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愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

玉野薬師堂の石造品と玉野の石棺仏

2011年01月03日 | 石仏:兵庫

播磨地域では石仏と言えば石棺仏しか無いのか??と思うほど何処に行ってもあの四角い石棺の蓋石や側石を使った石仏が出迎えてくれる。

中国道加西インターからまっすぐ南に暫く走ると最初の大きな交叉点が玉野、そのまま道成りに県道716号線が小山の切通しに入る手前を左折すると玉野集落へと入って行く。

直ぐに左手に石造物が一見乱雑に置かれている小さなお堂が見える、それが玉野の薬師堂。

田舎に行くとよく見る在所辻のお堂と言う風情、傍らに木立が有ってその先ず目に付くのが根元に無造作に打ち捨てられたような石仏さんたち。

この中には十字架を背負ったキリシタン地蔵も有ると言うが確認は出来なかった。

素人彫りのように稚拙に見える地蔵石仏・・・・、この辺りでは良く似た石仏を見かけるが??どこかほのぼのとした温みを感じる。

横に廻って見ると樫の大木が今にも飲み込んでしまいそうな石棺種子仏。

この日は陽射しが強くハレーションを起こしてろくな写真にはならなかったけど・・・・。

右側はかろうじて「キリーク」の文字が見える・・・・、元は一つであったものが割れて今の形になったものだとか??

阿弥陀三尊石棺種子仏で建治3年(1277)の銘が有るという。

薬師堂から南に玉野の集落を越え豊倉町に通じる道端の茂みの中にも石棺仏。

此処はひどくわかりにくいため地元の人に聞いたほうが良い。

全く人通りの無い田舎道、雑木林に隠れるように有る石棺仏はなんともいえぬ風情がある。

前面は広く開けて青田を渡る風が爽やかに吹き抜ける。

家形石棺蓋石の内側に定印の阿弥陀坐像を刻む。

玉野石仏と言われる石棺仏で高さ180cm、幅103cm、厚さ27cm

朱の彩色が一部に残っているように見えるがこれは後世のものらしい

像高57cm、羽根状光背を持つ。

彫りは粗く見えるが鎌倉期後期の堂々とした阿弥陀さんです。

豊倉石棺仏と呼ばれることも有るそうですが標柱の通り玉野石棺仏としました。

撮影2008.9.13


不明の石棺仏

2010年12月31日 | 石仏:兵庫

加西市池上町の春岡寺から同じく市村町の「腰折れ地蔵」へ車で移動中に見つけた石棺仏。

かなり時間がたってしまって記憶が飛んでしまっているが・・・・。

道路進行方向右手、田園風景の続く道路わきの空き地(多分廃寺跡か?)のケヤキだと思われる根元に二体の石仏と諸々の石造物の残欠。

野晒しの仏としての景観が素晴らしく思わず車を停めてしまった。

彫りの稚拙な定印の阿弥陀如来坐像、この風情がたまらなく良い・・・・・。

傍らになんとなく地蔵だと思われる石仏・・・、加西では何処に行っても石棺仏に出会えるような気がする。

何の表示板も無く記憶も定かでない・・・・、永らく放っておいた僕が馬鹿なんだけど、この石仏さんを知ってる人があれば教えて下さい。

撮影2007.12.8


加西市 春岡寺(しゅんこうじ)石棺仏

2010年12月31日 | 石仏:兵庫

中国自動車道加西ICの北東方面に位置する加西市池上町の田圃の中に小さな薬師池を囲み込む様に緑濃い森が広がり、池を前面にして小さな本堂の春岡寺がひっそりと建って居る。

僅かな境内の片隅に粗末な覆い屋根を架け、その下に石棺仏が祀られている。

腰の辺りで大きく二つに折れているが高さ2m、幅98cmの大きな家型石棺蓋石の内面に阿弥陀坐像を浮き彫りで刻んでいる。

脇から覗いて見ると大きな縄掛け突起・・・横顔はそこはかと微笑んでいるよう・・

腰で大きく割れているところから腰折れ地蔵とも呼ばれ信仰篤いとか???

大きい石のわりには像高約60cmと小さいのは石棺の縁枠が立派過ぎるほど太いからかな??

撮影2010.12.8


山伏峠石棺仏、(阿弥陀.地蔵、他)

2010年06月26日 | 石仏:兵庫

播磨の数ある石棺仏の中でも最大だと云われるている阿弥陀座像 の石棺仏と、これも播磨の石棺仏では唯一、長持ち式石棺を使った地蔵半跏像が共に有るこの山伏峠は石仏ファンならずとも一度は訪れて見たいのではないだろうか??

