Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

修辞法の積み重ねの表現

2014-11-02 | 文化一般
文化欄に、作家のエステルハージ氏の写真と並んでアルフレード・ブレンデルの写真が載っている。ヴァイマールの図書館での催し物のようである。そこでは、修辞法の一分野である嘲笑や笑いの文化について語られている。欧州文化におけるこの手の修辞は近代の欧州文化の粋であると言えるかもしれない。

音楽におけるバッハの修辞法やベートーヴェンの修辞法に関しては語りつくせるものではないとしても、指揮者のヘルヴェッヘやブレンデルのこの面での功績も決して過小評価されるべきものではない。こうしたところにギリシャ文化などを源ともする欧州文化の粋があることが、ジャーナリズムや芸術文化活動の質として表れていることも間違いないであろう。

比較的最近ネット映像で落語家柳家小三冶の落語を見てから、その後勲章などが賞与されたと聞いた。なるほど師匠のそれよりも名人芸が展開されていて当然の受賞だと思った。嘗ての音楽雑誌などでよく顔を出していたときには、どこか線も細くこれほどの芸をするようになると思っていた人は少ないに違いないがどうなのだろう。古典芸能であろうが、ジャーナリズムであろうが、基本はこうした修辞法の積み重ねであって、表現そのものに違いは無いということなのである。

京都にレーダーが施設される件は、ポーランドなどの例では国を挙げての最大級の外交政策であり、それによって合衆国との関係を利用するというEUやNATO内においても最大級の事件であった。現在のウクライナ政権もポーランドを手本とすることで、初めて西欧や合衆国の手下にもなることなくロシアの衛星としての重力圏を初めて利用することが出来るようになるのである。それが外交であり自主独立ということに他ならないのだ。

しかし京都の例を見るまでも無く、こうした重要な案件がなんらの政治的な課題として扱われること無く、一部の利権を代表する形で粛々と進められている様子は異様でしかないのである。やはりそこには、メディア以前に表現としての創造力や想像力が彼の国の文化には欠乏しているとしか思えない。

今週は、一度しかボールダーに行けなかったが、結構走ることが出来た。火曜日の短い距離の沢沿いの往復に続いて、木曜日には長い距離を往復した。往路は12分2010歩ほどで、往復で25分4050歩とまたもや25分を切れなかった。理由は分からないが、もう少し早めにスパートをかけないといけないようだ。金曜日は休日の前日であり買い物によってから、近所のいつもの場所に繋がる谷を久しぶりに辿った。道を間違って隠れたボールダーのある場所に向きを変えた。ボールダーとしては試してみないと分からないが、車から2キロ先と遠すぎる。帰り道にいつものところで出会うオヤジ達の走るルートの辿って帰ってきた。暗闇になっておぼろ三日月頼りであった。土曜には、パン屋が休みであるから頂上を目指して高度差500Mほどを駆けた。万歩計を忘れたのでゆっくりと上がったが、往復66分はやはり疲れる。上部は陽が照っていたが、降りてくると小雨交じりのような霧の中だった。Tシァツと短パンで雲の中を舞い降りるように手足を最大限伸ばして走り降りる感覚は、そのたしたことが無いタイム以上に素晴らしい気持ちであった。走ることがこのように楽しい感覚であるのは珍しいことだ。



参照:
とても そこが離れ難い 2008-11-28 | 音
全脳をもって対話(自問)するとは? 2010-04-05 | 音
洗濯してみないと分らないが 2014-07-04 | 生活
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