Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

夜空に輝く双子座の星達

2007-02-27 | 
(承前)フランスバロックオペラについて書くときは、モリエールかラシーヌの台本のオペラを扱いたいと思っていた。幸か不幸か、ジャン・フィリップ・ラモー「カストールとポルックス」のパリ公演の報告を読んで、数多いバロックオペラ録音が収まっている棚から一つの三枚組みCDボックスを取り出した。

このオペラは、1737年にパリで初演されていて、太陽王時代を懐かしむ即ち先人を支持するルソーに代表されるリュリ派とラモー派がその評価を巡って争そった。前者のオペラも現在ではまがりなりにも全曲録音を聴く事が出来て、その相違を直接耳で確かめる事が出来る。後者の音楽は、その理論書が示す通り、後期バロックから前古典派へと引き渡す準備が出来ている。

和音の展開や累積を初めとする機能和声の確立などの技術面だけでなく、そこには舞台音楽芸術として、既に俗で大衆的な要素が満ち溢れている。それだからこそ、その故にこそ、こうした和声が 機 能 しているのを思い起させる。

オペラは、双子座の二つ星となるギリシャ神話の双子の兄弟の話である。片方が不死の運命を持ち、片方が死に行く運命を持つ、一卵性のカストルとポルックス兄弟である。

一幕三場に於ける恋人テレールのカストールを偲んで歌う場面は、その後に続く軍楽のコーラスに著しく対照していて、モーツァルトの伯爵夫人の歌を想像させる。反対にモーツァルトにおいては、そうした対照の妙よりも、なによりも心情の細やかさの表現に集中している事実に気をつかせる場面である。

その対照は、一幕での感情的な俗に対して、形式とはいいながらもプロローグにてギリシャ神話の「愛」や「芸術」がミネルヴァの女神と並んで登場する枠組みがこれまた対照を示していたりと、音楽的な情感を厚く上に積み重なる和声に乗せたり、または宮廷でのシャンソンそのものの旋律的な叙情を薄く対照させたりと、何重にも二項対立的なアクセントととして仕立てられている。

そうした工夫が音楽的に瀟洒さや高貴さを失わせていると非難されても仕方ない面も確かに存在していて、当時の評価の分裂を伺わせる。二幕における芸術的飛躍は、それゆえにか瞠目すべき効果を挙げていて、批判者を沈黙させたことだろう。

興味深い事に、革命以降ラモーの殆どのオペラ曲が忘れ去られたにに拘らず、この悲劇が生き残った理由は、そうしたシルエットを際立たせる庶民性に見つかるのかもしれない。

さらに、バレーをふんだんに取り入れた構成は伝統的としても、序曲やシンフォニアが囲むだけでなく、各種各様の舞曲が場面転換に散りばめられて、それらが全体の構成の骨組みを音楽的に担っているのを、二十世紀になってアルバン・ベルクなどが踏襲したとしても間違いではなかろう。同様な配慮が、合唱や重唱を含む各々の場面場面にも見受けられて、作曲家として名人の仕事をなしている。

そのような構成への配慮から一見通俗過ぎる部分も故意に挿入されているように見受けられる。それは、和声の理論体系の確立と習得からルーティンに作曲が出来た証であって、寧ろそうした土台があってこそこうした自由自在の構成を可能としたのを語っているのではないだろうか。

また余談であるが、トーマス・マンの「魔の山」の主人公の青年ハンス・カストロフと従兄弟のヨアヒムは、この星となった二人の兄弟をパロディーとしている。それは、「神よ。我見るぞ!」の章の医師ベーレンスの言葉として読者に注意を託している。

さて、もう一度二十世紀の後半のパリを再び見渡せば、理論体系や技術的な集約は目的への経済行為であって、そのものを目的とした模倣者には、結局なにも役に立たない。否、ポリテクニックな利用を忘れてはいけないが、これを創造行為と峻別する必要はある。そうした「実の仕事はそこから始まる」と言う実例を、ラモーのこの良く響くオペラの作曲どころか、その場面展開にすらみる事が出来る。つまり、良く響き混ざり合う大きな音や効果を本当に必要とするのは軍隊やこけおどしの為であって、上記のようにこうしたものを対照させる世界を描くことこそが、ここでは創造なのである。

因みに最近のノーベル賞授与は、双子どころか三つ子受賞が一般的となっている。(周波の量子化と搬送から続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする