Mizuno on Marketing

あるマーケティング研究者の思考と行動

大統合:企業も政党も?

2009-07-13 08:12:12 | Weblog
今朝の日経,キリンとサントリーが経営統合を検討中というスクープ。いやーびっくりした。ネスレのようなブランドポートフォリオ経営になるのだろうか・・・。マーケティング学者から経済学者まで,その成否について議論すると面白い。

今回の都議選,民主党が第1党になり,自公が過半数を割った。しかし,自公が合併すれば,都議会では民主党を上回る比較第1党になる。だが,誰もそういう話をしないのは,全くありそうにないからか?
 

経営情報学会@明治大学(駿河台)

2009-07-12 16:58:43 | Weblog
昨日と今日,明治大学リバティタワーで開かれた経営情報学会に参加。初日は,主に「知識創造」に関する発表を2件聴いた。いずれも,Nonaka and Takeuchi 1995 の SECI モデルを踏まえている(暗黙知と形式知の間のダイナミズムを Socialization, Externalization, Combination, Internalization の4段階で整理したもの)。初めて聞く話ではないが,改めてそこから出発しなくてはならないことを実感。

2日目は,サービス・イノベーション系の発表を聴く。かつての同僚,河合さんが堂々たる発表をしているのに感心した。独特の間合いで,いい味を出している。特別講演の Suica の話のあとに,柿原さんの「行為ストリーム」の話を聞くのは,ご本人がいうように,なかなかよいストリームであった。そこでの主張のように,リアルとウェブの双方での行動データがリンクされていくと,非常に面白いことになる。

柿原さんが引用する博報堂DYメディアパートナーズの調査によれば,モバイルも含めたネットへの接触時間は平均で1日90分程度だという(15~69歳男女,東京)。だから,ウェブ以外のリアルな空間でほとんどの生活が行われている。ただし,ウェブに接触している90分が,リアルの生活にどう埋め込まれているかが重要だ。ケータイの画面を見ていなくても電源は入っている。それを潜在的に接触していると見ることもできる。

フロアから,モバイルがますますリアルとウェブの境界をなくしている,という指摘があった。ただ,柿原さんがビジネスモデル革新の例としてあげた i-mode と iPod (iTunes) を見ても,独自の経済圏を作ったに留まっている気がする。それよりはモバイルSuica,あるいは Yahoo!JAPAN カード Suica のほうがリアル経済に食い込んでいる。ただ,このへんは,あっという間に状況が変化するに違いない。

こうした議論は,広告業界で注目されているクロスメディア論とも重なる。おそらく現場では,それを生活のストリームとどう関連づけるかが研究されているに違いない。一方,経営学者は,消費プロセスの背面にある生産・流通プロセスをより重視する。マーケティング研究者にとって,ユーザ視点に立つことが最も重要な使命だが,そこだけにとどまってビジネス戦略の議論になかなかたどり着かないという問題もある。

ぼくが経営情報学会で聴いた発表の多くが,先端的なビジネスの実践に関するケーススタディを中心にしていた。その意味でこの学会の役割の一つは,いま「現場」で何が起きようとしているかを研究者に教えることかもしれない。それは,医学会で新しい症例やその治療の事例が発表され,共有知識化されるのと似ている。マーケティング系の学会でも,そうした機会がもっとあってもよいのかもしれない。

ただ,そればかりだと最先端の現場にいる実務家にとっては学会から得られるものがない。経営情報学会にも多くの実務家が参加していたが,彼らは何を求めて参加したのだろう? 現場の問題をたちどころに解決してくれる手法だろうか? それとも自分たちの実践をうまく整理し,次の実践に向けた励ましを与える概念枠組みだろうか? 後者を期待するのがリーズナブルだが,前者の可能性を否定したくはない。

昨夜の懇親会はリバティタワー最上階のホールで開かれた。ドーム状の高い天井がアカデミックな雰囲気を醸し出している。博士号の授与式はここで行われるという。何人か顔見知りの人と話すが,やはりここは全体に経営情報システムの学会であり,そこでの中心的な議論や関心事に入れないものを感じたのも事実だ。つまり,どこか居場所がない感じがする。秋は広島で大会があるらしいが・・・。

