Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

変遷と過渡期を想う

2015-11-14 | 雑感
森の中でバムビに出合った。久しぶりなので斜面の下を覗くと、三頭が並走していた。先頭は母親のようで、続く二頭はお尻が白かった。春に見た若いのはいないから、それが成人して母親になっていたのだろうか。しかし色合いは保護色のように三頭とも結構黒ずんでいた。春のは如何にも毛がふわふわとして、輝いていた。白尻を見ると、ライチョウなどのように色が頻繁に変わるのだろうか?今まで気が付いたことがないからだ。いずれにしても生後まだそれほど経っていないのだろう。なぜ人間と並走しなければいけないのかは分からなかったが、お尻だけは十分に観察できた。ここに来てまた気温が落ちて寒くなってきた。

週末は、不要な音楽関連の資料を棄てた。ミュンヘンのオペラ劇場の天井桟敷に座った覚えがあったのだが、出し物の「サロメ」以外のことが思い出せなくて、古い資料を調べ出したことから整理作業に入った。1992年2月のことだったが、ピナコテークに立ち寄ったのは思い出せても、それ以外は不明である。どうもエディンバラ芸術祭での「サロメ」芝居体験や、初めての欧州旅行で立ち寄ったミュンヘンでの滞在などと混乱してしまっていたようだ。

個人的な記憶を辿る以外に、ネットが発達する前に集めていたプリントされた資料の中身の吟味も必要になった。資料として今でも価値があるものは殆どなくなっていて、個人的な記憶に結びつくプログラムや半券類は別とすると、劇場やコンサートホールの連絡先などはもはや意味を成さなくなっている。

特に馬鹿らしく思ったのが、バイロイト祝祭の案内と断り状だ。溜めておいて、断りの数が溜まるのを待っていたようなものだが、すっかり騙されていたかと思うと、捨てるしか手立てはなかった。殆ど腹立たしいばかりで、 ブラックマーケットなど皆グルにしか思えないのだ。

それでも1995年以前のものはネットにデータベース化されていないものも多いので判断が必要だ。読み物として面白かったのはセルジュ・チェリビダッケがベルリナーフィルハーモニカーを再び振った時の報告や、新音楽監督クラウディオ・アバド時代の初期のメンバー表や変遷、その冊子の書き方などである。ジョージ・ショルティが復活祭音楽祭の監督になっていて、このことは完全に忘れていた。そこから分かるのは時代の変遷であり、過渡期を挟んで時代の求めたサウンドに代表されるような、変化である。それがどのように歴史社会的な趨勢と平行しているか言及するには美学的な考察を必要とするが、明らかに1990年頃の冷戦の終了とともに世界が変り、欧州が新しい形として意識されたのは当然であったろう。

ヨガタブレットが引き続き快調である。なんといっても売りの充電池が一向に衰えない。毎日のように一割から二割ぐらいを充電しているのだが、その減り方も充電の効率も悪くなっていないどころか、充電のUSBケーブルをAMAZON製にしてから効率がとてもよくなった。更に清掃のアプリケーションですっきりして、動きも軽くなった。まだ一年三カ月ほどの使用なのでもう一年ほどしっかり働いてくれれば賞賛しなければいけない。

これ以上求めるならば軽さだろうが、充電池が弱くなるならばあまり望まない。画質もDVD映画ぐらいならば全く違和感がなく、大きさも十分である。結局頑張って弄らなければいけなかったのは最初の数週間で、その後はANDROIDに馴染んだ。LINUXとの相性も良く、もう少しタブレットで監視や制御できる電化製品が増えてくれると嬉しい。



参照:
流れが停滞すると 2015-09-04 | アウトドーア・環境
八秒と長めの露光時間 2015-11-07 | 生活
ルート化の月謝代は如何に? 2014-09-06 | テクニック
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