Mizuno on Marketing

あるマーケティング研究者の思考と行動

Mac で作られた Microsoft の広告

2009-05-13 11:42:35 | Weblog
Wired Vision より

「マイクロソフトのMac批判広告」はMacで作成(画像)

正確にいうと,「マイクロソフトのMac批判広告」を作った広告制作会社に Mac しか見当たらなかった,という話なので,どこか秘密の作業部屋では Windows マシンが使われているのかもしれない。まあ,Windows を使っている広告クリエイターというのは珍しい存在のはずだから,あまり表には出せないということで(笑)。

このマイクロソフトの CM は,Windowsマシンの価格対性能比が高いことを訴求している。クルマが下駄代わりなら,BMW よりカローラがお得だといっているわけで,それはそれなりに一つの真実だろう。ぼく自身,自宅では Mac しか使わなくなったが,研究室では Win 使用比率が高い。それは単純に「現状維持バイアス」のせいである。
研究室で主使用の Dell の調子が最近イマイチだ。そろそろ転換点が近い・・・?

インフルエンザからクチコミへ

2009-05-12 23:15:11 | Weblog
CNET Japan で,東大情報学環の七丈直弘氏が

インフルエンザと口コミの関係

というコラムを寄稿されている。多くのクチコミモデルが感染モデルを参考にしているように,クチコミと感染症に類似点があるのはいうまでもない。興味深いのは,七丈氏がかつて関わった,バイオテロのシミュレーションモデルの話だ。そこでは国交省の「大都市交通センサス」を用いて,人と人の物理的な接触ネットワークが推定された。得られたネットワークは,高いスモールワルード性や回復性といった性質を示したという。

ということはつまり,感染を防ぐには,特定の「スプレッダー」を隔離すればよい,というわけではないようだ。クチコミの場合,逆に伝播を拡大することが課題となるが,どのような戦略が有効なのだろう?七丈氏は「交通センサス並みの高い精度のデータがあれば、その伝達において何が鍵になっているかを分析するのは可能」だと述べる。それは,具体的にどのようなデータなのだろうか?どうやって収集できるのか?

クチコミのマーケティング活用を科学的に行なおうとする限り,これは避けて通れない課題である。携帯電話やオンラインコミュニケーションに関しては,情報伝播ネットワークの性質を分析した研究がすでにある。リアルの対面コミュニケーションについても,社会心理学に研究の蓄積があるはず。それらを総合して,巨大な社会ネットワークについて「センサス」のごとく包括的なデータを構成する,なんてことは可能だろうか?
そのためのアイデアをいろいろ考えることは,けっこう楽しい。できそうな,できなさそうな・・・ いや,できるのでは・・・ まあ,実験してみなくてはわからない。いつかきっと・・・
ただ,クチコミ戦略への活用という目的にとっては,ネットワークの詳細が明らかになる必要は必ずしもない。戦略立案のために知っておくべきネットワークの性質が比較的少数であれば,それさえわかっていればよいからだ。そういう性質とは何かを識別することが第一の課題。さらに,そうした重要なネットワークの性質を,部分的で表層的な情報から,できる限り正確に推測する手法の開発が,第二の課題となる。

こうした問題意識にたって,これまで行なってきたささやかな試みと今後の展望を,月末に関西大学で開かれる商業学会全国大会で発表する。現時点ではたいしたことはいえないが,方向性だけは明確にしたプレゼンを行ない,少しでも関心を共有できる研究者と出会いたい。到底自分一人で解決できるような問題ではないからだ。あるいは,そんな問題はとっくに解決済みだ,ということが早めにわかるのでもよい。

ポスドク1人に5百万円

2009-05-11 16:30:11 | Weblog
毎日新聞5/6の記事:

ポスドク:1人採用で5百万円…文科省が企業に「持参金」

記事本文に「09年度補正予算案に5億円を計上」とあるので,「最大でも」100人分まで支給できるってことか・・・。もちろん,単なるバラマキにならないよう,企業に採用計画やキャリア構想を出させて審査するという。しかし,もしぼくが当のポスドクなら,500万円という補助金が刺激になって自分を採用する気になった企業をどう思うだろう・・・。

その企業にもともと博士を採用したいという考えはあっったが,過去に実績もないし,ぎりぎりのところで逡巡していた。しかし,この500万円が最後の一押しとなって採用を決意した,というならまだいい。そうではなく,博士の採用など考えたことはなかったが,500万円は喉から手が出るほどほしい・・・ というのであればちょっと困惑する。

文科省としては,このカネを「持ち逃げ」されないよう,いろいろ工夫するだろう(どこまでできるか別にして)。企業側としては,しかるべき人件費を一定期間支払うわけだから,500万円がどこまでインセンティブになるのか,ぜひ人事の専門家に聞いてみたい。もちろん何もしないよりはよいので,この制度に反対しているわけではない。

コンサルタントの城繁幸氏はこのニュースを受けて

勉強しすぎるとマイナス評価される国

とブログで評している。これはいい得て妙だと思う。こうした事態の背景には,大学の硬直的な人事制度もあるが,根本には企業の年功序列制があると城氏は指摘する(なぜなら,企業が博士などの高い学位を持つ者を積極的に採用するようになれば,大学から企業への流出が増えて,大学の人事もまた流動化するはずだから)。そしてこのエントリを
それにしても、専攻にもよるが、博士と言うのは育成にそれなりの税金がかかっている。金かけておいて採用していただくのにまた金一封上乗せするなんて年功序列は まったくもってくだらないシステムだ
と結んでいる。確かに企業が新卒採用にこだわらなくなり,中高年の労働市場が確立されてくれば,大学でも人事の流動化が進む可能性がある。ただし,企業でも大学でも抵抗は大きいはずだ。そのことは,既得権益を享受しているぼく自身,よく理解できる。と同時に,そこに安住すると研究者としての進歩は終わる,ということも深く自覚している。

学生たちをクリエイティブにする法

2009-05-09 23:38:04 | Weblog
2年生向けのゼミでフロリダの『クリエイティブ資本論』を輪読している。5年ほど前,前任校で原著 " The Rise of the Creative Class" を4年生や修士の学生たちと読んだ。そのとき,この本で披露されている地域のクリエイティブ指数を参考に修論を書いた学生は,大手通信企業に就職した。その論文を少し手直して投稿したいと彼にした約束を,ぼくはまだ果たしていない。

クリエイティブ資本論―新たな経済階級の台頭
リチャード・フロリダ
ダイヤモンド社

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The Rise of the Creative Class: And How It's Transforming Work, Leisure, Community and Everyday Life

Basic Books

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この本に,比較的高給で雇用が安定した工場労働者(いまや現実感ない?)と,雇用も俸給も不安定な美容師とどちらを職業として選びたいかという選択が出てくる。米国の若者の圧倒的多数は美容師のほうを選ぶと著者はいう。日本ではどうかと思いゼミの学生たちに聞いてみたところ,美容師派がやや多いものの,おおまかには半々に分かれる結果になった。これは意外だった。

このゼミは,起業を焦点の1つとしたコースに位置づけられている。だから,ここには起業や独立に関心がある学生が,平均よりは多く集まっているはずなのだが,それでも「日本では米国ほどベンチャーは成功しない」「日本は何だかんだいって大企業中心の国だ」という意見が少なくない。一般学生に聞けば,そうした意見はもっと多いだろう。日本のどの大学でもそうなのだろうか?

フロリダのクリエイティブ・クラス論はベンチャー至上主義ではなく,大企業の役割を認めている。重要視しているのは,働き方の質である。だから,そういうマインドがあれば,どういう組織に就職しようとクリエイティブな仕事をすることは十分あり得る。しかし,「安定している」ことが主な理由で大企業に就職した者が,そこでクリエイティビティを発揮するとは期待できそうにない。

昨夜,前任校の元同僚たちと「みますや」で飲む。百年以上続いてきた伝説の居酒屋では,真っ白なYシャツにネクタイを締めた企業戦士たちが口角泡を飛ばして「議論」している(ずっと昔の自分を想い出す・・・)。そこに混じってわれわれも,共通の思い出話や,それぞれの現在の勤務先の話で杯を重ねた。つい愚痴をいったり,うらやましいと思ったり,それは大変だと同情したり・・・。

そのなかで,非常にうらやましいと思ったのが,放っておくと学生たちがゼミを6時間も続けてしまう,という話だ。5分過ぎただけで文句が出る,どこかのゼミとはえらい違いだ。長時間労働はクリエイティブ・クラスの特徴だ!と叫びたいところだが,長時間働けばクリエイティブってわけじゃないでしょ,と切り返されるかもしれない(そういう学生がいたら,むしろ誉めたいぐらいだ)。

結局,ゼミで何をやるかについて,ぼくにクリエイティビティが足りないのだろう。学生たちも,これは面白いと思うことなら,平気で何時間も取り組むかもしれない。うーん,どうすればいいのか・・・ 

