Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

懲りない葡萄園の農夫達

2007-05-19 | ワイン
承前)ダイデスハイムにある石像を見ていると、首を撥ねられたと言うバルバラの首が欠け、ヨハネの首も残念ながら欠けている。このヨハネは、サロメに首を撥ねられた洗礼者ヨハネでは無いが、こうして首が無いことで顔つきが全く判らない。

さて、ラッツィンガー博士は、速記的な史実をして、そうした考え方はまさにグノーシス的な見解であるとしている。つまり、インゴ・ブレールの見解「ヨハネによる福音は、宗教を感化して強化する文学的な作品で、我々の眼からすると史実とは言えない」をして、これは誤った歴史認識と誤った信仰認識に立脚していると批判する。要するに、それは肉を、肉体化を史実とするグノーシスなのだと。

イエスの演説が録音されている訳でなしとして、そうした認識論に対して記憶と言う概念を提示する。そしてそれは、この福音書において非常に個人的なものとして編集されている例を挙げて行く。

しかし、19章35にある記憶は決してただの個人的な回想ではなく、あなたたち(我々)と言う教会を指していて、この福音書における回想の主体は複数の弟子達であることを明示する。

この要素は、結局はローマンカソリックの基本姿勢であるとここで読者は知るのだが、なにも今更ツヴィングリとルターの論争を呼び興す必要も無く、共同体の意味合いをここに学ぶ必要も無い。むしろここで示されているのは、近代の哲学であり、ありとあらゆる学問の基礎にある対話に、他者に自己投影する態度に違いない。

特に脳神経学の最新の研究成果などを耳にすると、ここに繰り広げられるカトリシズムの信仰態度は、大変に思考形態として参考になると思われる。そうした関連を含めて、「記憶」と「記録」については改めて考えるとして、その発端となったヨハネの福音書のワインへの言及を扱った部分へのラッツィンガー博士の章節を少し試飲してみる。

主にそこでは2章の「カナの結婚」の話と12章の「ぶどう園と農夫」のたとえ話が解説されているのだが、先ずはありとあらゆるこの地球上の生命の基本要素である水から、パン、オリーヴオイルと並べられる地中海文明を思い起こす。そして賛歌104に、草、家畜、パン、ワイン、そしてオイルが挙げられるとき、神の恩恵であるワインは御心を喜ばすとある。

水は必需品であり、ワインは祭りに供される、ヘブライ神学者フィロンの考え「ワインの供給者こそが、神のロゴス」であるとして、そこに喜びと甘味と快活が授けられる。

だから、カナの結婚式に供される520リットルのワインは一体全体豪遊を表わすだけなのかと問いかける。そして、三日目の3の数字の意味を考えながら、伝承される栄光が神の顕示であることを導く。同時に、富みも貧しきも水も火もパンも、労働と共に日々の生活に欠かせない一方、過ぎ越しの祭りに供されるワインにその実りの意味合いが強く込められる。

また、15章におけるイエスの別れの挨拶に、その成就がワイン畑の唄として詠まれる。それが、カナの結婚に、また、ワインの幹へと肉体化したイエスが葡萄の実をつけるとき、もしくは失望の酸っぱく食べられない実をつけるとき、新たな意味合いを持ってくる。

そして、「ぶどう園の農夫」の地主である貸与人からの土地強奪を推して、イスラエルを考えて、またワインの幹がもはや神の恩恵ではなく、イエスがそのものとなるときに、彼がそのもの神のものとなることを示す。だからこそ、もはやこれは奪われるものも無く、奪われることも無い存在となるが、そこに浄化が欠かせないものであると語られる。

そこで、大命題が挟まれる。イエスの言葉は、「いつも今を語り、将来を語る」と。一体、我々は、今日の出来事を、眼を開いて、そこに近代の論理を見ているのか?

「神は死んだ、そして我々が神になった」、

「我々は今や誰の持ちものでもないどころか、自分自身のもので、世界を支配しているのだ」、

「やっと、我々はやりたいようにやれるのだ」、

「神を捨てる、そして自らを尺度とする」、

「ワイン畑」は我々のものだ。

著者は言う。人類に、世界に、何が起こっているのか、さあ、見てみよう!

実りは、予言どおりに成就され、実に美味いワインが出来上がった。同時に、神はそうした腐った葡萄をもぎ取ることが出来る。神の公正から不正や暴力を取り除いて、初めて枝は貴葡萄に弛み、摘み採られ、搾られて、立派なワインとなるのである。

著者の故郷にはワインは育たないが、バイエルンにはフランケンワインも供される。
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