面白くない話し、というのは、意外と多く、これがうちの中で発生すると、それなりに嫌にもなる。同じ家族なのに、なんだか意見も違うし、それで落ち着くところがあれば、それもまた平常、日常となる。それ以外だと、近くの人との交わりというか、でもめる?。習わしというか、その他に、不文律みたいなものもあって、それで、問題になるときは、まずはない。うちの中の方が圧倒的に多い。
ないはずなのに、そうゆうことが起こる。つまらないというか、ある人はこれは当然だが、これはおかしいと考える。それと、私との考えが違う場合がある。これは当然だが、だが見た目とか、直接的な被害がないと、何しろ立証も出来ない。だから、大体黙っているくらいが落ちで、まずはよそに文句をいいにゆくというのは、この年になってない。会社組織でもあるまいに、と思うこともある。
いろいろ、価値とか考え方は違うものだ、というのが大体の考えの中心だけど、だからといって、特に何かをするわけではない。サボるときもあれば、わからんように誤魔化したりはする。一々草抜きにまじめに取り組むこともなく、どぶの掃除だって適当である。それが自分に出来ること、あるいは毎日やっていることなら、これは自慢でもないが、さっさとやって、30分はかかるというものも5分で済ませる、そのくらいの感じで生きている。
あー、またぼやきになって来た。突然というか、やって来る、「槍」のようなものがある。人の判断というのは、違うものだ、という考えでなく、こうなっていないというのが、おかしいというわけである。これを細かく書けないし、書く気もないが、それにしても、いろいろやりにくいことは多い。これが、大きな組織で、その中で討論されるなら、まだ話しはわからんでもないが、個人の思い付きでそうゆう「槍」やら、「鉄砲玉」が飛んでくるというのも、困ったものである。
きょうは、雨の日で、珍しく梅雨らしくなった。大体曇りか、午後に晴れというもので、このままだと、まったく植物も生き絶え絶えになるな、と少し大仰に考える。その通りと思えるような、状態というのを見ることが出来る。
皆さん、そこはどうゆう土地かはっきりはしないが、春には春の、夏に夏の植物を植えられて、そのものは、大体今は乾いた状態で、生きている。なんだか人間の世界を反映しているようだが、さすがにそこには水道水もなく、またそのそばを流れる用水も、自然とそこよりも高い地面に上がるような、そうゆうシステムはなくて、乾き切った状態がある。結構肉厚なそうゆう植物だと、大丈夫なようで、でも大体は、やっぱり青息吐息である。
そこの上に、小さなシジミチョウが、いくつか飛んでいる。これを見ていると、シジミチョウのいる環境がここにはあることになって、嬉しいような気もするが、そのチョウは忙しく飛ぶばかりで、その動きを見ていると疲れる。
ときに目が回りそうにもなるので、途中でそれを追うことを止める。3匹のシジミチョウが、空中でときに絡み合ったが、瞬間にして別れ別れになったから、これは同じオスなら、オスのシジミチョウなのであろう。そのシジミチョウにやけに大きいものも見かけるが、無論普通のシジミチョウなのであろう。
小さなチョウだから、普通に歩くと気が付かず、紅色だとわかりやすいが、このチョウのことも知ったのが最近だから、捕まえはしないが、しかしどうゆうときに、シジミチョウがじっとしているか、わからない。過去に何度か、このチョウが、静かにしてくれて、接近することが出来たが、これも偶然かと思う。
でも、きっとそのチャンスはあるだろう。
最近は、昔になかった、つまらないこととかで、ガタゴトすることが多い。老化が一つの原因で、自分自身もその老化の真っただ中にいる。わかっていて、それでどうしていいかわからないことが多い。いろいろなややこしいこともこれからも起こるだろうが、このシジミチョウも見て、その小さいながらも精一杯飛んでいるのを見ると、
つまらないことは忘れた方がいいという結果は、明白というか、自明であることがわかる。世の中、するするとすり抜ける方法はないが、少しは利口にならないと、それこそ自滅しそうで、世渡りの策もまた考慮の余地がある。
水田のその一。水田は何も語ってくれない。これも悲しい。
少し水の量が少ないが、これは今は多分水抜きをやっている。酸素の問題である。
この広い水田を、昔は人の手で、苗を植えた。でも、こんな水田ではなかったのも事実。グニャグニャしていたのである。
曇り空。水田も、晴れで水が青く光ると、やっぱり見栄えがする。
マツバギク。今回は露光補正をなしにしてみた。普段は、マイナスで、1段か2段。で、このマツバギクの色も少し飛んでいる。やっぱり、マイナス補正かな。
