Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

二十世紀末を映した鏡

2013-11-05 | 文化一般
先頃逝去したパトロス・シェロー演出オペラ「ルル」を観た。写真や抜粋では知っていたが、全編を通して観るのは初めてである。VIDEOテープを上げたようで状態はとても悪い。制作はドリームライフと称する日本のものであるが、本国フランスのパリでも闇で高く売られているらしい、要するに1979年にアンテヌデューがチェルハによる補筆初演を生中継したものは正式には出ていないようだ。恐らくどこかでホームヴィデオで録画されたものが海賊版として日本で出ていたようだ。字幕も入っていてクレジットも入っているが、映画の字幕のような仕事ぶりである。兎に角、今やネットにありとあらゆるものが転がっている、

さて、音は全曲スタジオ版を知っているのでそれほど雑音ほどに質の悪さは気にはならなかったが、映像も劣悪ながらも珍しくオペラとして通して鑑賞出来た。その理由は、矢張り卓越した演出に他ならない。バイロイトの「指輪」の時にはあまりにもコンセプトに視点が向かったが、これはその音楽の精緻さに相応してと共に劇表現としてかなり肌理細かな演出がなされていている。その一方コンセプトとしては冒頭の前口上時に映される「人間動物」の所謂マルキストの指すブルジョワ―が映し出されることで明確となる。

そもそもシェローはマルキストとは思われるが、英術家として社会学的な視点を持った大演出家であり、イデオロギーを離れて広く知的な劇場空間を繰り広げた芸術家であったに違いない。映画などももう少し観たい今年逝った最も惜しまれる人物だった。

そしてこの映像でその劣悪な音響からもレコーディングの高音質アナログ録音からは気が付かなかったような重層の音楽構造が見え隠れするのは、演出がその主旨をしっかりと表現しているからにほかならなく、そのテクストの秀逸さも味合わせてくれるのである。音楽だけではそのアナリーゼ無しにはなかなか気が付かない構造をこうして表現してくれるのが良質のオペラ演出なのだ。それにしてもこの音楽の美しさは尋常ではなく、二十世紀の系譜である以上に精華の源の一つであったことを百年が近づく今こうして分からせてくれる。

なるほど演出家自身が語るルルのその性の存在の説明以上に、その演出の舞台としてこの演出家がいつもするように作曲創作の1930年の同時代を舞台化することで、1979年2月のパリのそしてその同時代がここにその時代の生理として十二分に表現されている。正しくこれが芸術であり文化であり、社会学的な視点を我々に示してくれるのである。

ユダヤ女であろうが、ジプシー女であろうが、その女が我々に及ぼす、深いセクシャリティーである金の力や実体無き市場への射幸心はそのもの時代の不安であり永遠の不安でもあるのだ。その意味から、ここで繰り広げられる殺戮と死の情景ほどその必然性を感じさせるものは無い筈である。芝居としても十分なリアリティーを表現している。そしてその焦燥感や昂揚感そしてその絶望の生理こそが動物を人間としている実在そのものなのである。

処女鉄道株の暴落やパリでの革命騒ぎ、切り裂きジャックによる終結へと、ありとあらゆる社会生理は原作通りであって、それが1979年パリの劇場に展開した。正しく1900年代冒頭の原作をアルバン・ベルクが十二音技法を駆使して1930年のそれに映した鏡がそこに突き立てられたのであった ― 有名な音楽技法の逆行に相当する場面の背走の群の動かせ方も芝居に包み込まれていてこれほど秀逸なリアリズム演出を知らない。そしてその後の二十世紀の歴史をみれば、こうした文化芸術的な出来事に無関心であったり、その真意を理解できなかった人たちの未来が映されていたことがここに記録されているのである ― 当時は東京には国立音楽劇場は存在しなかったが、仮の話として、これが共同制作として上演されていたとしてもフランス人や欧州人のようにはこの舞台から近未来を描けなかったに違いない。それはなぜか?日本人の知能指数が低いだけか、違う、その原因こそが現在の日本を形造っている。



参照:
不可逆な一度限りの決断 2006-01-25 | 女
今は昔の歴史と共に死す 2010-03-22 | 雑感
間違った国策と呼ばれるもの 2013-10-11 | 文化一般
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