西山光照寺あの戦国大名朝倉氏の城下町、一乗谷朝倉氏遺跡のすぐ入り口辺りに有った天台宗真盛派の寺院、織田信長の朝倉攻めにより城下町もろともに灰燼と化し、昭和後期の発掘調査まで約400年間は地中に埋もれていたらしい??。
北陸自動車の福井ICから九頭竜川支流の足羽川に沿って約5km程遡った足羽川西岸、山裾の野道を奥めた田園真っ只中に西山光照寺跡が在り・・・・
その空池を取り巻くように建てられた覆屋に大型石仏約40体が整備保存されている。
因みに西山光照寺の所属した天台宗真盛派は真盛上人によって一派を成し,石仏を多く残したことでも知られている。
入り口から入って一番手前の覆屋には三体の大石仏・・・・・
この地の石仏は青味が独特な笏谷石(しゃくだにいし)を用いていて一種独得な味の有る石仏です。
向かって右端にはすらっとした長身、この地で最も古い在銘石仏の地蔵菩薩立像
室町時代後期 の享禄三年(1530)、舟形後背一杯に飛雲を刻み月輪に阿弥陀種子のキリークを持つ。
高さ約240cmと見事に大きく、厚肉彫りで刻み出している。
奈良方面の室町期石仏は形式化が進み貧弱に成り勝ちなのに、この地の石仏は実に写実的で独得な文化を感じないでもない。
左には如意輪観音・・・・・同じく室町期の造立。
同じ並びには大きな覆屋が有り、比較的損傷の少ない石仏が収められて居る。
一列にこれだけの石仏が並び建つと実に壮観・・・・
向かって左端には定印の阿弥陀坐像石仏・・・室町後期
四体目には善光寺型阿弥陀三尊石仏、脇侍に観音・勢至・・・全ての尊顔がそぎ落とされている。
七体目の千手観音などは顔がすっぱり落とされていて余りにも痛々しい
ほぼ中程に有る観音菩薩立像・・・・天文年号の銘記有り。
慈悲深く引き締まった顔つきには惹かれるものが有り・・何か言いたげにも見える。
右端には実に堂々とした不動明王立像、傍らには阿弥陀立像石仏。
入り口対面の覆屋と南面の覆屋。
入り口対面の覆屋の中央には阿弥陀と虚空蔵の二体・・・両脇には山と積まれた無残な石造物の残欠。
放射状後背を持つ阿弥陀如来石仏は来迎印を結ぶ。
南面側石仏群
此の覆屋には傷みの激しい物を含めて14体の石仏さん達。
どの石仏も表情豊かで・・・・
僕の室町期造立の概念をぶち壊してくれそう。
特に左端から4体目、首のところで断裂補修の後も痛々しい阿弥陀立像・・・。
此の慈悲深い仏頭はまるで血が通っているのかのようで今にも動き出しそうなほど・・・・。
こちら右から三体目の阿弥陀如来。
その脇にも阿弥陀立像
何処か塑像を思わせる様な滑らかさ・・・
右端には破壊痕も痛々しい阿弥陀石仏
この地で最大の石仏は西面の覆屋に制多迦童子と共に立つ不動明王明王立像。
室町時代後期の天文二年(1533)の記銘を持つ総高2.6m
見事な石仏には違いないけど右目と鼻先に傷みがあり、少し躍動感には欠ける。
一方こちらは躍動感溢れ・・・・
眼光鋭く不動明王を見上げる制多迦童子
此の西山光照寺跡石仏を取り上げる時、誰もが一番に取り上げるのが納得出来る像容です。
有るべきはずの矜羯羅童子は何処へ行ったのやら・・・・最早石屑となってしまっているのか??
三体一緒に立ち並ぶ姿を見てみたかった・・・。
背後には阿弥陀三尊の種子石仏が建っている。
これだけの石仏が一同に会すると壮観なのだがちょっと食い過ぎ・・・、どれがどれやら状態になってしまうことは否めない。
また機会が有ったら何度も訪れたい石仏さん達です。
何ページかに分けようかと思ったのですが敢えて1ページにしました・・・・・、お疲れさん。
撮影2008.4.27
ずっと以前に「制多迦童子」を調べているときにこのサイトを拝見しておりました。
25年ほど前に亡くなった父が一乗谷遺跡で制多迦童子の拓本を取っておりました。今回私のブログに拓本の写真と現物の写真を載せたいのですが、写真を使わせて頂けないでしょうか?
有料フォトとありますが制多迦童子の3枚が欲しいのです。如何ほどか見当がつかないのでお教え下さい
r2okarain@gmail.com
あの三重県の一色町出身真盛上人の開いた宗派だそうで一色町辺りにも石仏が有りそうですね。
あの近くの寺の山門にでっかい地蔵と不動の石仏がありましたけどね・・・・
精細な彫りで、それぞれの表情が素晴しいです。
笏谷石を調べたら、火山礫凝灰岩と言うことで
やはり、彫りやすいが風化されやすい様ですね。
400年間も地中に埋まっていた為比較的良く残ったんでしょうか。