消費者が管理する広告

2009-05-08 13:53:51 | Weblog
NET Marketing Online に,インタラクティブ・マーケティングのイベント「ad:tech」の様子が紹介されている:

ad:tech San Francisco 2009 Review

そこで語られている次世代の広告のあり方を1つのキーワードに集約するなら,消費者が管理する広告(Consumer-Managed Advertising)といったことになるだろうか。その着想を得たのが,YouTube に続く動画共有サイト Hulu の創業者が語った「Hulu で広告体験をユーザー自身が管理できるようにしている。また、広告によっては好きか嫌いかをユーザーが直接投票できるような仕組みにもしている」ということばである。こうした仕組みもあって,Hulu 上の広告の認知効果はテレビ広告をはるかに上回るという。

これまでもオプトイン広告のような,消費者が広告に対してパーミションを与えるマーケティングは存在した。しかし,「広告体験の管理」ということばは,それ以上の積極的な関わりを想像させる。つまり,広告の対象となる製品・サービスだけでなく,広告と接触する時間や空間から表現のトーン&マナーまで,あらゆる側面を消費者が管理するというイメージだ。もちろん,そこまで消費者は広告に関心があるのか,という疑問が起きても不思議ではない。その答えを出すためは,実際に試してみるしかないだろう。

消費者が広告接触を自己管理することは,DVR による「飛ばし視聴」がそうであるし,ずっと昔からある「CM はトイレタイム」という行動にもすでに現れていた。だが,それは広告の回避であって,広告の選択ではない。行動ターゲティング等々は「選択された」広告接触だが,消費者自らが「選択する」接触ではない。広告というものは,そもそも押しつけるものだと定義されるならば,消費者が広告を選択するなどというのは矛盾でしかない。だが,広告をそう定義するのは,想像力の貧困でしかない,かもしれない。

消費者による管理,という側面が極大化されれば,企業が顧客の「コミュニティ」を積極的に受け入れるという発想が出てくる。ad:tech では,Wikipedia の創設者ジェームズ・ウェールズ氏が講演し,企業のウェブサイト上に Wiki を用いて消費者作成メディア(CGM)を構築することを提案している。その先には,消費者参加型のブランディングというビジョンが見えてくるが,そもそもブランドが物語りだとすると,それは集団によって生み出されるものなのかどうか(いや,民話や伝説がそうだ,ということもできる)。

ad:tech でベータ版を発表した Intelevision.com は「テレビ番組の関連情報やその番組の視聴者をネット上で一覧できるパーソナルページを用意するサイト」である。その背景には,米国のテレビ視聴者の約25%が、テレビを見ながらノートPCなどでネットに接続しているという背景がある。同じことは日本でもあるに違いない。デジタル化されるからといって何でも TV 受像機に統合するのではなく,TV というシェアメディアとネットというパーソナルメディアを並立させ,同期させるほうが現実的で自然である。

この場合,広告は TV と PC にそれぞれ出稿できる。前者は共同視聴を前提に,後者は個人視聴を前提に管理される。大声でみんなに話しかける広告と,特定個人に向けたひそひそ声の広告のアンサンブル。後者のひそひそ声は,消費者にとって選択可能な広告だ(現実のひそひそ声は選択できないことが多いが…)。同じ時空間でアクセスされている複数のメディアを同期させることは,QR コードでポスターとケータイを同期させるなどといった形で,実際にすでに行われていることでもある。

間違いなく広告は進化している。複雑化の一途をたどっている。しかしながら,それがビジネスの一環である限り,効果測定という古くて新しい問題を免れることはできない。広告が消費者によって管理されるものになれば,効果測定にもパラダイム転換が必要になる。それはより複雑に,困難になるのか?そうではないかもしれない。消費者が広告を選択することで,効率の悪い広告が存在する余地がなくなるかもしれない。そうなると,これは win-win だ。果たしてどうなのか,考える価値がある。

iPhone のロングテール・ビジネス

2009-05-06 21:30:09 | Weblog
iPhone をゲーム機として見た場合,ニンテンドーDSも安閑としていられない世界規模の市場が見えてくるという,日経ビジネスONLINEの記事:

“ゲーム機”「iPhone」が市場を席巻する日(前編)
“ゲーム機”「iPhone」が市場を席巻する日(後編)

