rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

愛国の衣をかぶった革命政権

2015-12-17 00:09:20 | 政治

私が愛読しているブログの「しばやんの日々」に戦前の日本軍部にはかなり共産主義にシンパシーを感じていた者が多くいて、終戦間近ではソ連に大幅に譲歩した終戦工作を持ちかけ、満州、朝鮮や沖縄までソ連にやって日中(共産党)ソで戦後対米英連合を作り上げる理想に燃えていた若手の軍人が沢山いたことが示されています。軍による統制経済は実質社会主義経済と変わる事がなく、軍人達にとっては資本家が世界を牛耳る世の中よりも社会主義的統制経済の方が望ましいと考えていたと思われます。2.26事件や515事件における若手将校達の動機も腐敗した社会や貧富の差、地方農家の貧しさなどが改革の動機になっており、基本的な思想は共産主義革命と同じです。

 

近衛文麿が昭和20年2月に昭和天皇に宛てたとされる近衛上奏文に

是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存候。」

という部分があって、昭和初期から終戦にかけてかなり社会主義にかぶれた人達が多くいたことを伺わせます。特高警察は「アカ」を厳しく取り締まったことになっていますが、天皇制そのものを否定しなければ、社会主義的統制経済は国家社会主義(ナチズム)として抵抗無く受け入れられていたはずです。このソ連びいきの人達のお蔭で満州はソ連の侵攻に一切の抵抗を示さず、ソ連が日本を占領するまで終戦に至らせないという玉音放送阻止計画なども画策されたと言われています(徹底抗戦をすればソ連と米国に日本が折半されることは終戦数ヶ月前のドイツの敗戦を見た軍人達には十分理解できたことです)。

 

さて、現在の安倍政権です。今世界には北朝鮮を除いて(北朝鮮も怪しいものですが)社会主義経済を取っている国は存在しません。だから右翼左翼を資本主義対社会主義経済と対比付けることはできません。今のネット界や社会における右翼左翼の線引きは米国贔屓の人達が同じ資本主義経済であるのに「中国やロシア、韓国寄りの人達」を左翼呼ばわりし、「安倍政権のやっていること大賛成の人達」を反対と考える人達が右翼呼ばわりしているだけのように思います。

 

以前左翼と右翼の定義をブログで記した事があります。そこで、京都大学人間環境学教授の佐伯啓思氏の「自由と民主主義をもうやめる」幻冬舎新書2008年刊に「何故インテリは左翼が好きか」という問の答えに近いものが書いてあったことを紹介しました。

 

ある学生の「左翼」と「保守」は何が違うのかという質問の答えとして、氏は

 

(引用はじめ)

「左翼」は人間の理性の万能を信じている。人間の理性能力によって、この社会を合理的に、人々が自由になるように作り直してゆくことができる、しかも、歴史はその方向に進歩している、と考える。

 

一方「保守」とは人間の理性能力には限界があると考える。人間は過度に合理的であろうとすると、むしろ予期できない誤りを犯すものである。従って過去の経験や非合理的なものの中にある知恵を大切にし、急激な社会変化を避けようと考える。

 

これが本来的な意味での「左翼・進歩主義」と「保守主義」の対立です。社会主義か資本主義か、或いは親米か反米か、といったこととは関係ありません。

(22-23ページ 以上引用おわり)

 

と説明していて、納得のゆく説明だと思いました。米国においては国家主導でコーポラティズムに基づくグローバリズムを進める民主党が左翼・進歩主義であり、国家による統制を嫌いあくまで自由に任せるリバータリアニズムが保守主義であると記しました。同じグローバリズムでもコーポラティズムを取る共和党の人達をネオ・コンサーバティブ(ネオコン)と呼ぶことはご存知だと思います。欧州においては民族主義・排外主義的な思想が右翼で、グローバリズム的な自由開放主義が左翼にあたるようです。

 

私は安倍政権が行っていることは上記の定義から言って「保守」ではないと結論づけています。表面的に愛国の衣をかぶってはいますが、欠陥だらけであることがほぼ解っているTPPを推進し、グローバリズムという過激な自由思想を推進しています。世の中に出回る紙幣を政権前の倍に増やしたにも関わらず、池田総理の時のように国民の所得倍増には繋がっておらず、刷った金は株式投資のファンドマネーに吸収されただけのようです。戦前の明治憲法を時の首相が勝手に解釈を変えて政治を行ったりしたら必ず暗殺されたことでしょう。安倍氏は閣議決定で勝手に解釈を変えて法を作ってしまいました。これを左翼革命政権と呼ばずして何と呼ぶでしょう。

 

初めに紹介した近衛文麿氏の言葉のように、右翼と呼ぼうが左翼と呼ぼうがそんな事はどうでも良い、日本を根本からめちゃくちゃにするような輩に政治を任せるような事をしてはならない。という事です。当時は行き着く先が共産主義だったかも知れませんが、現在の行き着く先は国家が消滅したグローバリズム社会(国の境を超えて強い者が弱者を支配する世界)になるのです。米国のコーポラティズムが支配する格差社会は米国内ではほぼ完成段階にきているように思います。一部草の根の右翼(ミリシア)の人達が抵抗を続けているようですが、大勢としては1%が99%を支配する世の中です。この米国流グローバリズムに抵抗するロシアと中国を第三次大戦でやっつけることで世界を米国流グローバリズムで統一しようという試み(陰謀論的にはニューワールドオーダーと呼ばれているようです)が現在の世界情勢のバックグラウンドと考えると一見種々複雑に見える状況も理解しやすいです。安倍氏の「愛国の衣」は中ロにしか向けられていない事は真の愛国者なら気がついていると思います。私は真の愛国保守として安倍政権には反対です。

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裁判員制度は見直される時期ではないか

2015-12-01 18:12:02 | 社会

最近オウム真理教の元信者が、1995年の都庁爆弾事件で爆弾の原料を運ぶなどして殺人未遂幇助などの罪に問われて、裁判員裁判の1審では懲役5年の有罪判決であったものが、東京高裁の控訴審で一審判決を破棄して無罪になりました。この判決については賛否両論別れていますが、控訴審判決を支持する意見に「裁判員裁判は心証に流される傾向にある(しろうとは冷静に法律判断が出来ない)」と決めてかかるものがあります。一方で何故17年も逃亡生活をしていたのか、という疑問については「オウム信者は初めに有罪ありきであり、裁判で正当な審理など受けられないと思ったから」ということのようです。つまり裁判員制度と関係なく、司法自体が心証に流されるからだと言われています。

この信者の裁判の場合、地下鉄サリン事件やVX殺人などで起訴する要件が満たされず、無理やり「都庁爆破事件の幇助」という罪で起訴したという「検察の無理筋」が感じられる事案であり、逮捕しても犯罪の立証がはじめからできないのであれば取り調べのみで釈放という選択肢もあったはずです。

 

本来、司法が世間の常識に合う合理的な判断を下せないから裁判員制度が始まったはずですが、いつの間にか裁判員制度では合理的な判断が下せないから控訴審で専門家が合理的な判断を下すのが良いという論理が出来てしまいました。既に裁判員制度を開始した理由が否定されているようです。

 

私はそろそろこの一般市民が犯罪者を裁くという「裁判員制度」の存続自体を見つめ直す時期に来ているのではないかと思います。欧米の諸外国では「陪審員制度」というのが歴史的にあります。日本の裁判員制度と諸外国の陪審員制度の大きな違いは「裁判員」が有罪無罪の判決と罪の重さ(量刑)まで決めるのに対して、陪審員は白黒の判定のみで量刑は検察と裁判官が後日専門家の判断として決定するという所です。つまり陪審員は白黒の判断をつけるだけであり、せいぜい故殺か謀殺か(殺意の有無)を判断することで量刑の度合いに間接的に関わる程度です。また大陪審が開かれるのは有罪無罪がはっきり判定しがたい場合に限られ、犯人が明らかであっても政治的な狙いを弁護側が突いて陪審員の共感が得られると無罪になる可能性がある場合などに限られます。 日本の裁判員制度は犯人が明らかな場合、量刑をどうするかが裁判員の判断に委ねられ、世界に類をみない過酷な判断を素人が短時日で行う責めを負うことになります。欧米の陪審員の考え方は民主主義に乗っ取り、有罪無罪の判断は国民が行うけれど、刑の重さは法律の専門家が決める、ということで人民裁判によるリンチ(私刑)のような事態を避けているのだろうと思います。

 

日本の場合、起訴された時点で刑事事件の場合ほぼ有罪は決まっているようなもので、裁判員は量刑の度合いを決めるために集められるような所がないでしょうか。外国の陪審員制度では、一般に全員一致の原則が定められていて有罪無罪の判定が別れて結論が出ない場合は「審理無効」となり「無罪」の扱いになります。量刑の程度を決めるとなると、白黒でなく、「どの程度の悪さか」の判定となり、それは法律と判例に従って専門家である司法(検察、弁護側、最終的には裁判官)が決める方が皆納得できるように思います。裁判員制度は国民が望んでいた訳でもなく、国家社会が必要性を痛感していた状態でもなく、また民主主義についての歴史的な背景(私刑の蔓延を防ぐとか)から苦心して作り出された制度でもありません。いずこかからの上意下達で国民が望んでもいないのに始まってしまった制度であり、殆どの国民はありがたみも必要性も感じていません。

 

裁判員制度によって、今までの硬直した検察による起訴や裁判制度を一新するような画期的な判決が次々と生まれるならばそれも良いかもしれません。また老老介護による疲弊した殺人とか、医療における安楽死に関する殺人などについての裁判は、国民の声として裁判員による判断は有益なものになってゆく可能性はあります。しかし現状のような、一般の人に死刑の判断をさせる裁判などに関わることを強制するのはやはり無理があるのではないかと私は思います。

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