先週の土日に関西学院大学で開かれた行動経済学会。諸事情で2日目のみの参加となった。つまり,本大会の目玉であるダン・アリエリーの招待講演を聴くことはできなかった。しかし,2日目の午後に組まれた特別セッションはそれぞれ非常に聴き応えがあった。
最初に聴講したのはジョン・キム氏(慶應義塾大学)の「逆パノプティコン社会の到来」,及川直彦氏(電通コンサルティング)の「インターネットがもたらすマーケティングモデルの質的な変化」で,いずれも非・経済学者からのインターネット論だ。聴衆の経済学者はどう感じたのだろう・・・。
及川さんの話で特に面白かったのは,最後に話されたご自分の研究である。消費者がどんな企業の商品開発に参加しやすいかを調査したところ,企業への意見の言いやすさ,企業の対話への真摯さが作用していることがわかったという。つまり格好良いブランドでなくても顧客共創は可能だと。
(ちょうど同じ時間にあった増川純一さん,水野貴之さんによる「行動経済学と経済物理学の接点」を聴講できなかったのは残念・・・)
最後に行われたパネルディスカッション「原発事故と行動経済学」には,マクロ経済学の齊藤誠氏(一橋大学)と科学技術社会論の小林 傳司(ただし)氏(大阪大学)が登壇された。齊藤先生は10月に『原発危機の経済学』という本を上梓された。経済学の立場から原発技術を評価されている。
今回の報告では,一定程度放射線汚染したミルクをいくら割り引くなら購入するかという実験の結果が紹介された。N=7,000という大規模なウェブ調査である。その結果は,乳幼児の母親はいくら割り引いても買わないが,喫煙・飲酒の習慣がある人々は一定の割引に応じるというもの。
つまり,放射線汚染に対するリスク認知には個人差がある。齊藤氏は政府はそうした個人差を考慮した対策を取るほうが望ましいと主張する。基準値を誰に対しても厳しく設定することによる社会的損失を恐れるからである(社会が抱える他の様々なリスク因子にも資源を向けるべきなので)。
子孫にリスクが及ぶ場合を除き,自分でリスクを引き受ける「選択の自由」を認めるべきかどうか。次に話された小林氏は,むしろパターリズムの立場に立つ。ぼくが理解した限りでは,消費者,あるいは市民が意思決定に足る十分な知識と責任を持ち得ないと考えておられるようだ。
小林先生は元々理系であったが科学哲学を専攻し,いまは社会と科学技術のインターフェースを研究されている。科学に問うことはできるが科学には答えることができず,社会として意思決定しなければならない問題群。そこを社会で討議・熟議して解を求めようする立場だと理解した。
そういう立場を「トランス・サイエンス」というそうだ。それは華々しい科学の成果を素人に分かりやすく伝える(啓蒙する)という意味での科学コミュニケーションとは異なる。詳細は,WEB RONZA の連載記事に加えて,以下のご著書を読んで勉強したい。
文化系の人間ほど科学の無謬性に囚われているという説もある。だからこそトランス・サイエンスのような試みに目を向けるべきだろう。一方,議論が感情的になりがちな問題に「ただのランチはない」という冷徹な経済学的思考を適用する齊藤先生の取り組みにも敬意を表したい。
最初に聴講したのはジョン・キム氏(慶應義塾大学)の「逆パノプティコン社会の到来」,及川直彦氏(電通コンサルティング)の「インターネットがもたらすマーケティングモデルの質的な変化」で,いずれも非・経済学者からのインターネット論だ。聴衆の経済学者はどう感じたのだろう・・・。
及川さんの話で特に面白かったのは,最後に話されたご自分の研究である。消費者がどんな企業の商品開発に参加しやすいかを調査したところ,企業への意見の言いやすさ,企業の対話への真摯さが作用していることがわかったという。つまり格好良いブランドでなくても顧客共創は可能だと。
(ちょうど同じ時間にあった増川純一さん,水野貴之さんによる「行動経済学と経済物理学の接点」を聴講できなかったのは残念・・・)
最後に行われたパネルディスカッション「原発事故と行動経済学」には,マクロ経済学の齊藤誠氏(一橋大学)と科学技術社会論の小林 傳司(ただし)氏(大阪大学)が登壇された。齊藤先生は10月に『原発危機の経済学』という本を上梓された。経済学の立場から原発技術を評価されている。
![]() | 原発危機の経済学 |
齊藤 誠 | |
日本評論社 |
今回の報告では,一定程度放射線汚染したミルクをいくら割り引くなら購入するかという実験の結果が紹介された。N=7,000という大規模なウェブ調査である。その結果は,乳幼児の母親はいくら割り引いても買わないが,喫煙・飲酒の習慣がある人々は一定の割引に応じるというもの。
つまり,放射線汚染に対するリスク認知には個人差がある。齊藤氏は政府はそうした個人差を考慮した対策を取るほうが望ましいと主張する。基準値を誰に対しても厳しく設定することによる社会的損失を恐れるからである(社会が抱える他の様々なリスク因子にも資源を向けるべきなので)。
子孫にリスクが及ぶ場合を除き,自分でリスクを引き受ける「選択の自由」を認めるべきかどうか。次に話された小林氏は,むしろパターリズムの立場に立つ。ぼくが理解した限りでは,消費者,あるいは市民が意思決定に足る十分な知識と責任を持ち得ないと考えておられるようだ。
小林先生は元々理系であったが科学哲学を専攻し,いまは社会と科学技術のインターフェースを研究されている。科学に問うことはできるが科学には答えることができず,社会として意思決定しなければならない問題群。そこを社会で討議・熟議して解を求めようする立場だと理解した。
そういう立場を「トランス・サイエンス」というそうだ。それは華々しい科学の成果を素人に分かりやすく伝える(啓蒙する)という意味での科学コミュニケーションとは異なる。詳細は,WEB RONZA の連載記事に加えて,以下のご著書を読んで勉強したい。
![]() | トランス・サイエンスの時代 ―科学技術と社会をつなぐ (NTT出版ライブラリーレゾナント) |
小林 傳司 | |
NTT出版 |
文化系の人間ほど科学の無謬性に囚われているという説もある。だからこそトランス・サイエンスのような試みに目を向けるべきだろう。一方,議論が感情的になりがちな問題に「ただのランチはない」という冷徹な経済学的思考を適用する齊藤先生の取り組みにも敬意を表したい。