ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『イラク わが祖国へ帰る日 ( 反体制派の証言 ) 』

2017-08-12 00:49:08 | 徒然の記

 勝俣郁子氏著「『イラク わが祖国へ帰る日 ( 反体制派の証言 ) 』( 平成15年刊 日本放送出版協会 ) を読みました。

  東京生まれの氏は、国際基督教大学を卒業後、 ジャーナリスト、TV・ラジオのキャスターを務めたのち、 ペルシャ湾の島国バーレーンで暮らしています。東欧崩壊後の難民問題に揺れていたウィーン、 北アイルランド紛争の和平交渉が始まった頃、ロンドンで暮らし、現在は東京在住。

 季刊「アラブ」の編集委員、放送大学の講師。これがネットで得た氏の略歴です。

 イラクの独裁者サダム・フセインを、アメリカの軍事力をテコにし、どうすれば殺せるかと、イラクの反体制派の指導者たちが命懸けの戦いをしていた時の話です。

 サダム=フセインは、1979 ( 昭和54 ) 年からイラク大統領となり、イランとの戦争、 クウェート侵攻を強行した独裁者であることは、日本でもよく知られています。

    1991 ( 平成3 ) 年の湾岸戦争でアメリカに敗れ、2003 ( 平成15 ) 年にはアメリカ軍が侵攻したイラク戦争で敗れ、捕らえられて、2006 ( 平成18 ) 年に処刑されました。 

 この本は、フセインが処刑される以前に出版されたことになります。「アラブ」関係の本を読む時、私はいつも沢山のことに悩まされます。第一番目は、登場してくる人物の名前です。

  「イヤド・アル・アラウィー」「サーレハ・アル・シェイクリー」「ムハンマド・バキル・アル・ハキーム」、どれも長くて、読みにくく、一度では覚えられません。

 馴染みのないアラブの国々を、よく知っておこうと調べますと、例えばイラクは、世界地図のどこに位置するのか。ネットで探しますと、「西アジア」でも出てきますし、「中近東という分類でも出てきます。」

 「西アジアの国家としては、一般に、アフガニスタン、イラン、イラク、トルコ、キプロス、シリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン、サウジアラビア、クウェート、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦、オマーン、イエメン、パレスチナおよびエジプトの一部がここに属す。」と、説明されています。「一般に」という言葉がついていますから、別の場合には、別の国が入るのだと思われます。

 しかし「中近東」となりますと、さらに曖昧になります。

 「日本の外務省による報告書には、北アフリカからトルコ、アフガニスタンに到る国家群を、中近東としている例がみられる」「以下の分類は一例であり、流動的である。」

  [  中東および近東のどちらにも属する国  ]

   イスラエル、イラク、シリア 、トルコ 、パレスチナ自治政府 、ヨルダン 、

   レバノン

 [  中東に属する国  ] 

   アラブ首長国連邦 、イエメン 、イラン、エジプト、オマーン、カタール、

   クエート 、サウジアラビア 、バーレーン

 [  拡大中東に属する国  ]

   アフガニスタン、アルジェリア、キプロス 、スーダン 、ジブチ、ソマリア

    パキスタン 、モーリタニア、 リビア

 どうして、こんな面倒な準備をするかと言いますと、イラクの内乱や紛争を理解するには、周辺国との位置関係が重要になるからです。

 同じ民族が国境を越えて住み、同じ宗教が国と無関係に広がっています。同一民族なら、国境を越えて紛争に参加し、宗教が違えば、同じ国の中でも殺し合いをします。

 つまり政府があっても、住んでいる人間は、国境を無視して連携し、助け合い、憎悪し、戦うのです。日本人にはとても理解が難しい世界です。

 こういう本を読んでいますと、日本のマスコミが、どれだけ省略した情報を私たちに伝えているかが分かります。事実の捏造や偏向ということでなく、こうしかできないのだと理解できます。日本国民向けに、正確に、詳しく、公正になどと言っていたら、マスコミは、毎日本一冊分くらいの記事を書かなくてならないでしょう。

 本を手にしていますと、森友とか加計とか、自衛隊の日報とか、取るに足りない問題を、国を挙げて騒ぐ滑稽さも痛感させられます。反日、左翼の政党が「憲法を改正すると、日本が戦争に巻き込まれる。」と大騒ぎするのが、どれほど馬鹿げた理屈かが分かります。

 マスコミが一つになり、「安倍政権の暴走」「独裁者安倍」と報道するのも、現実離れしています。言うまでもないことですが、マスコミの言葉通りの総理なら、新聞もテレビも即刻廃刊・停止されます。経営者や記者たちは、裁判なしでの処刑です。

 独裁者というのは、イラクのフセインやリビアのカダフィーのように、軍事力で国民を押さえつけ、自分や家族、あるいは忠誠を示す部下のためだけに政治をする人間を言います。獣医学部新設を「お友達」のためなんて、そんなチャチなことはやりません。

 ということで、今晩は書評までいかず、入り口のところで終わってしまいました。明日から気分一新し、ブログにかかろうと思います。スッカリもつれて、解けないロープのようになった、複雑怪奇な国々の事件を読みますと、やはり日本は単純明快、平和でいい国だと思わされます。

 日本中の人に読んでもらいたい気持ちに駆られますが、事前の準備だけで大変なので、それは無理な話です。

 だから私たち日本人は国の有り難さを忘れ、大変だ大変だと、保守も反日も、これからも変わらず小さな問題で騒ぎ続けるのでしょう。ここまでイラク問題が複雑になりますと、ブログを訪問される読者が減るのも不思議はありません。

  「それもまた、人生。」でしょう。

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終戦記念日

2017-08-09 22:56:58 | 徒然の記

 毎年今頃になりますと、テレビも新聞も、「終戦記念日」の特集をします。

 もう何年前だったか、忘れましたが、「終戦記念日」という言葉に我慢がならず、どうして何時までもこんな言葉を使うだと、NHKだったか、朝日新聞だったかに、八つ当たりしたことがありました。

 結婚記念日とか、入学記念日とか、「記念日」という言葉は、昔から日本では目出度い日を心に刻むため、使われてきました。国が焦土と化し、何十万人という国民が、原爆と無差別爆撃で殺され、挙句は連合国軍に占領され、戦争の責任は日本だけにあると言われ、罪人国家として裁かれた、そんな敗戦の日が、どうして「記念日」などという言葉で語られるのかと、ずっと疑問でした。