中国道加西ICを出てそのま南進、玉野の信号をクリアー、道なりに進むと直ぐに小さなトンネルを抜け左手にUターンするような山伏峠への進入路があるのが見えてそれと解る看板も立っている。

道路はアスファルト舗装もされ車も充分通れそうだが車止めが有って進入禁止に成っているが幸いにも付近は空き地だらけで駐車に困る事はない。

ダラダラ登りの散歩道程度の山道を歩く事10分ばかし道路わきに直ぐに石棺だとわかる大きな石が見え、少し奥にも縄掛け突起の目立つ石棺仏、並んでもう一つの石仏も見える。

付近は良く整備されているものの観光地化はしていないので落ち着いていて付近の景観と共に楽しめる。

道路わきの石棺仏は家型石棺の蓋石の内側を利用、、蓮華座上に像高 60cm程の定印阿弥陀座像を薄肉彫していて、「建武四年(1337) 四月十日」の銘文がある。

阿弥陀石仏もさる事ながら、高さ約2.2m、幅1.3m、厚さ40cmの巨大な家型石棺の蓋石で、裏に廻れば石棺そのもの、大きな縄掛けが見事です。

上段 左奥の石棺仏は、高さ2.1m、幅1m、厚さ20cmの長持型石棺蓋石の内面に像高55cm左足を垂らした地蔵半跏像を中央に左右に三体ずつの小地蔵を薄肉彫にしていて、中央の地蔵の顔は幼く穏やかで今でもはっきり思い出せるほどです。

 丸い見事な縄掛け突起も特に印象深く、地蔵の穏やかな顔と丸い大きな縄かけ突起がとてもよくマッチしている。

地蔵の向かって左側には高さ1mほどの石棺材を利用した思われる、二重光背を彫りくぼめた中央に薬師如来?、左右に僧形の脇侍を薄肉彫りしている。

しかし何故このなだらかで低い峠が山伏峠なのか、どうしてこの峠に石棺仏なのだろうか??まさかこの地で出た石棺ではないだろうに(近くには違い無いだろうが?)??。

近くには天神宮が有るのでちょっと気に掛かる。

撮影2007.12.8


よばりこき地蔵(小谷石仏)

2010年06月15日 | 石仏:兵庫

 

永らくPCのHDで眠っていた播磨の石仏たち、そろそろ目覚めさせないとカビが生えてしまいそう。

あのアバンギャルドな五百羅漢で有名な羅漢寺から中国道の下をくぐり北方へ直線で約500m、小谷集落の西外れに地蔵堂があって、石棺を利用した所謂石棺仏が地元の人達によって大切に祀られ今も信仰が篤い。

播磨は石棺仏の密度が最も高い地域で、この地域の石仏と言えば石棺仏を思い起こさざるを得ない。

『よばりこき地蔵』地蔵と呼ばれるこの石仏は高さ1.7m、幅1.1m、家型石棺蓋石の内側に阿弥陀座像と六体の菩薩像を厚肉彫りしたしたもので、良くある話ですがここでも阿弥陀石仏を地蔵と呼んでいます。

「よばりこき」とは「夜尿症」や「よだれたらし」のことで今も平癒祈願の参拝者があるとか・・・。

風化磨耗が進み細部の表情までは定かでないが、像高約60cmの阿弥陀坐像を中心に六地蔵を中肉彫りにして、光背には5個の月輪を入れた舟形光背を彫りくぼめている。

毎日のように地元の人による清掃やお参りがあるのか堂内は掃除や整理が行き届き、この日も地元の人が花を手向けていた。

康永4年(西暦1345年)の銘があり、南北朝時代像立。

向かって左横にも小さな阿弥陀石棺仏。

撮影2007.12.8


北条五百羅漢石仏

2009年10月30日 | 石仏:兵庫

今更敢えてくどくど説明する必要は無いと思うほど良く知れ渡った異形石仏の代表として名高い。

もう2年近く前、師走に入って関西でも遅い里の紅葉も終わりし頃、播磨の石仏紀行には欠かせないこの羅漢寺を訪ねた。

さして広くない境内に見慣れない角柱状の石材に刻まれた異形の石仏が林立する様には新鮮な驚きを隠せない。

本堂左手脇に、約400体に及ぶ五百羅漢石仏が林立していて、その特異な造形美に目を見張らずには居れない、殆どの石仏は高さ約く1m程の角柱状石材に頭部を丸彫り、肩から下は石柱のままで体部として正面には極端にデフォルメされた手と持ち物が薄く彫り刻まれている。

一体この意匠の原型は何だったのだろう??、木彫の円空仏と何処か相通ずる何かを感じないでもない。

角柱状のこの異形の石仏は、その形状の特異さから同一作者のもので有ろうが、一体一体に個性を主張しているようで、すべての面貌が異なり、石仏というより

身近な親しい隣人と思えるほどです。

若かりし頃、ラジオ放送で『親の顔が見たけりゃ 北条の石仏に逢いにいけ?』というフレーズのコマーシャルがよく流れていたのを思い出す。

このような石仏が突如この地に現れ、踏襲されずに消えたのはどういう事なのだろう??

播磨は古くより石棺仏の像立が盛んで、石造技術も優れていたのだろうから、何かのイレギュラーがこうした異形の石仏につながるきっかけを作ったのかもしれない。

しかし踏襲されなかったのは当時としてはあまりにもアバンギャルド過ぎて庶民、信者の信仰の対象からは、かけ離れたものだったのかも知れない??。

制作年代についてはほぼ、慶長年間(1596~1614)頃の制作と考えられている様ですが製作者については全く解らないようです。

初冬の北条五百羅漢石仏はただただ立ち尽くすのみで何も語らない。

撮影2007.12.8

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