パリ、リスボンの旅~Ⅳ.無名のものの記憶~

2006-11-26 21:52:41 | 旅行記

061126_7 リスボンの街なかに、古い屋外エレベータがあります。高低差のあるふたつの地区を結ぶためだけにあるものです。それに乗っている時間はたかだか30秒ほどでしょうか。それが動くのを待つのに十数分。いつ作られたのか、古い籠のなかでじっと時を待ちます。自分がどの時代にいるのか、ちょっとわからなくなるような感じ。

日本では、古いものを残していくのはとても難しいことです。また、個性がない民族だといわれながらも、何をやるにしても個性的であることが尊重されがちです。しかしリスボンのなかを彷徨っていると、そんな価値観のウラ返しのような感覚に出会います。

061126_8ランチに古いカフェにはいりました。他の店と同様に古びた店内に、質素なテーブルと椅子が置かれ、ぱりっと糊がきいた清潔なテーブルクロスが敷かれています。見ると店内は大理石と漆喰を基調とした仕上げで、もう随分と時を重ねています。窓枠は何度も深緑色のペンキが塗り重ねられています。昔からあるものが当たり前のようにあり続け、その中に気取ることなく普通に暮らす。それが美しいと思える。そんな生活が、この街にはあるようです。

061126_9 道すがらのパン屋。石で堅牢に築かれた建物のショーウィンドウのなかには、ころころとした飾り気のないパンがいっぱい。売り物であることを誇示しないその姿は、街の風景のなかに不思議な調和をもたらします。そう思って街を見渡すと、この街をかたちづくるひとつひとつの些細なものが、かけがえのない愛おしいものに思えてくるのです。建物の表面を覆うタイル、漆喰、石。そこから突き出すカンテラ。バルコニー、ゆらめく洗濯物。窓、鉄の扉、路面電車。歩く猫。そして足元の舗道に敷き詰めらた石ころ。どれもが無名のものたちばかりですが、自分の役割をわきまえているかのように、過度に主張することなく街並みの風景の中の一要素となっているかのようでした。そしてこのとき、僕もそのひとかけらになっていたのかもしれません。この世に生まれてきた時代はちがっても、それぞれが無理なく自分の居場所をもっているかのよう。

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今、僕の手元には一片の石ころがあります。そう、あの舗道のひとかけら。日本とは違い石材が豊富に採れる国ですから、日本の割り箸のように、建材で利用できなくなった端材の有効利用として、石を細かく砕いて舗道をうめているのでしょう。そんな無名の石ころが役割を与えられ、街の風景をかたちづくる。パリの街からはじまった今回の旅は、西の果ての街のこの小さな石ころのなかに静かにすいこまれていきます。

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コメント (2)
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