世界レベルで見るとニンテンドーDSは約1億台,ソニーの PSP が約5,000台普及している。これに対して,iPhone と iPodTouch を合わせると 3,700万台,DS はともかく,PSP には迫る勢いといえる。iPhone と iPodTouch 向けのソフトはすでに2.5万種類あり,うち1.58万種類がゲームである。つまり,iPhone(以下 iPodTouch は省略)はゲーム機だと考えてもおかしくはないのだ。

iPhone 向けゲームソフトは種類が多いといっても,有象無象のソフトであふれており,いわゆる「クソゲー」も少なくないとこの記事の著者はいう。一方,DS向けのゲームソフトは約1,300種類。多額の開発コストをかけた間違いのない製品で,著者にいわせれば,こちらは「メジャーリーグ」,iPhone 向けソフトは「草野球」である。「ふつうに」戦えば,メジャーリーグが負けるはずがない。

ところが,草野球選手も数が多くなると,たまにヒットが生まれることがある。開発コストは少額だし,AppStore の「中抜き」流通網が世界中をカバーしているため,それなりの利益が生まれる。それが累積されれば胴元のアップルは儲かるし,草の根のクリエイターたちにも利益が還元される。そうしたサイクルが確立できれば,ロングテールのビジネスモデルの成功例になるだろう。

ロングテール―「売れない商品」を宝の山に変える新戦略
クリス アンダーソン
早川書房

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以前ぼくは,ゲーム産業を専門とする研究者から,ゲームにはロングテール・モデルは成り立たないと聞いたことがある。ゲームソフトの開発には多額の費用がかかり,需要面ではバンドワゴン効果が大きく,発売以前に評判が決定し,発売後すぐに価値が低落する(ライフサイクルが非常に短い)と説明された記憶がある。iPhone 向けゲームはそうした「常識」を崩せるだろうか。

DS 向けゲームと iPhone 向けゲームでは,量的・質的に全く違う市場かもしれない。アップルとしては任天堂からわずかだけシェアを奪えばよいし,ノキアの足元に及ばないスマートフォン市場でも同じことがいえる。小さなシェアでも世界的に統合すれば規模の経済性が生まれるし,音楽,映像,ゲーム等のコンテンツをすべて包含して範囲の経済性を生むことが可能かもしれない。

グローバルな統合によって規模の経済性を得るという議論は,グローバルマーケティングの古くて新しい問題である。特定の国や地域では少数派でも,嗜好が同質の人々が世界中に遍在しているなら,それらを統合して世界レベルでは大きなセグメントを相手にできる。この,いわゆるグローバル・セグメンテーションがインターネットによって,より容易になっているのは確かだろう。

一方,音楽,映像,ゲームの間の範囲の経済性については,かなり難しいという見解が多いように思われる。これもまた,アップルが挑んでいる「常識」といえるだろう。 iTunes Store というグローバルなネット流通網に統合することで,規模の経済性にとどまらない,顧客にとっての価値としてのコンテンツ間シナジーを生み出せるかどうか。ぼく自身もよくわからない点だ。

上の記事の内容でもう一つ興味深かったのは,iPhone 向けゲームソフトの価格戦略だ。無料ソフトと有料ソフトが混在するほか,機能を限定した無料版を提供し,その後有料版へアップグレードさせる戦略をとるソフトもある。この点はいまや非常に一般的な問題になっており,ロングテール論の提唱者アンダーソンが最近「無料経済」について議論しているようだ。
アンダーソンの著述はウェブで公開されているが(歌田明弘氏のブログで紹介されている),有料ソフトとしての本は「近日発売」である。原典を読んでいないので断定的なことはいえないが,ロングテールの場合と同様,センセーショナルな部分を無視して読めばそれなりに啓発されると思う。revenue management 等の価格モデルと組み合わせてはどうだろう。

Free: The Future of a Radical Price

Random House Books

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フィアットはどこへ?

2009-05-04 13:23:21 | Weblog
経営破綻したクライスラーの救済に乗り出したフィアット。どんな会社なのか,実はあまりよく知らなかったのだが,このコラムが勉強になった:

フィアットはアメリカ嫌い?

フィアットがイタリアという国家と深く結びついた会社であることは何となく知っていた。20世紀初頭から米国の自動車企業は何度もイタリア進出を図っていたが,その都度フィアットあるいはその意をくんだイタリア政府に阻止されてきたという。1969年はフェラーリ,1986年にはアルファ・ロメオがフォードに買収されそうになったが,いずれも結局フィアットの傘下に入った。

