旧年内にトーマス・マン著「ファウスト博士」に目を通すことが出来た。本年を以って、そのスェーデンのベルマン・フィッシャー出版社による初版から60年になる。今更この古い文芸作品に何かの意味を求めるのは不可能かも知れないが、少なくともこのブログで扱っている話題の多くに係わっている。その逐一を紐解いていくには、ここでまた幾日にも別けて折りにつけ小まめに書き出していくしかない。
読み終えた文庫本は、1997年2月にフィッシャー出版社が1990年4月初版の完全版を再版したもので、フランクフルトの店頭で購入した覚えがある。購入してから十年は経っていないだろうが、マルクで買っているので少なくとも六年は経過している。
読み始めてからも同じぐらいの時間が経っている事は間違いなく、一年前にもまだ前半のどこかの頁を思い出したように開いたりして、積読としていた。その間、このブログ上において、間接的ながら思い浮かべる内容はあったが、特に急いで読破する必要も感じなかった。
しかし、最近になって同作家の「魔の山」を手元に取り寄せた経過もあり、またその大部を何度も読破しているBLOG「
無精庵徒然草」のやいっちさんがこの「ファウスト博士」を
読み始めたと知り、丁度良い機会と負けずに読破した。
後半は、速読を期して読み飛ばしたが、大きなめくるめくクライマックスに向かう筋立てと、その後のフィナーレへの筋運びではどうしても同じような速度で読破出来ない事が判り、改めて何年にも渡り遅々として読みきれなかった前半の記述をもなるほどと思った。
読破後、当初から特別に印象に残った第三章を読み直すと、後半のクライマックスを別とすると、そこには唯一極度のエロスが満ち溢れており、なかなかこうしたものは性的偏向のある作者でないと書けないであろうと改めて思う。
またそれに先立ち、第二章を読み直すと、第三章の主人公の父親への記述に対応して、語り手で主人公の友人であるゼレネス・ツァイトブロン哲学博士の自己紹介から、主人公の環境を間接的に説明している。
そこで、ルター派の居城である中部ドイツの架空の共同体(ニッチェの故郷ナウムブルクと云われる)の中での、カトリック教徒である語り手から見え隠れするユダヤ人が暗喩として描かれる。この反転させて浮き彫りにする手法は、この全編音楽文化を通して描かれる個別作品の詳細において、結局指摘されなかった、「明けぬ思惟」なのである。
繰り返し再読の必要を自己弁護とするが、陽の当たる部分を排除して行く事で影の部分を反転させる方法は、そもそも「ファウスト博士」の骨格である事には間違いない。
直接間接的に俎上に上がり、もしくは本質的興味を起こさせ、読書の間特に注意を向けた楽曲とその演奏録音をリストアップしておく。この文学作品の1951年版から、作曲家アーノルド・シェーンベルクとの関連が後書きとして明記されている。その作曲家自身も、亡命先のカリフォルニアのサンタ・バーバラ校等で、「ファウスト博士論争」を講義の題材として、自作の普及に務めていたのだろう。(
続く)
音楽:
ベートーヴェン作
四重奏曲イ長調 ラサールカルテット
後期ピアノソナタ マウリツィオ・ポルリーニ、アルフレッド・ブレンデル
ミサソレムニス
シェーンベルク作
ピアノ曲 グレン・グールド、マウリツィオ・ポルリーニ
ピアノ協奏曲 アルフレッド・ブレンデル、ピーター・サーキン
ヴァイオリン協奏曲 ピエール・アモワイヤル
管弦変奏曲 ピエール・ブーレーズ
ヤコブの梯子 ピエール・ブーレーズ
デュファイ作、オケゲム作、ジャスカン作、ラッスス作
各ミサ曲