蟻のように、いつも新鮮に感じられる、道があるか。蟻の行進を見て、いつも思う。それにしてもどこからこんなにたくさん蟻が出てくるのか、不思議でしょうがない。一度だけだが真っ白い、どう考えても何かの卵というものが筋状に大量に土の中にあって、驚いたことがある。
蟻の、10cm当たりの個体数と、それにその行進の距離が、何百cmか測ってみると、その数がわかりそうだが、そんなことをしなくても、やたら多いという一言ですむと思う。その蟻が消える。どこかに移動したのかも知れない。蟻の営みというか、種の保存は純分だと思えるくらいで、しかし毎年出てくる、その数の多さにこれは、やはり驚嘆する。
道を歩くのも、疲れている場合があって、途中でおかしくなるときもあるが、きょうは持つものは傘だけにして、少し長い距離を歩いた。といっても、せいぜい長く見積もって、3、4kmだから、いかに大した距離でもなく、また歩く能力も衰えているというか、そうゆうものがない!ことがわかる。まったく、どうしてこんなことになったのだろう。
幸いか、寒くもなく、また歩いていると、この季節でどうしても汗ばむ気配があるから、ちょうど、それでいい状態でもあって、また気楽でもある。道も新しく出来るもので、そのそばには見かけない、新しい「いえ」も立っていて、これはまた一段と瀟洒であって、目を見張るものもある。変わったものだが、これを都会の感覚で見ると、どうだろうか。
画一化されている。昔の家がいいのに、なぜこんなデザインになるのか、そうゆう感じに映るのではないか?。
最近というまでもなく、新しく建ついえとか、新しく出来るコンビニとか、新しく出来る道路とか、これはまったく今風で、TVで見るものと同じである。
その後、田んぼの辺りを歩く。少し住宅地を離れると、田舎の香りがするかというと、そうゆうものもない。昔を保つのはむつかしいのだな。それから、妙な言い方にもなるかも知れないが、昭和のまだ50年代ごろ、その後半ごろに建てられた、そうゆう住宅地というと、こちらはそう違和感がない。でも、そうゆうものも時間がたつと、だんだんと変わってゆく。無理に昔を残すのはおかしいが、昔の感覚があってもいいような場合も考えられて、それを言うなら、今頃に残されている、少し昭和の匂いのする、そうゆう住宅だな、とこれを評価したい気にもなる。
時代とともに変わるものがあって、変わらないものもある。おかしなものだと思う。人は段々老いていって最後は忽然と消える。まったく、どこから現われるのか、そうゆうものもわからないし、またいつに消えゆくものかも知れない。謎めいた、そうゆう世界というのも、これもこれ以上に捉えどころもなく、最後には何がなんだか、わからなくなってゆく。
まるで、もう消える「ロウソク」のようなことを書いた。このままだと、本当に消えそうになるので、これではいけないと、最近だとこれしかない、ここの白いアジサイの、変化というもので、おしまいにしないといけない。
これはずいぶんと、明るい時間のもので、カマキリなども写っている。
見た目が妙で、中央の小さな花のオシベというか、モジャモジャが真横に伸びているが、これはこのサイズにおさめるため、わざと時計方向に90度、回転してあります。一番目立つのだけれど、横に長すぎ。
朝の早めの時間。右下の、装飾花の黒い点は、蟻。で、右上の黒いものが、何かの汚れかと思ったものだが、これが色は黒く見えるが、赤みがあって、そうゆう赤いインクの染みのようなものがいよいよ出る。いろいろな出方がある。
これも装飾花を見ているのだけど、右下のものの、さらに一番下に赤い点が薄っすら見える。他にも傷みのようなものがある。この花は最後は赤くなるのだけど、ことしはどうかなー。
中央の、玉のようなものの花。
少し離れた、ところ。これは、株が別かも知れない。花がリングのように見える、その半分だけ、を表示。全体を、また90度回転させたものはというと、
これが、そう。あーややこしい。顔を右側に90度回転さてて見てもらうとちょうどいいはずだが、辛いですね。装飾花は、向こう側にも咲いています。