2000年になるとフィアットは GM と提携する。そのとき,フィアットが乗用車部門を GM へ売却する可能性もあったという。それは結局頓挫するが,フィアットの CEO マルキオンネが乗用車ビジネスに対してどれだけ情熱を持っているのか,疑問を感じさせる出来事だ。本コラムの執筆者,大矢アキオ氏は,マルキオンネのグローバルな視野を評価しつつも,以下のように書く。
・・・マルキオンネは世界自動車ビジネスの中でも屈指の財務マンだ。筆者の頭の中は、「もしやマルキオンネは、フィアットの乗用車部門をクライスラーと一まとめにし、最終的にどこかのメーカーに売却するのでは?」といった究極の仮説さえ浮かんでくる。
一方で,フィアットにはオペルを買収するという動きもある。ということは,オペルとクライスラーも含めて,企業の売買ゲームが行なわれるのだろうか? それとも,世界の最高水準にあるブランド・マネジメントのスキルを駆使して,新たなイタ車黄金時代を築くのか?いずれにしろ一筋縄ではいかないのがイタリアという国だ。企業もまたファンタジスタであってほしい。

「学者」人生の内幕

2009-05-02 15:52:44 | Weblog
ぼくは「学者」なのだろうか?これまで自分のことを「大学教員」とか「研究者」とか呼んだことはあるが,「学者」と呼んだことはない。別に遠慮しているのでではなく,自分がイメージする学者という存在と,自分が重ならないのだ。では学者って何だろう? 

『容疑者Xの献身』の湯川は「天才物理学者」,石神は「天才数学者」,つまり二人とも「学者」だ。つまり学者とは「何とか学者」と名乗ることができる人なのだ。で,マーケティング「学」を担うという意識がないから,自分が学者だと感じられない・・・?

「学者」ということばを聞くと,ハーバード・サイモンの自伝『学者人生のモデル』を思い出す。原題は Models of My Life であり,これを「学者人生」としたのは,訳者である安西祐一郎・慶應義塾長である。確かにサイモンは,学者の鑑といってよい碩学だ。

学者人生のモデル
ハーバート・A・サイモン
岩波書店

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以前にこの本を読んだとき驚いたのは,ノーベル経済学賞を受賞し,栄光に満ちた「学者人生」を送ったはずのサイモンが,同僚であったサイアートが学問的に,そして学内政治的に「対立する」立場に移行していったことを,手厳しく非難していることだ。

「学問」とは真理の探究だなどとといえば美しく聞こえるが,実は足元で激しい闘争がある。それは,相手の研究内容を批判するだけでは終わらないことが多々ある。優れた学者とは,こうした戦いに勝ち抜いてきた人々なのである(逆は必ずしも真ではない)。

以下の本は,著者とともに日本の金融工学の研究を牽引してきた,夭逝した天才研究者へのオマージュが中心になっている。しかしそれだけで終わらず,その周囲で観察された、主に東京工業大学を舞台とした人間模様が,ほぼ実名で赤裸々に記されている。

すべて僕に任せてください―東工大モーレツ天才助教授の悲劇
今野 浩
新潮社

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東工大にかつて在職した,超有名な人文・社会科学の「大学者」たちのエピソードは部外者にとっても興味深い。ただそれ以外にも,ぼくの前の職場の同僚が実名で登場するし,数学の能力が優れた G という,もしかしたら彼のことかなと思わせる人物も登場する。

この本は,優れた理工系の研究者がいかに猛烈に働くかを描くことがもう一つの主題になっている。だが,実はその点では人文系も負けていないと教えてくれたのが,次の本だ。ここでいう東大駒場学派とは,著者が院生として属した比較文化の研究室を指す。

東大駒場学派物語
小谷野 敦
新書館

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こちらは,教員や出身者に有名人が多く,そもそも比較文化研究が文学研究や歴史学,哲学などとどういう関係にあるかすらよくわかっていないぼくですら名前を知っている人物が続々登場する。ただし,さすがに顔が思い浮かぶ人はほとんどいない。

それでも,この本に描かれた教員や院生たちの生態を,面白く読むことができる。(人文系の)大学教員たちが「変」なのは『文学部唯野教授』以来常識といえなくもないが,研究成果がかくも精力的に出版されていることは,ぼくにとって意外であった。

この大学院では,少なくとも最近のある時期までは,修士論文(!)のほとんどが,書籍として出版されていたという。そして,出身者たちの多くが,何らかの出版賞を一度は受賞しているのだ。この生産性の高さは,文系のなかでも傑出しているに違いない。

理工系であれ文系であれ,大学には世間から見ると常識外れの行動が横行する一方,世俗的な権力争いが存在する。だがそれだけでなく,活発な知的生産が行われていることも事実なのだ。最後の部分だけ極大化することができれば,いいわけだが・・・。

いうまでもなく,これらの本で,自分のことを実名で書かれてしまった人は,あまり愉快な気分ではないだろう。ぼくの周囲でこのような本が書かれたとしたら・・・ そう考えると,無名な世界の気楽さをついありがたく思ったりする。