Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ペテン師野郎の指揮

2018-08-11 | 文化一般
夕方前から雨が降った。気温の差だけでもその風の強さは推測出来よう。前日までは38度とかの高温が続いていたが、流石に久しぶりのお湿りで空気が冷えた。翌朝の森の中は気温摂氏11度超えだった。室内に居ても羽織るものが必要だったり、寒くなった。猿股からジーンズに履き替えた。

2018年プロム36コンサート中継を聞いた。繰り返して聞くのは面倒なので初めから楽譜も用意していた。一曲目は「夏の風」と思っていたら作品10の有名な小曲だ。ヴェ―ベルンのこの曲は京都で小澤征爾指揮のボストン饗でも聞いていて、その後もブーレーズ指揮などで比較的生で接している。録音も全集の旧録音が馴染みだが、最近はクラフト指揮の新全集CDがいつもデッキの上に乗っている。様々な楽器に取り継がれる音色旋律とまでも行かない鳴らない曲であるので、生での経験が印象に強い。小澤氏は二回同じ曲を繰り返したが、ここではマーラーのアダージョに続くという企画になっていた。

エサペッカ・サロネンと称する指揮者は最初から作曲家でもあるという触れ込みで市場に乗っていたので最初から聴いていたが、今回音を聞くまで四十年間過大評価をし続けていた。それどころか日本では大喝采を受けていたので、とても期待していた。数年前に出されたシェーンベルクの協奏曲の伴奏が棒にも箸にも引っ掛からぬ劣悪なものだったにしても期待していたのだった。その理由にはバーデンバーデンの新監督がこの指揮者とのプロジェクトで成功していることもあった。

そしてヴェ―ベルンの最初の小節からして失望した。流石にミニュチュアーな創作であるから最初の拍からしてまともに音を出さないことには話しにならない。つまり一つの音符ごとにしっかりとした拍を出さないと意味をなさない。細かな指定一つも疎かに出来ないのは当然のことながら基本拍からして明白に打たれていないならばそれはオカルトでしかない。嘗てヴィーナーフィルハーモニカーが新ヴィーン楽派を録音し始めたころのその拍子感は独特だったが、それはそれなりに一貫したシステムなのでそれとは比較のしようがない。小澤の指揮がとんとん拍子や浪花節であろうがそれはそこの拍子感が面白かったのでもあり、コンサート空間に魅力ある生気を与えていたのは間違いない。この指揮者のそれも杓子定規なその見た目からするといかにも正確に打拍しているように誤魔化されるのだが、次のマーラーのアダージョなどで、そのいい加減さが明らかとなる。

対位法的な線を主に置く、MeTooのレヴァイン指揮でも敢えて言えばラサール四重奏団などの演奏などにも似ているのだが、その拍節が揃わないことと当然あるべき響きが定まらなく殆ど偶然のような響きしか出ないのがこの指揮者の管弦楽ではないだろうか。それでもそれが美しいと思っても、管弦楽団自体が正しい律動を刻まないことではダルな音響にしかならない。それに相当するかのように管弦楽団が下手なのだ。どうしてあそこまで日本で好評だったのか理解に苦しむ。偶々、アラン・ギルバート指揮の都饗の一番三楽章からフィナーレまでを観たが、その水準はフィルハーモニア管とならば甲乙はあるがそれほど変わらないというのが正直な感想だ ― こちらの批評は改めよう。

兎に角、アダージョでよれよれとしていて、この指揮者はテムポを維持する基本的な技能があるのかどうかが疑われ、それを誤魔化すかのように不可思議なアゴーギクが掛かるかと思うと、サウンド修正の段となる。楽譜を読み込むのとは違って、丁度ポップスのトラックダウンをするディレクターのようにつまみを捻って試してみて「うん、気が利いたサウンド」とか「パンチの効いた一発」とかいう感じで鳴らそうとするのだが、残念ながらこの管弦楽団はロスフィルでもなく況してやシカゴシンフォニーでもない、するとお粗末な音程で何やらの雑音を奏でる。音楽のフォームが壊れて、響く爆発音はただのポストモダーンサウンドだ。恐らくその野卑なのが一部のファン層に受けるのだろう。結構、しかしそれは創作とは何も関係が無い。

今でも如実に目に浮かぶのが、「グランマカーブル」公演後のリゲティの不機嫌な顔で、私は当時演奏スタイルや解釈が気に食わないから腹を立て、この指揮者をリゲティプロジェクトから追放したのだと思っていた。しかしこうして聞いてみると作曲家が腹を立てていたのは、この指揮者のペテン師紛いの指揮活動だと分かった。そして一部の録音を受け持った指揮者ノットがトンでもない「ロンターノ」をベルリンで録音するという如何にもソニーらしい制作が完成したのだった。

自己弁護すればこの指揮者の演奏は十代の時から眉唾ものだと気が付いていたが、その後も何回か実演を経験していて、お恥ずかしいことにバーデンバーデンに迎え入れようとしていた。ゲルギーエフ指揮も絶対出掛けないが、そもそもクラスが一つ以上違う。二流と三流の相違は職業の基礎があるかどうかだろう。



参照:
アイゼナッハの谷からの風景 2017-07-17 | 音
三段論法で評価する 2017-02-28 | 文化一般


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