これが出来るのが普通なのだけど。
アジサイを見るのも、いろいろ大変で、申しわけないです。
蟻の、10cm当たりの個体数と、それにその行進の距離が、何百cmか測ってみると、その数がわかりそうだが、そんなことをしなくても、やたら多いという一言ですむと思う。その蟻が消える。どこかに移動したのかも知れない。蟻の営みというか、種の保存は純分だと思えるくらいで、しかし毎年出てくる、その数の多さにこれは、やはり驚嘆する。
道を歩くのも、疲れている場合があって、途中でおかしくなるときもあるが、きょうは持つものは傘だけにして、少し長い距離を歩いた。といっても、せいぜい長く見積もって、3、4kmだから、いかに大した距離でもなく、また歩く能力も衰えているというか、そうゆうものがない!ことがわかる。まったく、どうしてこんなことになったのだろう。
幸いか、寒くもなく、また歩いていると、この季節でどうしても汗ばむ気配があるから、ちょうど、それでいい状態でもあって、また気楽でもある。道も新しく出来るもので、そのそばには見かけない、新しい「いえ」も立っていて、これはまた一段と瀟洒であって、目を見張るものもある。変わったものだが、これを都会の感覚で見ると、どうだろうか。
画一化されている。昔の家がいいのに、なぜこんなデザインになるのか、そうゆう感じに映るのではないか?。
最近というまでもなく、新しく建ついえとか、新しく出来るコンビニとか、新しく出来る道路とか、これはまったく今風で、TVで見るものと同じである。
その後、田んぼの辺りを歩く。少し住宅地を離れると、田舎の香りがするかというと、そうゆうものもない。昔を保つのはむつかしいのだな。それから、妙な言い方にもなるかも知れないが、昭和のまだ50年代ごろ、その後半ごろに建てられた、そうゆう住宅地というと、こちらはそう違和感がない。でも、そうゆうものも時間がたつと、だんだんと変わってゆく。無理に昔を残すのはおかしいが、昔の感覚があってもいいような場合も考えられて、それを言うなら、今頃に残されている、少し昭和の匂いのする、そうゆう住宅だな、とこれを評価したい気にもなる。
時代とともに変わるものがあって、変わらないものもある。おかしなものだと思う。人は段々老いていって最後は忽然と消える。まったく、どこから現われるのか、そうゆうものもわからないし、またいつに消えゆくものかも知れない。謎めいた、そうゆう世界というのも、これもこれ以上に捉えどころもなく、最後には何がなんだか、わからなくなってゆく。
まるで、もう消える「ロウソク」のようなことを書いた。このままだと、本当に消えそうになるので、これではいけないと、最近だとこれしかない、ここの白いアジサイの、変化というもので、おしまいにしないといけない。
これはずいぶんと、明るい時間のもので、カマキリなども写っている。
見た目が妙で、中央の小さな花のオシベというか、モジャモジャが真横に伸びているが、これはこのサイズにおさめるため、わざと時計方向に90度、回転してあります。一番目立つのだけれど、横に長すぎ。
朝の早めの時間。右下の、装飾花の黒い点は、蟻。で、右上の黒いものが、何かの汚れかと思ったものだが、これが色は黒く見えるが、赤みがあって、そうゆう赤いインクの染みのようなものがいよいよ出る。いろいろな出方がある。
これも装飾花を見ているのだけど、右下のものの、さらに一番下に赤い点が薄っすら見える。他にも傷みのようなものがある。この花は最後は赤くなるのだけど、ことしはどうかなー。
中央の、玉のようなものの花。
少し離れた、ところ。これは、株が別かも知れない。花がリングのように見える、その半分だけ、を表示。全体を、また90度回転させたものはというと、
これが、そう。あーややこしい。顔を右側に90度回転さてて見てもらうとちょうどいいはずだが、辛いですね。装飾花は、向こう側にも咲いています。
これが出来るのが普通なのだけど。
アジサイを見るのも、いろいろ大変で、申しわけないです。