ムラサキシキブの小さな花がもう咲いている。この植物ももう少し詳しく、分類されるようだ。中央辺りに、あまり見たくない、幼虫がいる。
ナンテンの花が、もしかしたらと思って見ていたら、花が咲いて黄色いオシベ?が、出てきた。若干にごりのある、色だが。
ないはずなのに、そうゆうことが起こる。つまらないというか、ある人はこれは当然だが、これはおかしいと考える。それと、私との考えが違う場合がある。これは当然だが、だが見た目とか、直接的な被害がないと、何しろ立証も出来ない。だから、大体黙っているくらいが落ちで、まずはよそに文句をいいにゆくというのは、この年になってない。会社組織でもあるまいに、と思うこともある。
いろいろ、価値とか考え方は違うものだ、というのが大体の考えの中心だけど、だからといって、特に何かをするわけではない。サボるときもあれば、わからんように誤魔化したりはする。一々草抜きにまじめに取り組むこともなく、どぶの掃除だって適当である。それが自分に出来ること、あるいは毎日やっていることなら、これは自慢でもないが、さっさとやって、30分はかかるというものも5分で済ませる、そのくらいの感じで生きている。
あー、またぼやきになって来た。突然というか、やって来る、「槍」のようなものがある。人の判断というのは、違うものだ、という考えでなく、こうなっていないというのが、おかしいというわけである。これを細かく書けないし、書く気もないが、それにしても、いろいろやりにくいことは多い。これが、大きな組織で、その中で討論されるなら、まだ話しはわからんでもないが、個人の思い付きでそうゆう「槍」やら、「鉄砲玉」が飛んでくるというのも、困ったものである。
きょうは、雨の日で、珍しく梅雨らしくなった。大体曇りか、午後に晴れというもので、このままだと、まったく植物も生き絶え絶えになるな、と少し大仰に考える。その通りと思えるような、状態というのを見ることが出来る。
皆さん、そこはどうゆう土地かはっきりはしないが、春には春の、夏に夏の植物を植えられて、そのものは、大体今は乾いた状態で、生きている。なんだか人間の世界を反映しているようだが、さすがにそこには水道水もなく、またそのそばを流れる用水も、自然とそこよりも高い地面に上がるような、そうゆうシステムはなくて、乾き切った状態がある。結構肉厚なそうゆう植物だと、大丈夫なようで、でも大体は、やっぱり青息吐息である。
そこの上に、小さなシジミチョウが、いくつか飛んでいる。これを見ていると、シジミチョウのいる環境がここにはあることになって、嬉しいような気もするが、そのチョウは忙しく飛ぶばかりで、その動きを見ていると疲れる。
ときに目が回りそうにもなるので、途中でそれを追うことを止める。3匹のシジミチョウが、空中でときに絡み合ったが、瞬間にして別れ別れになったから、これは同じオスなら、オスのシジミチョウなのであろう。そのシジミチョウにやけに大きいものも見かけるが、無論普通のシジミチョウなのであろう。
小さなチョウだから、普通に歩くと気が付かず、紅色だとわかりやすいが、このチョウのことも知ったのが最近だから、捕まえはしないが、しかしどうゆうときに、シジミチョウがじっとしているか、わからない。過去に何度か、このチョウが、静かにしてくれて、接近することが出来たが、これも偶然かと思う。
でも、きっとそのチャンスはあるだろう。
最近は、昔になかった、つまらないこととかで、ガタゴトすることが多い。老化が一つの原因で、自分自身もその老化の真っただ中にいる。わかっていて、それでどうしていいかわからないことが多い。いろいろなややこしいこともこれからも起こるだろうが、このシジミチョウも見て、その小さいながらも精一杯飛んでいるのを見ると、
つまらないことは忘れた方がいいという結果は、明白というか、自明であることがわかる。世の中、するするとすり抜ける方法はないが、少しは利口にならないと、それこそ自滅しそうで、世渡りの策もまた考慮の余地がある。
水田のその一。水田は何も語ってくれない。これも悲しい。
少し水の量が少ないが、これは今は多分水抜きをやっている。酸素の問題である。
この広い水田を、昔は人の手で、苗を植えた。でも、こんな水田ではなかったのも事実。グニャグニャしていたのである。
曇り空。水田も、晴れで水が青く光ると、やっぱり見栄えがする。
マツバギク。今回は露光補正をなしにしてみた。普段は、マイナスで、1段か2段。で、このマツバギクの色も少し飛んでいる。やっぱり、マイナス補正かな。
ムラサキシキブの小さな花がもう咲いている。この植物ももう少し詳しく、分類されるようだ。中央辺りに、あまり見たくない、幼虫がいる。
ナンテンの花が、もしかしたらと思って見ていたら、花が咲いて黄色いオシベ?が、出てきた。若干にごりのある、色だが。