 ところがなんと、平成29年8月9日のNHKニュースで、「終戦記念日」という言葉が変わりました。アナウンサーの背後に表示された言葉は、「終戦の日」でした。事実を飾らずに伝える「敗戦の日」とすべきと考える私は、これでも不満ですが、「記念日」という愚かしい言葉がなくなったことだけでも、大きな「前進」として喜びます。今日の夕方のニュースで、私以外に何人の人が気づいたのか知りませんが、特記すべき「NHKの変貌」です。

 長年にわたるNHKの偏向報道への、国民の怒りがやっと届いたのでしようか。国民を間違った方向へ誘導する、反日のプロパガンダーばかりするのなら、NHKなど不要だ、解体してしまえと、国民の憤りがやっと届いたのでしょうか。敗戦後、70余年使い続けたバカな言葉を、本日止めました。

 北朝鮮や中国の脅威にさらされているというのに、森友や加計問題など愚にもつかないニュースばかりを報道し、国の安全を置き去りにした腐れマスコミが、これほど国民の怒りをかったのは前代未聞の出来ごとでした。

 国民の声が高まり、解体されてはたまらない、受信料の不払い運動に繋がっては大変と、やっと危機感を持ち始めたのでしょうか。国の危機より、自分たちの組織の危機の方に重点があるとしましても、こうした敗戦以来の歴史的間違い(まやかし)を改めるのは、なんであれ一歩の前進です。

 この際、もう少し言わせて貰えば、戦争の好きな人間はいませんし、戦争の恐ろしさや残虐さを憎むのは、国民の共通認識です。その戦争に反対する方法として、「戦争は繰り返しません。」「みんな仲良くしましょう。」「平和を大切にしましょう。」と、こんな空疎なスローガンを、念仏のように唱えていれば平和が来ると、毎年そんな報道ばかりするのもやめましょう。

 敗戦以来、腐れマスコミの筆頭はNHKだったのですし、しかも受信料のお陰で濡れ手に粟の「大儲け」をしているNHKは、なおさらこれまでの偏向と驕りとマンネリを反省し、国民のための公正な報道機関に脱皮しなければなりません。広島、長崎の原爆追悼の報道についても、本気で反省し、改める必要があります。

 大東亜戦争の責任が日本だけにあり、日本さえ暴走しなければ世界は平和になると、これが東京裁判の判決でした。いまだにその不真面目で、不当な判決を後生大事にし、日本の過去を否定し、ご先祖を憎み、国を蔑んでいますのは、反日・亡国の政党です。多くの日本人が敗戦の痛手に打ちひしがれている時に、あたかも正義の味方のように国民の前に姿を現したのが、反日の左翼政党でした。

 マッカーサーの後押しもあったため、彼らは大手を振って活動を始め、マスコミも後に続き、左翼の宣伝記事を書けば部数が増えると分かり、次第に腐敗したマスコミになっていきました。詳しい話は省略しますが、「戦争反対」「平和」「人権」「自由」など、あたかも、こうした言葉を言えるのは自分たちだけだという顔をして、左翼活動家たちが跋扈してきました。

「原爆追悼式典」も、敗戦の日の各種行事も、左翼活動家たちと、腐れマスコミが主導権を握り、自分たちだけが正義だという顔で、偏向報道を拡散してまいりました。でももう、そんなバカなお芝居は、今年で終わりにせねばなりません。「原爆の惨禍」と「戦争の犠牲者への思い」は、「国民共有の記憶」であり、「国民共有の追悼」です。彼ら左翼活動家たちの占有物ではありません。

 だから原爆反対運動だって、共産党と社会党のなすがままで、一本化すらできていません。すべての原爆に反対という社会党と、ソ連や中国の原爆には反対しないという共産党が対立したからです。ソ連や中国が何をやっても反対せず、欧米の原爆だけを責めるなど、自分勝手なおかしな理屈です。

 広島でも、長崎でも、政府や安倍総理には苦情を述べますが、中国やソ連、米国には、なんの文句も言いません。それどころか、「私たちは過ちを繰り返しません」などと、見当はずれの反省をしています。パチンコ業界の金と、在日研究者の助けも借り、すぐ隣で核開発をしている北朝鮮にだって、何も言いません。テポドンと称するミサイルの頭に、核をつけて発射すれば、明日にでも日本が惨禍に見舞われるというのに、一言も言及しません。

 こんな愚かしいお芝居の行事は、即刻やめなくてなりません。マスコミの報道の仕方にも、問題があります。式典を邪魔する活動家たちの横暴も、マスコミは全く報道しません。違った意見を持っている被爆者や、市民の意見は報道しません。

 私は利害関係者でありませんから、はっきりと言いますが、広島の市長も、長崎の市長も、現在の市長になる前は、反日左翼政党にかかわる人間でした。

 

 しかし、左翼政党やマスコミより、もっと悪いのは、保守自民党です。かくも長期間にわたり、左翼政党の傍若無人を放任し、マスコミの偏向報道を黙認してきたのですから、本当に非難されるべきは、彼らです。

 さらに悪いのは、こんな不甲斐ない自民党の議員を、唯々諾々と当選させてきた私たち国民です。「終戦記念日」から「終戦の日」へと、NHKでさえ軌道修正したのですから、私たちだってやらなくてどうするのでしょう。 

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羊と鋼の森

2017-08-08 16:55:19 | 徒然の記

 宮下奈都氏著「羊と鋼の森」(平成27年刊 文元春秋)を、読み終えました。

 氏は昭和42年福井県に生まれ、上智大学文学部を卒業後、平成16年に「静かな雨」で文学界新人佳作賞となり、文壇にデビューしました。今回は図書館でもらった廃棄図書でなく、家内が借りてきた現役の本です。本屋大賞を受賞した話題の作だといいます。

 村田喜代子、梨木香歩、上橋菜穂子、宮尾登美子氏など、家内は女性の作家に偏っていますので、本であればなんでも構わない私の方が、感動や感激など、喜びの範囲が広いのだと、密かに自負をしています。

 さて肝心の本ですが、一気に読みました。一言でいいますと、ピアノの調律師のお話です。日本にも世界にも、プロと呼ばれる人々が沢山います。芸術家もその仲間に入るのかどうか、知りませんが、ひとかどの域に達する職人は、間違いなく「その道のプロ」です。

 調律師という職業があることは知っていましたが、これほど奥深く、微妙な仕事だとは思ってもいませんでした。素晴らしい調律師は、ピアニストの演奏力を高め、聴衆に訴える音作りの、芸術家でもあると、作者のおかげで知りました。