漸進的にして急進的な革新としての iPhone

2009-07-10 11:04:09 | Weblog
iPhone ユーザが周囲でじわじわ増えている感じがする。あのカンちゃんまで持っていたのには驚いた(しかも初期のユーザとは・・・ 買うなり落として割ってしまったのは彼らしい)。つまり,iPhone の普及は,伝統的なS字型普及曲線にしたがっていると思われる。初期に爆発的に普及するというより,実際に友人にアプリを見せるというフェーストゥーフェースのクチコミによって,じわじわ浸透しているのだ。

イノベーションの教科書では,漸進的イノベーションと急進的イノベーションが区別される。iPhone は技術的には,前者に属する。以下の林信行氏のブログで議論されているように,GPS などいくつかの機能は,日本のケータイにすでに実装されていた。ただその機能のユーザインターフェースや,それを使ったアプリのクリエイティビティが圧倒的に違う。そのレベルでは,急進的イノベーションが実現している。

以前からあった機能を「特別」にするiPhoneマジック

iPhone の事例は,イノベーション論や製品開発論にとって非常に面白いはずだ。特に,App Store を通じて世界中に広がる「テール」からソフトを集める仕組みが注目される。このあたりをきちんと研究してくれる人が現れるとうれしい。自分でやれればよいが,これ以上課題を増やすことはできない。ゼミの学生で誰か,と思うものの,身銭を切って iPhone を買うことを要求するのは難しい。

「団塊の世代」国際比較

2009-07-08 19:30:43 | Weblog
堺屋太一氏の近著には以下の本がある。第1章を堺屋氏が書いたあと,2~4章は米国,中国,日本についての各論を,それぞれの国でまさにその世代を生きた執筆者が書いている。米国ではそれはベトナム戦争で傷つき,ラブ&ピースを信じたウッドストック世代であり,中国では文革によって地方に「下放」され,高等教育を受ける機会を失った「老三届」と呼ばれる世代を指す。日本は「全共闘」世代ということになるが,辛酸の舐め具合は米中の同世代の足元にも及ばない。

この本で初めて知ったのが,米中の「団塊の世代」が必ずしも人口のピークではないということだ。米国でも第二次大戦直後出生率は増加するが,それは 60年代の前半まで続く(ピークは 1957年頃だ!)。ベビーブーマー世代というのは,日本の団塊の世代のように,たかだか数年の幅に収まる存在ではないようだ。また,中国では,60年代により大きなベビーブームが来ており,そこが最も突出しているということだ。不勉強にも,ぼくはこれらのことを全く知らなかった。

日本 米国 中国 団塊の世代
堺屋 太一,浅川 港,ステファン・G・マーグル,葛 慧芬,林 暁光
出版文化社

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ともかく,日本では人口規模で異様に突出した世代が存在する。この世代は,確かにその前の世代に対して異質であるが,あとの世代に対してはどうだろう・・・。もちろん何らかの世代差はあるわけにせよ,表面的なライフスタイルを見る限り,前の世代との差に比べると,さほど大きな差があるとは思えない。彼らから始まる物質主義的な生活が,基本的にあとの世代にも継承されているのでは。団塊の世代は先頭集団であっても,ほかとは隔絶された特異な集団ではないように思う。

堺屋氏は第1章の最後を以下のように結んでいる:
団塊の世代よ、決して諦めるな! 君たちにはまだ未来がある。君たちが諦めずに働き、働こうとすることで、新しい文化がこの地球に育つのである。
「団塊の世代」ということばが与えられたことで,彼らは同世代としての自覚をより強く持つようになったはずだ。ある意味で,ことばが実体を作り出した例ともいえるだろう。したがって,このことばの作者からの励ましに応えて,団塊の世代がもう一花咲かせるかもしれない。そうすれば,次の世代の老後の,ロールモデルになるのではないかと。その点ではすでに,団塊の世代の女性が一歩先に進んでいるかもしれない。ただし,「おひとりさま」として・・・。

おひとりさまマガジン 2008年 12月号 [雑誌]

文藝春秋

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70年万博を生み出した男

2009-07-07 20:09:30 | Weblog
1970年代といえば,ぼくにとっては大阪万博のインパクトが大きく,太陽の塔が表紙になった本を見かけると,思わず手が伸びる。この本は作家の三田誠広が,同じ作家の(しかし「傾向」はかなり違うと思われる)堺屋太一の半生を描いたもの。この一見奇妙な組み合わせがどのような「縁」から生まれたかを解説するところから本書は始まる。

