Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ネット演奏会の幼児保育

2009-01-15 | 文化一般
ベルリンのフィルハーモニカーの生中継が始まったらしい。新聞によればドイツ、日本に続いてコロンビアのお客さんが多かったようだ。入場券ほどの料金を払って、コロンビアで人気があるのはなぜだろう。

五台のカメラを使って中継されているようで、十分なネット環境とグラフィックカードやスピーカーがあれば十分に視聴出来るらしい。しかし新聞は逆説的に書く。もしこうしてコンサート経験をしたネット世代の者が、実際に演奏に接して見るとあまりに迫力がないので驚きはしないかと、その反面視覚や聴覚を強制されない自由を体験出来るではないかと。

それに関連してとても興味深い感想をBLOG「日々雑録 または 魔法の竪琴」にて読んだ。要するに、耳あたり良い聴環境や、デジタル物理媒体とネット配信などに関する考察である。

一つにはデジタル化で、嘗てはエリートにしか体験出来なかったアナログのマスキングされた信号の中から必要な音楽情報を引き出し聴取することが万人に可能となった大衆化である。それによってなにが齎されたかの回答は丁度クラッシック音楽の世界普及の大衆化の結果に相当している。

上の記事においても指揮者フルトヴェングラーの場合が例として挙がっているが、昨年生誕百年であったフォン・カラヤンがグローバル大衆化を推進して、手厳しい批判を浴びたのはそこで失ったものが問題となったからである。元々その失われたものを知らないもしくは分からない大衆を相手に何を言っても始まらないとするのが、芸術家フルトヴェングラーの立場であり信条であった ― フルトヴェングラーの政治姿勢は批判されるべきであるが、聴衆を選ぶという姿勢は昨年引退したピアニスト、ブレンデルにおいても正しいのではないか。そうした固有文化に対するローカリズムは、こうしたネット発信のグローバリズムの中で今再び脚光を浴びるべきものであろう。

デジタルの圧縮技術が益々そうした簡素化へと導くことは、誰もが自ら画像ソフトで遊んで見れば分かるのではないだろうか。必要とされる情報を掘り出していくとき最終的にどのような単純明晰化が待ち受けているか。リンリン、ランラン、チンチンと幼児化の世界でしかありえない。

何かが強調される、受け手の個人差を出来る限り補うようにどんな馬鹿でも聴き落とさないように見落とさないようにと懇切丁寧に分かり易く提示される。上の新聞記事にても、こうしたネット配信で「なにかを見分けられる」人は経験豊富であることが前提になると。

その経験や知識は保留しておくとしても、そうしたネット配信から一体何を受け取ることが出来るのか?今回の聴視者数は全世界でたった二千五百人しか至らなかった。会場の客席数と変わらない。それが意味するものはなにだろう。今の所。高給取りの集団であるこの交響楽団自体の運営には問題はないようだが。

こうしたネット配信のあおりを受けてクラシックメディア業界はどうか。アルモニアミュンディの創始者ネルナール・クータは、フランスと英国でのネット売り上げ調査によるとクラシック部門ではたった二パーセントにしか至らないので今後とも物理メディアの需要は顕著であると語った。

やはり問題は、そのメディアの芸術的価値でしかないようだ。所詮、芸術音楽は大衆大量消費とは無縁の世界であるのだろう。



参照:
大脳辺縁系に伝わる記憶 [ 文化一般 ] / 2009-01-06
川下へと語り継ぐ文芸 [ 文学・思想 ] / 2007-01-21
引き出しに閉じる構造 [ 文学・思想 ] / 2007-01-11
半日の作業で得たもの  [ 音 ] / 2009-01-11 04
尋常ならない拘りの音 [ マスメディア批評 ] / 2009-01-14
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする