夏のブラームス「ハイドンの主題による変奏曲」を流した。そこでどうしても2017年のミュンヘンでのペトレンコ指揮ブラームス交響曲四番が気になった。自身のブログを調べても前半のマーラーに続く記録はなされていない。あまりにも強烈な音楽体験であって、印象を纏め上げるだけの客観性が得られなかったのだろう。しかし、幸いなことに当日の南ドイツ新聞における批評が未だネットに残っていて、それを紹介するとともにこの11月にあるベルリンでの珍しい「再演」への繋がりを考え乍ら、月末から来月初めにかけての二回の演奏を準備できるかもしれないと思った。既に五年経過していても未だに先を続けられるというのはどれだけ強い印象を残したかということでもある。
(承前)前半に演奏された「不思議な魔法の角笛」において、ペトレンコはヴィーナーヴァルツァーの副義的であり、隠された不純な側面をこのブラームスのそれに先立って示唆していたのだとして、交響曲四番における既に巨大な布陣にその暴力的なものを予感させたと書いている。
勿論現在の通常の楽器編成であったのだが、既にこの時点でブラームスの交響曲が現在どのような位置づけにあるかが示唆されていないだろうか。
最初のねじ込まれた二音のヴァイオリンからしてその明晰な剥き出しの音楽で、ブラームス自身がバロックを模倣した小さな部分を職人技的に張り合わせていくその姿勢を壊してしまうつもりではない。ペトレンコにとっては、このパッセージは「ヴァルプルギスの夜」の化け物や火山や悪夢の寄せ集めのようなところの避けられないものでしかない。このパッセージが終わるとそこには強い光が腐り暗い踊りに力を授ける。
とても抽象的な評なのだが、少なくとも尋常ではない印象を筆者が得たことだけは分かるだろう。
そして緩徐楽章になると一転してその細やかな捩じりに花開く。ペトレンコ指揮においては、そいう箇所はブラームスが交響曲においてべートーヴェンの偉大さに挑み、丁度聖書のヤコブが神として敵と戦うようにしたのを感じさせる。そうした魔的な力への挑みは、徒労に終わり、そして絶えず行き場のない怒りに襲われる。
これまた音楽ジャーナリズムらしからぬ記述であるのだが、そのイライラ感は言い得て妙の音楽表現だったのだ。
そしてその怒りはペトレンコにおいては全ての楽章における始まりであり、緩徐楽章においては最後まで一貫したものとなった。このやり場のないものは、作曲技法的には小さな部分部分から大きなメロディーを作ることに相当する。この分離は、部分と大きな弧の中で、音程と旋律の中で、感情的な音楽の流れを破壊する。ブラームスは、とても知的なクールに楽章を始めて、それが徐々に恥ずかしげもない羽目を外した情感の音楽へと変わる。なんという矛盾か!
ペトレンコは、そのめくるめく分裂を溶接することなく、それを強調する。ペトレンコは、ブラームスにおいてはその難しい旋律運びが最終的には幸運となり、その音楽が終わりなき歓喜の流れになると楽天家の様に楽団を通して放出する。その眼は最早この世にはいないようだ。(続く)
参照:
"Musik als Gewaltakt", Reinhard J. Brembeck, SZ vom 11.10.2017
シャコンヌ主題の表徴 2017-10-13 | 音
ヘルマン・レヴィの墓の前で 2021-07-06 | マスメディア批評
(承前)前半に演奏された「不思議な魔法の角笛」において、ペトレンコはヴィーナーヴァルツァーの副義的であり、隠された不純な側面をこのブラームスのそれに先立って示唆していたのだとして、交響曲四番における既に巨大な布陣にその暴力的なものを予感させたと書いている。
勿論現在の通常の楽器編成であったのだが、既にこの時点でブラームスの交響曲が現在どのような位置づけにあるかが示唆されていないだろうか。
最初のねじ込まれた二音のヴァイオリンからしてその明晰な剥き出しの音楽で、ブラームス自身がバロックを模倣した小さな部分を職人技的に張り合わせていくその姿勢を壊してしまうつもりではない。ペトレンコにとっては、このパッセージは「ヴァルプルギスの夜」の化け物や火山や悪夢の寄せ集めのようなところの避けられないものでしかない。このパッセージが終わるとそこには強い光が腐り暗い踊りに力を授ける。
とても抽象的な評なのだが、少なくとも尋常ではない印象を筆者が得たことだけは分かるだろう。
そして緩徐楽章になると一転してその細やかな捩じりに花開く。ペトレンコ指揮においては、そいう箇所はブラームスが交響曲においてべートーヴェンの偉大さに挑み、丁度聖書のヤコブが神として敵と戦うようにしたのを感じさせる。そうした魔的な力への挑みは、徒労に終わり、そして絶えず行き場のない怒りに襲われる。
これまた音楽ジャーナリズムらしからぬ記述であるのだが、そのイライラ感は言い得て妙の音楽表現だったのだ。
そしてその怒りはペトレンコにおいては全ての楽章における始まりであり、緩徐楽章においては最後まで一貫したものとなった。このやり場のないものは、作曲技法的には小さな部分部分から大きなメロディーを作ることに相当する。この分離は、部分と大きな弧の中で、音程と旋律の中で、感情的な音楽の流れを破壊する。ブラームスは、とても知的なクールに楽章を始めて、それが徐々に恥ずかしげもない羽目を外した情感の音楽へと変わる。なんという矛盾か!
ペトレンコは、そのめくるめく分裂を溶接することなく、それを強調する。ペトレンコは、ブラームスにおいてはその難しい旋律運びが最終的には幸運となり、その音楽が終わりなき歓喜の流れになると楽天家の様に楽団を通して放出する。その眼は最早この世にはいないようだ。(続く)
参照:
"Musik als Gewaltakt", Reinhard J. Brembeck, SZ vom 11.10.2017
シャコンヌ主題の表徴 2017-10-13 | 音
ヘルマン・レヴィの墓の前で 2021-07-06 | マスメディア批評
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