 本の題名である「羊と鋼と森」という言葉にしても、なかなか工夫されています。鋼は、「はがね」と読み、ピアノ線を指していますが、続く「羊と森の」言葉が、凡庸でない作者の技でしょう。弦と呼ばれるピアノ線を叩くのは、フェルト製のハンマーで、氏の言葉で説明されるとこうなります。

「ほら、この弦をハンマーが叩いているでしょう。」「このハンマーは、フェルトでできているんです。」

「昔の羊は、山や野原で、いい草を食べていたんでしようね。」「いい草を食べて育った、いい羊のいい毛を贅沢に使って、」「フェルトを作っていたんですね。」

 山深い土地の中学校で、主人公の少年は、体育館の隅でピアノを調律している男と話をしています。男の説明を聞き、少年は、家の近くの牧場に飼われている羊の様子を思い浮かべます。そして、思わず調律師に質問します。

「もしかして、ピアノに使われている木は、松ではないですか。」

「スプルースという木ですが、確かに松の一種ですね。」

少年の心に大雪山の風景が浮かび、鮮やかな森の景色と森の匂いまでを感じます。そして、思わず言ってしまいます。

「僕を弟子にしてください。」

 と、これは本の10ページまでですが、この語り口には、どうしたって引き込まれてしまいます。大賞をうける作家というものは、その人自身もプロの職人みたいなもので、自分だけの言葉を持ち、それを文章に組み立てています。前に読んだ藤沢周平氏も、稗島千江氏もそうでしたが、自分の言葉と、リズムを持ち、語り口の巧さで読者を魅了しました。小説のジャンルは違っても、ひとかどの作家には、共通する非凡さがあり、その非凡さが作者の研鑽の賜物なのでしょう。

  調律師の専門学校を卒業した少年は、ピアノの調律をする専門の会社に就職します。社長の他に調律師が四名、受付と事務の女性が一人、他に営業が何人かいて、全部で約10名という小さな会社です。広い仕事場には、調律練習用のピアノが何台か置いてあります。見習いの少年は先輩たちに連れられて仕事を手伝い、つねにノートを身につけ、大切なことをメモしていきます。

 仕事の内容、注意点、自分の失敗や先輩の優れたところなど、懸命に書き記し、読み返して自分を反省します。彼らの職場は、個人の家庭、学校、コンサートホールと、大きく分けると三つです。どこでやっても調律の仕事は同じだと思っていましたが、それぞれが別だと教えられ、感心したり驚いたりでした。

 同じく先生と言っても、学校と塾の教師は違いますし、小学校、中学、高校、大学となりますと、資格も条件も異なっています。清潔な室内に置かれたピアノと埃だらけの部屋に置かれたピアノでは、仕事のやり方を変えなくてなりません。耳の肥えた観客のいる会場にあるピアノと、元気な生徒たちのいる学校のピアノでは、調律する箇所と方法が変わります。

 調律師たちの個性も様々です。自分でピアノを弾けなくても、音だけは聞き分ける耳を持ち、演奏者の心まで読むという、主人公のような人間もいますが、プロを目指していながら、断念した調律師もいます。あるいはピアノでなく、別の楽器にのめり込んでいる者もいます。

 波乱万丈の筋立てがなくても、登城人物の個性のぶつかり合いが面白くて、途中でやめられませんでした。

 「もう、読んだの。」と、家内がびっくりするほどの早さでした。私たちは別の思考をしていますから、読後の感想を述べ合うことはしないのですが、珍しく家内が気持ちを語りました。

「この本を読むとね。いったい自分の人生は何だったかって、考えさせられるね。」「こんな風に、一つのことを一生懸命に追いかけたなんて、したことなかったからね。」

「主人公にも兄弟がいて、互いに競争しあって、」「でも最後には、兄弟だから和解する。」「うちの子たちも、そうなってくれるだろうって、希望が湧いたわ。」

 そうか、そんなことを考えていたのかと、感動している妻と違い、私は別のことを考えていました。息つく間もなく読みましたが、登城人物のすべてが、素晴らしいプロばかりで深遠な意見の持ち主だというのは、不自然ではなかろうか。会社全体が天才とプロの集まりだなんて、それは作者の過剰サービスではなかろうか。

 藤沢氏や稗島氏の作品には、ごく普通の人間や何でもない人間が混じっていたが、リアリティーという面からすれば、その方がいいのではないか。・・・・・、だから私は、黙って本を返し、そして、少しばかり反省もしました。

どんな本でも読むので、感動と感激の範囲が家内より広いとしても、素直に感動できる読者と、いつも何がしかの短所を指摘してしまう自分と、はたしてどちらの方が幸せなのだろう・・・・。

 

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電波オークション

2017-08-07 14:50:55 | 徒然の記

 新聞もさることながら、テレビ各社の「安倍叩き報道」の醜悪さに呆れ果て、テレビ業界の現状について調べる気になりました。

 業界と政府の関係や関連する法律など、知っている人には当たり前なのでしょうが、私のような門外漢には、驚くような事実ばかりでした。素人ですから、素人らしく大胆に話を進めてみようと思います。

 まず電波使用料というものがあります。これは電波法に基づき、総務省がテレビ各社から徴収する料金をいいます。大雑把に言いまして、日本のテレビ業界は、地方の小さな地元テレビを除外しますと、全国を6社が独占しています。平成22年のデータですが、各社が総務省に払っている電波使用料と、各社が得ている事業収入との比較がありました。

 事業収入とは、NHKで言えば国民からむしり取っている受信料で、民放各社ではスポンサーから受け取る広告宣伝料のことです。各社が国へわずかな使用料を払い、どれほど大きな収入を得ているのかが一目瞭然です。

 〈 支払っている電波使用料   各社の事業収入     収入に占める使用料の割合 〉

  N H K   21億1600万円     6,800億円       0.31%

 日本テレビ    4億9600万円     2,580億円       0.19%

 テレビ朝日    4億7500万円     2,106億円       0.23%

 T B S     4億8600万円     2,111億円       0.23%

 テレビ東京    4億6400万円        919億円         0.50%

 フジテレビ    4億8200万円     3,282億円       0.15%

 他地方局    14億8200万円      1兆355億円        0.14%

 計 (128局)    60億192万円        2兆8157億円       0.21%

 たった21億余円を払い、6,800億円を手にするNHKを筆頭に、テレビ各社の経営は濡れ手に粟のぼろ儲けです。

 金が余るから、出演する左巻きの評論家や文化人にたっぷり出演料を支払い、社員たちに高給を払い、それでも余るから子会社を作り幹部社員の老後に備える。これほど国に手厚く守られながら、言いたい放題の政権批判をしているというのですから、不思議でならないテレビ業界です。

 さて、ここで「電波オークション」という考え方が出てきます。限りある電波を、安い使用料で大手の6社に貸与するのでなく、競売でライセンスを販売するという方式です。魚河岸のセリと同じで、希望者が自由に値をつけ、一番高い値段をつけた者が落札します。

  数字が苦手なので詳しいことは分かりませんが、ネットの情報では、オークションをやりますと、その度に数千億円から数兆円にもなる落札収入が、国庫に入るようになるといいます。

 どうしてそうなるのか知りませんが、現在の政府(総務省)は、全国のテレビ局から年間たったの60億円しか使用料を得ていませんが、オークションを実施すると年間200~300億円の収入になるといいます。

 こういう政策は日本が考えたものでなく、すでにアメリカ、イギリス、フランス等の欧米諸国で導入され、国家の大きな税収源になっているといいます。

 無駄な予算を大胆に削り国民生活へ回すと、国民重視の立派な公約を掲げ、昔民主党が政権についた時がありました。私は知りませんでしたが、彼らは政権内で「電波オークション」の検討をしてたそうです。

 民主党は、次の電波割り当てから入札を実施することを閣議決定し、国会に電波法改正案を提出していたのです。しかし安倍政権と交代しますと、新藤義孝総務相が「今国会に法案を提出することはない」と言明し、総務省もオークション制度の導入を撤回する電波法改正案をまとめました。

 私の得た情報源は、反安倍政権の立場に立っているらしく、厳しく批判しています。

  ・安倍政権は「富の創造」 を掲げたアベノミクスの陰で、国民の資産を増やす重要な法案をひそかに葬り去った。

  ・もったいないだけではない。その裏には、安倍政権の大メディア懐柔の思惑が秘められている。

 民主党政権で仕分け人を務め、電波オークション導入を提言した鬼木甫・大阪大学名誉教授(経済学)の意見です。

 鬼木教授の意見を、もう少し紹介しましょう。

   ・新藤総務相はオークション制度の撤回理由を、資金力のある事業者が周波数を独占しかねないと説明しているが、それはおかしい。
 
  ・欧米諸国はほぼ全ての国でオークションを導入し、東南アジアでも一般的であり、東アジアで導入していないのは中国、モンゴル、北朝鮮と日本だけです。

   ・メディア側にすれば、オークションが導入されれば、外資など新規業者がライバルとして参入し新たな脅威になる。
 
  ・それに対抗するには、現在支払っている電波料に加えて、オークションで競り勝つだけの、高額な費用が必要になる。だから制度導入を阻止したいわけです。
 
 ここで私は、いろいろなことを学びました。外資規制をせずオークション方式を導入すれば、資金力のある外資が、国の重要な情報産業を支配します。反日・亡国の民主党ですから、おそらく彼らの電波法改正案には、外資規制が無かったはずです。
 
 進藤総務大臣が反対したのは、当然の話です。
 
 政治とは、奇妙なものです。恩を売ったはずのテレビ各社から、政権批判の集中砲火を浴びています。
 
 外資から日本の情報産業を守るという、安倍政権の基本政策は正しいとしましても、その裏に大手メディア懐柔の思惑が秘められていたという、鬼木氏の指摘にもうなづけるものがあります。
 
 安倍総理はテレビ業界に恩を売り、当初は、反政府報道を少なくさせたのかも知れません。しかし総理が憲法改正を本気で言い出しますと、腐れマスコミが正体を現し、寄ってたかって「安倍叩き」を始めました。
 
 総理は、ここで大きな間違いをしました。新聞だけでなくテレビ業界も、そこで働いているのは日本人ばかりでなく、反日の帰化人や在日が沢山いて、彼らが実権を握っていること。・・・この点を軽視し過ぎきました。
 
 韓国や朝鮮あるいは中国は、日本が良かれと思ってしたことや、好意の支援を受けても、時間が経過すると綺麗に忘れ、有ること無いことで文句をつけ、攻撃してきます。慰安婦問題や、南京問題で苦い思いをしているはずなのに、国内問題だからと、彼らに情けをかけたのが間違いでした。
 
 総理だけでなく、新内閣の閣僚諸氏に次の提案します。
 
 1.   反日と売国のテレビ各社に、手厚い保護は不要です。亡国の腐れマスコミを正すため、外資規制を明確にした上で「電波オークション制度」を導入すべし。
 
 2.  反日だけでなく、反安倍としても名を高めた野田聖子氏は、総務大臣として全身全霊を傾け、「電波オークション制度」を導入すべし。
 
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『私の昭和史』 - 5 ( 白石正義氏と家永三郎氏 )

2017-08-05 18:31:48 | 徒然の記

 「家永三郎博士の日中戦争観」と表題をつけ、白石氏が意見を述べています。

 反論という強い調子でなく、語りかけるような叙述です。122ページから128ページまで、7ページを使っていますから真摯な意見です。

 ・ここで私は、日中戦争に対する独特の見解を持つ家永三郎博士の著書、『 太平洋戦争 』 より抜粋借用して、読者各位に披露し判断を仰ぎたいと思う。

 家永氏の著書を読んでいませんので、ハッキリしたことを言えませんが、氏が紹介した文章を見ると、家永氏は日本軍の国際法違反と、国際戦争犯罪の事実を強調しています。

 日中戦争に関する氏の意見の特色は、他の学者のような中国侵略に重点を置かず、ソ連共産主義との戦いであったと断定するところにあるようです。

 ドイツ・イタリアとの三国同盟も、真の目的はそこにあるとし、日中戦争の最中でも、ソ連国境に達すると日本軍は故意に武力を行使し、進んでソ連との戦闘を交えたと、主張します。

 昭和13年の張鼓峯事件も、昭和14年のノモンハン事件も、日本軍が行った威力偵察から始まったという意見です。

  白石氏の反対意見を、紹介してみましょう。

 ・家永教授は、徹頭徹尾、日本の帝国主義の支那大陸侵略の跡付けと、日本陸軍軍閥の野望達成のための侵略行為と、その論断に終始しているかに見える。

 ・概して敗戦後の、大方の学者や文化人と称される人たちは、今次大戦の戦争責任はすべて日本側にあるという考え方で、大同小異一致しているようである。

 ・しかも大筋において、連合国側の極東軍事裁判の判決の内容より、一歩も踏み出していない。

 ・筆者は、敢えて勝者の横車とまでは言わぬが、これらの人たちに反論する一つの論拠として、私の体験や実際の見聞を基礎にして、ノモンハン事件勃発前夜の現地の状況を、申し上げたいと思う。

  白石氏はノモンハン事件が始まる1年前に、関東軍特務機関員として、8ヶ月をかけて現地を踏破しています。

 あたりは密林地帯で国境らしい柵も無く、知らぬ間にソ連領に入ってしまうことが度々あったといいます。付近の灌木が切り払われ国境の明確な場所もあるが、入り組んだ丘陵や湿地帯が多く、日本軍は故意に越境し戦闘を行ったのでないと反論します。

  ここで寄り道をし、家永氏個人について述べたいと思います。
 
 「ねこ庭」では先日、「変節した学者たち」とというタイトルで、氏のことを取り上げました。まず氏の略歴を紹介します。

 ・大正2年に愛知県に生まれ、昭和12年に東京帝国大学の文学部を卒業

 ・平成14年に89才で逝去。日本の思想家として著名

 ・東京教育大学の教授を長く務め、東京大学、東京女子大学でも、日本思想史の講義を担当

 ・氏は学生たちに、占領軍の対日本政策が民主化より再軍備へと変わったため、政府の主張が再軍備へ向かい、憲法改正へ動いていると教えた。

 ここからが、白石氏の紹介する家永教授の意見です。
 
  ・当時の教科書で、愛国という言葉が使われておりましたが、もとより広い意味での愛国ではなく、軍国主義的な、あるいは民主主義と切り離された、国家主義という意味での愛国を意味するものでありました。
 
  ・学校では基本的人権を教えるより、むしろ権力者に対する国民の従順な気持ちを養成しようと、こういうことになってしまったのであります。

 ・私は、単にこういう事実が昔あったことを申したいのでなく、実はそれとまったく同じことが、私たちの目の前で繰り返されていると申し上げたいのです。

 ・せっかく日本国憲法の精神が、国民に浸透してきた時だというのに、政府が教育を通じて、これをなし崩しにしようとしているのです。

 反権力的自由主義者としての氏の活動が、マスコミにこぞって支援され、戦う自由主義者として有名になっていきます。

 長くなるので詳細は省きますが、昭和29年の「東大ポポロ事件」、昭和34年の「東京教育大学 ( 現筑波大学 ) の移転問題」、昭和40年の「教科書検定違憲訴訟」など、いずれも権力をかざす政府や大学と戦う教授として新聞を賑わせ、学生たちから大きな共感を得ています。

 真偽のほどは分かりませんが、ネットで偶然見つけた氏の友人の話を、参考として再度紹介します。

 ・家永は当初から反権力志向だというわけではなく、青年期には陸軍士官学校の教官を志望していた。

 ・試験に合格しても胃腸に慢性的な持病があり、身体検査で落とされるという経歴を持っている。

 ・戦後は昭和天皇にご進講したり、学習院初等科の学生だった皇太子殿下に歴史をご進講するなど、皇室との関わりを持っていた。

 ・昭和22年に、「教育勅語成立の思想史的考察」 という論文を出し、昭和23年には、「 日本思想史の諸問題」という論文を出し、家永は明治天皇と教育勅語を高く評価している。

 ・また、昭和22年に冨山房から出版した『新日本史』でも、明治天皇に対する尊崇の文章を記述しており、戦後も、数年間は、穏健かつ保守的な史観に依拠する立場を取っていた。

 ・家永の思想が反権力的なものに変化したのは、昭和25年代の社会状況に対する反発が背景にあり、憲法と大学自治に対する認識の変化があったといわれている。

 信念をもつ学者なら、世の中がどう動こうと変わらないはずです。その動きに、自分が一緒になって豹変してどうするのでしょう。
 
 反戦と平和、人道主義の朝日新聞に、沢山の話題を提供したためでしょうか。氏は、亡くなったのちにも朝日新聞から厚遇され持ち上げられました。
 
 朝日新聞の追悼記事では、父親に先立たれた家永氏が貧しい生活の中で学問に打ち込んだ、と書かれていました。
 
 しかし父親が亡くなったのは、氏が35歳のときであり、既に勤務して2年が経過していました。父君は、陸軍少将・家永直太朗氏であり、陸軍少将の恩給は父君が死ぬまで月額240円前後が支給されていました。
 
 小学校の校長の月給が、100円前後の時代ですから、とても貧しいとは言えず、家永氏が苦学したという話は大嘘でした。
 
 捏造の追悼記事を書いたのは、朝日新聞の高橋庄太郎記者です。
 
  サンゴ礁損傷の嘘記事、慰安婦記事の大嘘など、いずれも社長が辞任した捏造報道ですが、朝日の記事捏造癖が常に不動だったことが分かります。国民が気づかなければ、誤報でも嘘でも頬かむりする朝日の卑しい体質がここでも表れています。
 
 家永氏の話で本題を外れましたが、豹変した家永氏の姿こそが、白石氏の心の中心にあったのでないかと推測します。
 
 氏の父君が陸軍少将であったことを、諜報機関にいた白石氏が知らないはずはなく、愛国者である氏は、家永氏の豹変が許せなかったのではないでしょうか。
 
 悪し様に攻撃していないのは少将へ礼節であり、子息である家永氏への思いやりだったのかもしれません。
 
 私の勝手な想像ですが、氏は家永氏と同じ大正2年生まれで、同じ時代を生きていたため、父君を裏切った家永氏の無節操が許せなかったのかもしれません。白石氏は、関東軍憲兵司令官加藤中将の言葉を胸に刻み、シベリアから帰国した軍人だったからです。
 
 満蒙開拓団やノモンハン事件の悲劇、ソ連軍の侵入と関東軍の消滅など、まだ多くのことが書かれていますが、紹介はここまでと致します。
 
 しばらく休憩し、庭の水やりやバードバスの掃除などして、白石氏の著書との巡り合いを噛みしめると致しましょう。
 
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『私の昭和史』 - 4 ( 尾崎秀実と植村隆、元朝日新聞記者 )

2017-08-04 16:15:56 | 徒然の記

 ゾルゲ事件については、ほとんど知りません。朝日新聞憎しで固まっている私は、ゾルゲに協力し日本の国家機密をソ連に渡したのが、朝日新聞の元記者・尾崎秀実だったと、飽くまで「朝日新聞」という言葉がメインで、そのくらいの知識です。

