Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ここにいたか、売国奴よ!

2007-01-17 | 歴史・時事
マンハイムのイエズズ会教会から大学の国際学生友好館へと向かう。途中角家に絵付きのプレートが掛かっている。ドイツ学生運動の過激派カール・ルートヴィッヒ・ザンドの住居であった。ルターの聖地ヴァルトブルクでの1817年フェストとそこでの焚書の張本人でもあり先導者でもあった。ルター自身の行った焚書と生誕三百年を記念して、非国粋的で非ドイツ的な書物が焼かれたのである。

その時の焚書リストの上位に入っているのがフォン・コッツェブの書であり、マンハイムに家族と住んでいるところを、ザンドにより刺殺された。サンドは「ここにいたか、売国奴!」と叫んで子供の前で刺し殺した。

そうした社会的混乱を収拾すべく宰相メッテルニッヒが中心となって押さえ込みに掛かるのだが、ドイツ語圏において次々と革命が起きる。その結果は召集されたフランクフルト・ドイツ国民議会にも、それらの学生運動家が自由主義者として含まれていた。

フランス革命の顛末は充分に知られていても、反ユダヤ主義とドイツ主義が、自由主義と同様に学生組織の運動の基盤となり、百年後には第三帝国へと結びついて行く事は知られている。

結局、大変信心深い政治犯であるザンドは、事件後の度重なる自殺の試みにも失敗して、手厚くマンハイムに収監されていたが、判決が下りて公開処刑で首を撥ねられる。その時の血糊のタオルや処刑台の木材は学生組織の英雄的な象徴となっていると言う。

昨年末、全く違う歴史を歩むフランスにおいて、毛沢東没後三十年を記念して、恐らく世界で最も数多いフランスのマオイスト達が俎上に上がった。ミッテラン大統領の「毛沢東は独裁者でなくて、モラリストである」は有名な言説であるが、それどころか現在でも赤軍の分隊であるマオイストは多い。その反対に、大量殺人者に結びついていた事を恥じるとして、イラク戦争を肯定して、親米を語るアンドレ・グルックスマンのような転向派は極稀と言う。

思想家フーコーや映像作家ゴダールといった文化人もこれには無防備であった。サルトルなどは禁止マオイスト紙を労働者に手渡してまわった事は知られているが、本人が「ファシスト警察」に望んだように逮捕されず、「啓蒙主義者ヴォルテールに逮捕はない」と政敵ドゴール大統領は語った。こうしたフランスのマオイスム妄想は、革命への支持とレジスタンス精神によって形作られているのであるが、マリアンヌ誌には、モルガン・スポルテ氏の興味深い推測が掲載されている。

それは、マオイスム組織がそもそも米国諜報機関によって形成されたとする意見である。これは、イタリアやオランダにおいても共産主義者を弱体化させる方法として挙げられると言う。

ル・モンドの北京特派員で、マオの強制収容所は「矯正される自由」に役立つと1975年にもTVで語っていたフィリップ・ソレルスは、「二千八百万人を粛清した大量殺人者マオの幻想から逃れるのは大変難しい」と言う。アラン・ブザンソンは、ドイツ人が皆ヒトラーに加担していたわけでなく幻想を見ていたわけではない、しかし中国人は犠牲者であると同時に処刑執行人であったのだとする。文革を指すのだろう。

ドイツ人と違って中国人は、国家転覆のあとに恥を知ることがない。恥は知るべきものなので、そうした事の無い「中国の発展は良きものを齎さない」としている。中国は万年中国なのである。

そして、どうしても歴史は同じように繰り返される。米国の秘密工作の下に社会のガス抜き的な「非武装中立」の幻想を出現させ、ジャーナリズムとしての批判さえ出来なかった者が、革命の先鋭化を諌めて、原理主義者の狂気を指摘出来ないのは火を見るより明らかである。

しかし、一体そうしたジャーナリズムとしての世論形成に何の意味があるのだろう?革めて、今でも70年代のようにマオイズムの幻想に酔い痴れていた方が、二大政党制による超自由主義思想に加担するよりも格段幸せに違いない。



参照:
Ein Humanist und Massenmörder, Jürg Altwegg, FAZ vom 13.1.2006
強靭で灰汁の強い宣教 [ 生活 ] / 2007-01-16
コメント (2)
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