堺屋太一(本名:池口小太郎)は破格の官僚であった。旧・通産省に勤める20代の頃,大阪での万博の開催を発案し,私財を投じてまでその実現に奔走する。強大な国家権力を背景に業界に君臨し,統制色の濃い産業政策を推進した通産官僚は数多くいたであろうが,堺屋氏ほど起業家的で,ソフト志向であった官僚はそうはいないように思われる。

堺屋太一の青春と70年万博
三田誠広
出版文化社

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本書では,太陽の塔をデザインした岡本太郎と,その周囲のテーマパークを設計した丹下健三とが,衆目の面前でつかみ合いの喧嘩をしたというエピソードが紹介される。激しいパワーに満ちあふれていた時代なのだ。黒川紀章,磯崎新,コシノジュンコといったクリエイターたちも,この実験への参加を踏み台に世界に羽ばたいたと思われる。

堺屋太一の物語はそこで終わらない。70年代初頭,彼は自腹で集めたスタッフとともに,石油の輸入がストップすると日本の社会や経済がどうなるかについてシミュレーションを行なう(そこでは手法としてマルコフ過程を使ったという)。そうして得られた予測が,74年の石油ショックのあとで発表された『油断!』という小説の基礎となった。

『油断!』で描かれた予言は的中しなかったが,著者によれば,それはこの小説の警告が政策に反映されたためだ。そうならずに予測が的中してしまったのが,堺屋太一の代表作『団塊の世代』だ。堺屋の警告に政府が耳を貸さなかったせいだと著者はいうが,のちに堺屋太一は経済企画庁長官を務める。そのときは手遅れだったのだろうか・・・。

さて,傑出した先見力を何度も示してきた堺屋太一は,いまどのような未来図を思い描いているのだろう。あるいは,彼に代わる次世代の予言者がどこかに現れているのだろうか。一人ぽつんと取り残されたように立ち尽くす太陽の塔のように,堺屋太一のあとに堺屋太一は存在しないのかもしれない。

油断! (日経ビジネス人文庫)
堺屋 太一
日本経済新聞社

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団塊の世代 (文春文庫)
堺屋 太一
文藝春秋

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なぜいま連合赤軍か

2009-07-05 11:28:49 | Weblog
最近第三巻が出た『レッド』は,連合赤軍事件を描いたコミックだ。そういうと暴力に満ちた凄惨な光景が想像されるが,学生運動家たちの行動を描写するタッチは,どこか淡々としていて,まったく別の世界の出来事のようには思えない。ただ,そこで交わされている,いま耳にすることがない生硬なことばづかいだけが,違和感を与える。正義感にあふれ,かつ知的であるように見せながら,思考を縛り,行動を方向づける「ことば」が,それを発する人々を悲惨な結末に導いたと感じる。

レッド 3 (イブニングKCDX)
山本 直樹
講談社

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レッド 2 (イブニングKCDX)
山本 直樹
講談社

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レッド 1 (イブニングKCDX)
山本 直樹
講談社

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主要な人物が登場するたびに「逮捕まで」「逃亡するまで」「殺されるまで」あと何日かが記される。そのことが,この物語はすでに終わりが決まっている,カウントダウンであることを印象づける。第三巻の段階ではまだリンチ殺人や浅間山荘には至っていないが,読者はそうした結末を知っているので,それが「予定通り」起きるまでの経緯を,第三者として見守るだけである。それは避けられない必然であるとか,不幸な偶然の累積であるとかいった解釈を挟む余地さえない。

連合赤軍事件は,ほぼ同時期に進行し,80年代に一つの頂点を迎える「大衆消費文化」とは対極にあるように思える。しかし,それらを結びつける細い糸の存在を指摘するのが大塚英志氏だ。連合赤軍事件の主犯とされ,死刑を宣告された女性指導者(彼女は『レッド』の「主役」でもある)日記に,一見場違いなかわいらしいイラストを見つけたところから,70年代に現れた少女マンガやサブカルチャーとの「関係」を論じている。ぼくと同世代には,こうした鋭い論客もいる。

