パリ、リスボンの旅~Ⅲ.寄る辺なきもの~

2006-11-19 21:02:40 | 旅行記

061119_6  もうもうと立ちこめる焼き栗の煙、くじ売りの怒号のようなかけ声。路面電車や車が、町角の陰からぬうっとあらわれては、地響きをたてながら脇をかすめ、また町角の陰に隠れていく。これが、メトロの駅から地上にあがって僕がはじめて見たリスボンの姿でした。薄暮時に佇みながら、あらゆるものが現れては消えていく。そんな寄る辺なさのようなものに、僕は支配されたのでした。

司馬遼太郎は「南蛮のみち」のなかで、旅とは初対面の印象を得るためにするものだ、といいました。その後どんな素晴らしいものをみても、最初の印象のういういしさにはかなわない、と。スペイン~ポルトガル国境ちかくの小さな鉄道駅に施された質素なアズレージョ~ポルトガルの絵付タイル~に滑稽なほど固執したときのことが書かれています。僕にとっての初対面のリスボンは、とても動的で衝撃的なものでした。でも、何を見たのかと問われれば、よくわからない。そこにある空気そのものだったのでしょう。目には見えない何かが、詰まっている。

リスボンは坂の多い街です。現在の街並みは、数百年前の大震災や数十年前の大火災のあと復興してできたものだそうです。複雑怪奇な入り組んだ街並み、直交軸で構成された硬質な街並み、 起伏にあわせて道がうねる街並み、そんないろいろな街並みが隣り合っている不思議な雰囲気をもっています。ですから中心というものがないのです。すべてが、脇をすりぬけていくような感じ。そしてその行く先は、海。そんな路の果てるところをかたちづくる街並みは、タイルや漆喰が施され、カラフルなようでいて、少しずつ、土にかえっていくような感じ。

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そんな古びた街の中をElectrico de Lisboaとよばれる路面電車が、悲鳴のようなブレーキ音をたてながらひた走ります。古びた車体には幾重にもペンキが塗り重ねられ、記憶の彼方からあらわれ、そばをかすめていくのです。

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リスボンでも有数の古い歴史をもつアルファマ地区。その麓にカテドラルがあります。パリのノートルダムと同じように二本の塔をもち、西に顔を向ける教会。パリのノートルダムは、ものごとの中心として生まれ、広場に面して人々に正面から向き合います。ところがリスボンのカテドラルは、町角からすこし恥ずかしそうに顔をのぞかせています。その隙間から時折Electrico が悲鳴をあげながら走り去っていきます。そしてまた訪れる静けさ。

何かが立ち現れ、そして過ぎ去っていく。カテドラルの中に身を置き目をつむっていると、そんな予感に満ちあふれます。そしてそれらが、必ずしも目に見えるもだけではないということも。ノスタルジー、メランコリー。この街を表現する言葉のなかに、静かに沈んでいきます。

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コメント
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