Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

目の鱗を落とす下手褒め

2008-10-07 | マスメディア批評
先日のエリオット・ガーディナーのブラームスプロジェクトに関して面白い評が載っているので紹介しておこう。ヴォルフガンク・ザントナーがFAZの文化欄に書いている。

「ラッソーやガブリエリの多声に、ブラームスにおいても、声楽と器楽との同等な完成されたメロースの表出として囚われるならば、この二日に渡って演奏された二つの交響曲の 高 声 部 をしか評価できないだろう。

そうではなくて、ガーディナーと一部古い躾に育った管弦楽が、各声部に熱中して自信を持ってノンヴィブラートで弾くとき、その渋い音響にホ短調第四交響曲の冒頭楽章の素晴らしい 長 三 度 の 和 音 が 全 て の 声 部 に導かれて聞き取れるとき、初めてブラームスの歌の支配が示されるのである」

このように肯定的に捉えられた批評は、「シェーンベルク、カーゲル、マゼールのまたガーディナーの指すブラームス像が二夜に渡って職人技術的なまた完璧なイントネーションと合奏力に楽曲構造の正しい明示によってこそ初めて、その実践にて- まるで目の鱗を落とすように - それを実証することが出来た」と、少なくともドイツ語圏では音楽会批評としてはありえない世にも珍しい下手褒めの文章となっている。

それはまるで、「天使のような管弦楽が装飾をもってガーディナーの強調で、シュッツやガブリエリの合唱曲が、シューベルトの曲でのように感動を与えないなど考えられない」と、「バロックをただ即物的に古楽で再現したのではなく感情的な内容を盛り込んで息吹きを吹きこんだ音楽家ガーディナー」の実践を、それは丁度作曲家故カーゲルが「ちゃらけた形でブラームス解釈」をしたような修辞法を採ってここに描いている。

そして見出しを見れば、「継続性の実際 ― 誰もバリケードには落ち着かない。アルテオパーにて、まるでお手本のように、ジョン・エリオット・ガーディナーは、ブラームスを合唱と管弦楽をもって演じる」とあり、少々嬉しくも愉快でもある。

それにしても、平土間の記者席に居たにせよ、当日午後までも盛んに余り券の事がラジオで放送されていたので、その入りの悪さを知らなかったことはないだろうが、それはなにもわざわざ批評にて音楽家に教えてやる必要もない訳であるが、ただ当日会場に居なかった新聞を読む音楽ファンにはあまりにも不親切で、ジャーナリズムとして問題ある記事である。しかし、その内容は、まさにブラームスがバッハをモダーンに思い、四楽章「パッサカリア」をモダーンとした面白さがこの記事から読み取れる。

「もし直接バッハやモーツァルトに戻っていたなら、ブラームスは今頃パイオニアになっていただろう。しかし、彼は遺産で生き、自らもそれを為し得たのだった」(ブラームス、進歩主義者 - アーノルト・シェーンベルク 1933/47)


写真:来年に備え既に切り落とされた、湿気のために白黴の生えた葡萄(十月二日撮影)



参照:
Das Faktum der Kontinuität von Wolfgang Sandner, FAZ vom 4.10.2008
個性が塗り潰された音響 [ 音 ] / 2008-10-03
EROICA IN THE SHELL (庭は夏の日ざかり)
コメント (3)
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