「彼女たち」の連合赤軍―サブカルチャーと戦後民主主義 (角川文庫)
大塚 英志
角川書店

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連合赤軍事件とともに,学生運動は急速に衰退した。いま『蟹工船』がブームになっているといっても,かつてのような左翼運動が盛り上がる気配は感じられない。さらに中国の文革やポルポトの大虐殺の影響もあって,急進的な革命運動が「地獄への道は善意で敷き詰められている」という命題にしたがうことが,誰の目にも明らかになってしまった。だから,連合赤軍事件は完全に終わってしまった物語なのだ。もはやそこから新たに学ぶことなど何もない,といっていいはずだ。

では,これまで美しい「エロティック」なマンガを描き続けてきた山本直樹氏が,なぜいま『レッド』を描き,それをぼくが読んで感じ入っているのか。いや,そもそもぼくは何を感じているのだろうか。ただ単に,自分が社会の出来事に対してもっと鋭敏であった時代を懐かしんでいるのだろうか。山本氏もまたぼくとほぼ同世代である。連合赤軍事件を自分より上の世代が起こした,自分とは無縁の出来事として眺めながらも,記憶に突き刺さる何かを感じているのか。何だろう?

涙するロボットとエージェントモデル

2009-07-01 15:19:58 | Weblog
浦沢直樹×手塚治虫『PLUTO』8巻が出た。今回で物語は完結する。話のなかで何度か「憎しみからは何も生まれない」ということばが現れる。それを語るのは,優しさや愛情という感情を持つに至ったロボットだ。ただその反面,憎しみという負の感情もある。憎しみを過剰に強化され,絶大な破壊力を持つロボットを倒すのは,殺される間際の憎しみの記憶を引き継いだロボット(アトム)なのだ。彼は最後に「憎しみがなくなる日は来ますか?」とお茶の水博士に問いかける。

PLUTO 8 豪華版―鉄腕アトム「地上最大のロボット」より (ビッグコミックススペシャル)
浦沢 直樹,手塚 治虫
小学館

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この物語の最大の黒幕は,巨大な人工知能である。人工知能が人間を支配しようとするという筋立ては,SF において数限りなくある。そこでは,知的能力から支配欲が「創発」されると考えられているのだろうか? そこには何か,必然性があるのだろうか・・・ あるいは,支配欲があるからこそ,知的能力は発達するのだろうか・・・ 欲望のない知性は,知性として完成度の低いものなのか・・・ 知能と感情の問題は,ロボットの可能性を考えるとき,避けて通れない。

昨夜,経営情報学会の社会シミュレーション研究会に出席。最初の発表で寺野先生が,100億のエージェントを持つ社会シミュレータを作ることを目指している,それはそう遠い未来の夢ではない,と宣言された。こういう大きなビジョンがあるから,個々の研究がブレずに一定方向へ進むのかもしれない。いつか人間と同じ感情や美的判断を持ち,それ以上の知的・身体的能力を持つロボット(鉄腕アトム)を作ることを目指す人々もそうなんだろう。
報告内容は歴史にエージェント・シミュレーションを適用した研究で,いわばテープを巻き戻すことだという。ではそれを再び再生したとき,元と同じ音楽が奏でられるだろうか? いつも同じ音楽が再生されるなら,統計学の最尤原理と同じことになる。違う音楽が現れるなら,別の「可能世界」を探り当てたのかもしれない。ただし,それはモデル化の失敗とどう違うのか。最近思い悩むことがある問題なのだが,なかなかいい答が見つからない。
次に高玉先生が,交渉のトレーニングを行なうエージェントの研究を報告。交渉において人間がみせる,必ずしも合理的ではない感情に支配されたふるまいを再現するエージェントがQ学習によって構成される。感情を明示的に仮定しているわけではないのに,あたかも感情を持つかのようにふるまう点が非常に興味深い。さらに,エージェントと(それとは知らずに)交渉した人間が同じスタイルを身につけることが実験で示された。ロボットと共生する時代の人間学ともいえる。

膨大な数のエージェントの相互作用を扱う方向もあれば,むしろエージェントの「内部」に入って,その行動を豊かにする方向もある。前者は経済物理学,後者は行動経済学と方向が近いかもしれない。ぼくはどちらかというと後者を志向する。最大の理由は,高性能コンピュータを使える環境にないからだが,それだけではなく,確信犯的に「低性能コンピューティングによる社会シミュレーション」を主張したい気持ちもある。そのほうがわかることもある,と。