 白石氏の本を「ねこ庭」で取り上げたので、改めてネットで調べました。

  ・ゾルゲ事件は、リヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織が、日本国内で諜報・謀略活動を行っていたとして、昭和16年9月から翌年の4月にかけて、その構成員が逮捕された事件である。

 ・組織の中には、近衛内閣のブレーンとして日中戦争を推進した、元朝日新聞記者の尾崎秀実もいた。

 ・昭和19年11月7日、ゾルゲと尾崎の死刑が執行された。

   壮大な謀略を実行したスターリンは、不動の大政治家のように語られていますが、日中戦争前のソ連は、革命後やっと20年になろうとしている時期でした。
 
 共産主義を敵視する欧米諸国からは、厄介視され、孤立していました。そればかりでなく政権内の権力闘争も絶えず、スターリンは政敵と命がけの戦いをしていました。
 
 政権基盤を確固とし、一刻も早く国内経済を確立させてと、彼は社会主義国家建設の最中でした。ヨーロッパではヒトラーが近隣諸国を侵食し、アジアでは、日本が満州でロシアと対峙していました。
 
 ドイツと日本を敵に回し、同時に戦争をする国力がなかったので、スターリンは日本軍の動向から片時も目が離せませんでした。
 
 日本が何時中国と戦争を始めるか、いつ米英と戦争をするのか。その情報を得ることが、ソ連の存亡にかかっていました。中国や英米より前に、日本がロシアとの開戦を決意したらと、スターリンは何よりそれを恐れていました。
 
 敗戦国となり連合国に裁かれ、日本が苦難の道を歩き出すと、国内の反日左翼たちが一斉に政府と軍部を批判し、攻撃を始めました。
 
「勝ち目のない、無謀な戦争に政府は走った。」
 
 「負けるとわかっている馬鹿な戦争に、国民を駆り立てた。」
 
 「嘘とまやかしのスローガンで、国民を騙した。」などと、今も続く日本批判が開始されました。
 
 氏の本で初めて知るのですが、スターリンが恐れていたのは、日本だったということです。
 
 世界を一度に敵に回し国力以上の戦争をした、というより、スターリンの戦略に追い詰められた訳ですから、当然敗れます。だが当時の日本軍は、それだけの備えと実力を持っていたということも教えられました。司馬遼太郎氏の意見が、間違いだったことも分かります。
 
 当時も現在もそうですが、「世界の情報戦に日本は負けた。」ということを、貴重な教訓として心に刻まなくてなりません。
 
 この微妙な時期に、元朝日新聞記者だった尾崎秀実が何をしたのか。この具体的な事実が分かるのはひとえに氏のお陰です。「日中戦争前夜」の章で、詳しく語られていますが、そのうちの一つを紹介します。
 
 ・昭和11年林内閣がわづか四ヶ月で倒れた後、組閣の大命が、貴族院議長だった近衛文麿に降った。
 
 ・近衛の出現は、ゾルゲの組織にとって非常に好都合だった。
 
 ・風見章が内閣書記官長に任命されたため、その風見に代わって尾崎秀実が、中国問題研究会の責任者に抜擢された。
 
 ・ゾルゲは尾崎に近衛の心中を探るよう、できれば重要文書をすべて写真に撮るようにと言い、精密な小型写真機を渡した。
 
 ・モスクワで入手された資料によると、尾崎は近衛首相に「日本の対外政策について意見書を書きたいから、関係書類の閲覧を許して欲しい・と申し入れている。
 
 ・近衛首相はしばらく考えていたが、平常より信頼している尾崎のことであり、またその意見を聞くことも参考になると思って許した。
 
 ・早速、首相官邸の地下室にある尾崎の部屋に、多くの機密・重要書類が運ばれてきた。
 
 ・尾崎は外面悠々と、内心はできる限りのスピードでその全部に目を通し、大切なものを大部分写真に撮って部屋を出た。
 
 ・一時間ほど街を歩いて、ゾルゲの家の前に立った。灯っている玄関の灯が、ゾルゲの在宅を示していた。
 
 ・日本は、ここ当分ソ連と戦うことはないでしょう。日本が準備しているのは、中国に対する攻撃のためです。
 
 ・尾崎は今見た資料について意見を述べ、写真機をその場に置くと帰って行った。
 
 ・モスクワに送るフィルムの現像は、暗室を持っているブーケの役目で、英訳して暗号に組むのはゾルゲで、クラウゼンがモスクワへ打電する手はずになっていた。
 
 ・しかし今度の資料は慎重を期し、クラウゼンの妻アンナ・クラウゼンが伝書使として、上海に渡るという手はずが進められた。
 
 スターリンはこの情報を手にし、憂いなくドイツとの戦争準備にかかったのです。一方ではゾルゲを通じ日中戦争開始の強硬論を、近衛の側近である尾崎に進言させました。
 
 昭和12年の7月に起こった盧溝橋事件の衝突が、ソ連の仕業でないかという噂もまんざら嘘でない気がします。
 
 元朝日新聞の記者尾崎の裏切りと売国行為は、他にも書かれていますが、これ以上転記する気になれません。「日本を裏切った尾崎は死刑になって当然だ。」と、怒りが湧いてきます。
 
 こんな国賊を抱えた朝日新聞など、日本から消えてしまえと言いたくなります。
 
 先日の千葉日報ではこれもまた朝日新聞の植村隆元記者が、厚顔な自己主張をしている記事がありました。
 
 「報道の自由と民主主義を守るため、迫害に負けないで頑張る。」、こんなことを言っているのです。
 
 尾崎秀実の行為は国家反逆罪ですが、捏造記事で慰安婦問題を世界中に拡散した植村記者も、似たような売国奴と確信しています。戦前も戦後も、こんな売国記者を抱え日本をダメにしたのですから、朝日新聞もたいした度胸です。
 
 私は、二度と購読いたしません。
 
 つい朝日新聞の話になってしまいましたが、この新聞社が腐れマスコミの先頭に立ち、白石氏のような愛国者を「軍国主義者」、「戦争をしたがる極右」などと叩きまくったのですから、ブログの最後でこの新聞社を酷評しても違和感はありません。
 
 そろそろ、庭の水やりをする時間となります。ゾルゲ事件につきましては、ここで一区切りとし、明日は、家永教授に対する、氏の意見を紹介したいと思います。
 
 水やりをしながら頭も冷やし、白石氏が本を出版した気持を静かに辿ってみます。
 
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『私の昭和史』 - 3 ( 昭和10年、スターリンの指示 )

2017-08-03 23:04:59 | 徒然の記

 白石氏の著作の主題は、敗戦後の日本に浸透している、「戦争の原因は、すべて日本の軍国主義だ。」「日本さえ中国を侵略しなかったら、戦争は起こっていない。」という主張への反論です。

 その根拠として氏が挙げているのが、昭和10年の7月にモスクワで開催された、「コミンテルン第七回大会」での決議です。

 ここで中国共産党の代表陳紹禹  (別名 王明 ) の提案が、全会一致で議決され、スターリンによって取り上げられ、実行に移されることとなります。この会議には、野坂参三と山本縣蔵の2名が、それぞれ岡野、田中という偽名で日本を出国し、参加しています。

 大事な部分なので、氏の意見を紹介します。

 ・近衛内閣は、蒋介石を相手にしないと声明を出したが、以後歴代の内閣は、日中戦争を一日も早く終わらせるべく、それなりの努力を払った。

 ・しかし都度不調に終わった原因は、「 反ファッショ人民戦線 」 にあったのでないか。

 ・王明の提案の内容をみれば、いくら我が国が和平交渉を提案しても無駄であった理由が判明する。

 ・要するに我が国と蒋介石を戦わせ、両方の戦力を消耗させることが、スターリンの唯一の願望であり、世界戦略の一端であった。

 ・アジアでの無産革命を達成するための障害の一番が日本帝国主義で、二番目が蒋介石の国民党である。

 このために中国に「国共合作」を行わせ、手段として共産軍を国民党軍に編入し、日本に対する統一連合戦線を結成したと氏は述べます。世間でささやかれる「スターリン謀略説」です。

 渾身の思いで出版した本だったのでしょうが、昭和63年の日本では一顧だにされなかったようです、

  「ねこ庭」のブログを始めたのは、平成21年の12月でした。記憶が定かでありませんが、その2、3年後に、チャンネル桜の動画で保守学者の対談を見ました。

 「凄い本を見つけました。大東亜戦争は、スターリンの陰謀で始まったというんです。」

 「日本の陸軍が原因ではない、すべてスターリンが裏で画策していたと、この本にみんな書いてあるんです。」

 年配の学者が得意そうに語り、手にする本を、他の二人が眺めこむ画面を、今でも覚えています。残念ながら本の名は記憶していませんが、白石氏の著書ではなかった気がします。

 何が言いたいのかといいますと、氏の貴重な意見が、世間で20年以上も発見されず終いだったという事実です。スターリン謀略説という言葉は使っていませんが、スターリンの画策を指摘したのは、氏が最初だったのかも知れません。

 保守の学者たちが、四、五年前に驚いていますが、氏が本を出版したのは昭和63年ですから。

 氏は意見の裏付けとして3件の出来事を上げ、これらがスターリンの戦略につながっていると説明します。

 1. 毛沢東の抗日宣言 ( 昭和10年 )

  スターリンの指示を受けた毛沢東は、四川省で、抗日宣言を発表した。

  ・中国および中国民衆の仇敵は日本だ。

  ・日本の侵略で中国は多くのものを失っが、今や日本はさらに武装し、中国に迫っている。

  ・中国および中国民衆は国内抗争を停止し、抗日の旗印のもとに、すべての階級の民衆を組織し、全面的抗日戦線を行うべきだ。

 2. 西安事件 ( 昭和10年 )

  ・共産党討伐戦のため、南京を訪れていた蒋介石を、副司令官である張学良が、宿舎を急襲し監禁した。

  ・延安にいた周恩来がモスクワの指令で仲介に入り、蒋介石を救出した。

  ・釈放の条件として蒋介石は、共産党討伐を止め、国共軍が一致して日本と戦うことを約束させられた。

 3. 2・26事件 ( 昭和11年 )

   ・軍部内の将校を扇動し、天皇親政の名のもとに政権を取らせ、米英相手の戦争に突入させる。

  ・かくて日本は国力を消耗し、敗れ、日本を敗戦革命に導くことができる。

 2・26事件によるクーデターは成功しませんでしたが、米英戦争へ向かうという流れは残りました。氏はここで、ボン大学教授の松本氏の意見を、紹介します。

  ・5・15事件は、純粋に日本だけで考えられ、実行されたものだが、2・26事件はその考えの底流に、外国の発案が働いている可能性がある。

 教授はどこまでも 2・26事件が、コミンテルン会議の決議となんらかの関係があると示唆します。時系列を追い、三つの重大事件を並べてみますと昭和10年代に集中しており、氏の意見との辻褄が合います。

 2・26事件もそうだという確信は持ちませんが、コミンテルンの手が、ひそかに伸びていたというのは、「ゾルゲ・スパイ事件」を考えると、納得させられます。

  ゾルゲ・スパイ事件は長くなりますので、明日にすることとし、今晩の締めくくりは白石氏の「無念の一言」とします。

 ・やがて昭和12年、7月7日の盧溝橋事件が火を吹き、ついに日中全面戦争への道を、西と東から、まっしぐらに走り寄るという結果になった。

 ・これは全くモスクワの筋書き通りで、スターリンの思う壺に、日本が自分から進んではまり込んだと言えよう。

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『私の昭和史 』- 2 ( 満州国の実態とは ? )

2017-08-03 15:59:34 | 徒然の記

   ・ 満州国、それは寒い北東アジアの片隅に、淋しく咲いた 「ケシのあだ花 」 であったのかもしれない。

 これが満州国を語る氏の言葉です。しばらく、元関東軍の諜報部員だった氏の叙述を辿ってみましょう。

  ・日本人のいろいろな理想と、こじつけが折り重なって、ある年 ( 昭和7年 ) の春もまだ遠い3月1日、多少世間を憚りながら、肩を張って誕生を宣言した満州国でしたが、わずか十数年後の夏も暑い日盛りの8月15日、誠にアッケなく自らの生涯を閉じた。

