じ、結果として広く国民が日本という国家のあり方、国家戦略を考えることも封じてしまうのである。その典型は「戦争の目的」「戦争の終着点をどこにおくか」を全く考えずに戦争に突入してゆくことに集約されてゆく。ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンなどの独裁者、英米などの民主国家においてもその指導者はそのときの国家目標、国家戦略というものを明確に持っていて国家の上層部はその戦略に従って仕事をしていたといえよう。しかし当時の日本においては、日中戦争を例においてもアジアの西欧からの開放とか五族協和といった漠然としたスローガンはあったものの具体的な到達目標のようなものはなかったといってよい。当時の軍は軍功を重ねて日本の版図を広げることが天皇に対する自らの忠誠、忠心の証となると考え、それが自らの存在価値を高めることであると信じていたのである。その行いに意見することなどありえないことであって神である天皇に尽くすことを否定することは許されないという形になってしまったのである。このやみくもに日本が版図を広げていった結果として、日本は米英から危険視され国際的に孤立してゆき、対米英戦争に突入することになったというのが結論である。

面白い指摘として、氏はこの本の中で対米英戦の終結目標についての当時の公式文書を紹介しているのであるが、それが当時の陸海軍の一課員が官僚の作文よろしくまとめた文がそのまま政府の公式文書になってしまい、最も大切な戦争の終結点、目標について政府の中枢においてろくに議論すら行われていないことが判明している。

保阪氏は「歴史への謙虚さとは何か」と題されたこの本の終章において、庶民の側からみた当時の状態を四つの枠組みで囲い込まれた時代と表現している。

四つの枠組みとは(カッコ内はrakitarou註)

1. 国定教科書による国家統制 (検定教科書ではなく、国が決めた選べない教科書)
2. 情報発信の一元化
3. 暴力装置の発動      (公的、非公的を問わず、体制に逆らうとひどい目にあうこと)
4. 弾圧立法の徹底化     (治安維持法のようなあからさまな物や人権擁護法のように紛らわしいのもあると思う)

である。この枠組みで囲い込まれて生活することを余儀なくされると人は体制に対する疑問を感じてもそれを発信したり自ら変えようとしたりできなくなる。この状態を保阪氏は「国家イコール兵舎」「臣民イコール兵士」と表現している。この四つの囲いは昭和初期のように一見文化経済が発展していて国民が豊かになっているように見えていても存在しえるのである。現在の中華人民共和国などこのよい例であろう。

現在の日本は幸いにしてこの四つの枠組みからは解き放たれていると思われるが歴史に対して常に謙虚であろうとするとき、いつまたこの枠組みが作られてゆくかを注意深く見つめる必要がある。天皇は神ではなくなったものの日本人の「主観主義」や「国家戦略の欠如」といった当時と同じ根本的欠陥は現在も変わっていないのだから。
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