Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ダポンテの最後の啓蒙作品

2020-08-07 | 文化一般
新聞にザルツブルク音楽祭新制作「コジファンテュッテ」の評が載っている。なによりもロイの演出の中での舞台に光が当たっている。ドンアルフォンソを歌ったヨハン・マルティンクレンツェレは、バイロイトではバリコスキーのベックメッサーを歌っていたという事だった。その演技に大きく紙面が割かれている。余程舞台に近い所に居たのだろう。中継のカメラではその映画的な演技や表情はよく分かったが、逆に会場ではどのように感じられたかはよく分からなかった。

しかし、その演技を評価するのがその要旨ではない。クリストフ・ロイの演出を体現したそのインティームで、精密に抑制された演技を指す。その演技によって示されたのはシニックなアルフォンソでは無くて、若い恋人たちを親か教師のように見つめて、深い悲しみに心に喪失感を湛えるメランコリー家あった。つまり人は、智によってではなく痛みを以ってのみ賢くなるという。

アルフォンソが、女は皆こうしたものとモットーを歌い上げるときの痛切な顔つき、必ずや歌声にコメントを放ち、モーツァルトの思索が音楽となる。
Così fan tutte 2020 Trailer


マルヴィッツが音楽監督のニュルンベルクの新聞にはその舞台が付け焼刃のなにも無いものとするのに対してフランクフルターアルゲマイネはその扱い方にも注目する。そのロココには、その庭園の音楽に、室内・室外、精神・肉体、理性・自然が、その音楽の中で啓蒙主思想のダポンテのリブレットの理念から導かれているそのものであると評価している。

そしてプログラムに載っている演出家の一節を引用する。この作品は、基本において啓蒙の目的に従っている。それはただ理性的であるという事ではないのである、それはアルフォンソが歌う「心の必然」としての自然に一致するという事である。そこで望まれるのは、人間的な有りの儘の姿に対する強い寛容であり、軽妙な人生観よりもそれ自体べラカルマな心穏やかな平穏という事である。そのように書き纏める。

如何にこの公演がザルツブルク百年祭という場において改めてモーツァルトの本質に触れたかという事がこうして詳細されて最後にセンシブルに息を合わせた指揮のマルヴィッツをして、何もそこに特別な効果をつける必要が無いという事を知っているからだと、言外にここ暫くダポンテ程度の悪い音楽をしている連中のことを示唆している。



参照:
覚醒させられるところ 2019-01-22 | 文化一般
ああ無常の心の距離感 2020-08-04 | 女
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