  ・その引け際の、あまりのあっけなさゆえに、「 "まぼろしの帝国 」と呼ぶにふさわしい短い一生であったと言えよう。

  ・共産中国の最高指導者であった、故毛沢東が尊敬する歴史上の人物である秦の始皇帝は、万里の長城を築いたことで、我が国にもその名を轟かせている。

  ・しかし独裁者始皇帝が死して、わずか四年後、秦王朝は二世の胡で終わりを告げた。

  ・その名を語り継がれる割には短命であった秦王朝は、20世紀中葉の、幻の帝国満州国」と偶然にも同じ長さである。

  ・人類の長い歴史の上で、人間の短い生命の何十分の一にも満たない寿命だった帝国のことなど、論ずるに値しないとも思われるが、

  ・満州国は20世紀に、われわれ日本人が直接手がけた国造りであるという意味において、そのあだ花の姿を描くことは、なんらかの価値があるのかもしれない。

  ・もとより戦争は敗れた者を全部悪者にして、勝利者の横暴が幅を利かす結果となることは、人類の歴史を見ればハッキリとしている。

  ・負けた者は罰として、勝利者の要求するまま苦難の道を歩まねばならない。

  ・しかしここで、何もかも負けた側の行ったことは悪いということを止めて、静かに足跡を辿ってみることも、あながち無意味ではあるまい。

 これが本の書き出しです。始皇帝の秦との比較で満州国を語られるとは、思ってもいない叙述でした。

 氏が本を出版した昭和63年は、日本経済がバブルの絶頂期にあった時です。全長58.85kmで、世界最長の「青函トンネル」が開通し、東京ドームが完成し、株価が3万円を超え、竹下首相が「ふるさと創生」を提唱し、全国の市町村に使い道に制限のない1億円を交付するという、大盤振る舞いをした年でした。

  この年の9月に、昭和天皇の容態が悪化し、連日「下血」の状況が報道されました。陛下が崩御された翌年の昭和64年は、わずか一週間で終わり、平成の年号に代わりました。
 
 したがって昭和63年が、実質的には昭和の最後の年ということになります。
 
 世界一の経済大国米国に迫る、世界第二の経済大国となったのですから、国民は上も下も有頂天になり、使いきれない資金を諸外国へ投資し、この世の春を謳歌していました。
 
 昭和天皇のご容態の急変がありました時でもあり、氏の著作はおそらく世間の誰にも注目されなかったのではないでしょうか。
 
 得意の絶頂にいたのは国民だけでなく、朝日新聞を筆頭に腐れマスコミも反戦・平和の記事を拡散し、「お花畑」を全国に拡大していました。
 
 戦前の日本を悪として報道していたマスコミが、氏の著作に目を向けるはずがなく、気づいても無視したに違いありません。氏の著作は、出版の時期が早すぎたのかも知れません。
 
 国民の多くがマスコミの偏向報道に気づき、歴史を見直そうとしている今なら、多数の読者を得たと思います。不運な氏に代わり、氏の祖国愛を少しでも世間に伝えられたらと、つい余計なことを考えたりします。

  だがその前に、知識の空白を埋めてくれた氏に感謝しなければなりません。これまでの自分は、極東裁判で潔かった東条大将の姿に敬意の念を抱いていましたが、き板垣征四郎中将や石原莞爾大佐にはずっと否定的な印象を抱いていました。

 その思い違いを正してくれた氏の著作から、該当部分を紹介します。

  ・日華事変が勃発し、板垣中将は北支に転戦することとなる。

  ・その後任に東条が、憲兵司令官から、関東軍参謀長に就任した。

  ・間も無く石原が少将に昇任して、関東軍に戻ってきた。しかも東条の補佐役としての参謀次長である。

  ・石原参謀次長にしてみれば、満州国のレールは自分が敷いたという自負もあろうし、それゆえの責任も感じていたであろう。

  ・数年留守をして現在の満州国の状態を見て、がっかりしたのは事実であろう。

  ・このまま放置すると五族共和どころか、日本人が暴走し、満蒙漢人の怨嗟の的となり、民心が離反し満州国が崩壊する。

  ・石原は建国の初心に戻り、緩んだタガを締め直す必要を感じた。

  ・これは、政治的要素の欠けている東条参謀長には、理解できないことであったかもしれない。

  ・要するにこれは、二人の対立という安易な問題でなく、日本の悲劇であったと言える。

  ・多すぎる日本人管理者の登用、(濫用に等しい。そして現地人の軽視。

  ・かねて石原の理念であった、五族共和の精神、王道楽土の理想郷建設、そのどれ一つを取り上げても、建国時に本庄司令官を中心に語りあった約束とは裏腹であった。

 ここで私は、4年前に読んだ愛新覚羅浩 (ひろ )氏の著書、『流転の王妃』を思い出しました。氏は公爵家の嵯峨実藤氏の長女として生まれ、満州国皇帝溥儀の弟溥傑と、関東軍により政略結婚させられた人です。

 故人となられているはずですが、彼女には母国日本と夫君の中国が、いずれも大切な祖国でした。

 『流転の王妃』には、日中両国の間で心を引き裂かれつつ生きた彼女の半生が描かれていました。そこでは彼女の気持ちが率直に述べられ、私の前に日本が別の顔をして現れてきました。

  ・満州国の建国そのものが、関東軍の策謀の下に行われたことは、いうまでもありません。

  ・清朝最後の皇帝宣統帝 ( 溥儀 )を満州国皇帝にかつぎあげたのも、関東軍でした。

  ・満州国建国の翌々年、宣統帝は二十八歳で満州国皇帝となります

  ・しかし当初の話とちがって、皇帝とは名ばかりで、関東軍のため行動の自由も無く、意思表示もできない傀儡の生活に甘んじなければなりませんでした。

  ・関東軍のなかで宮廷に対して権勢をふるったのは、宮内府宮廷掛の吉岡安直大佐でした。

  ・大佐は私たちが新京で生活するようになると、事ある毎に干渉するようになりました。

 吉岡大佐は二人のお見合い時からの付き添いで、当時は中佐でしたが、大佐となり中将となった人物です。他人を悪し様に言わない彼女が、何度か彼の名前を出し、溥傑氏に無礼を働く様子を書いているところからして、余程腹に据えかねていたのだろうと推測できました。

  ・吉岡大佐に限らず、「五族協和」のスローガンを掲げながらも、満州では全て日本人優先でした。

  ・日本人の中でも関東軍は絶対の勢力を占め、関東軍でなければ人にあらず、という勢いでした。満州国皇弟と結婚した私など、そうした人たちの目から見れば、虫けら同然の存在に映ったのかもしれません。

  ・日本の警察や兵隊が店で食事をしてもお金を払わず、威張って出て行くということ。そんな話に私は愕然としました。

  ・いずれも、それまでの私には想像もつかなかった話ばかりでしたが、そうした事実を知るにつれ、日・満・蒙・漢・朝の「五族協和」というスローガンが、このままではどうなることかと暗澹たる思いにかられるのでした。

  ・日本に対する不満は、一般民衆から、満州国の要人にまで共通していました。私は恥ずかしさのあまり、ただ黙り込むしかありませんでした。

 4年前の文章を覚えているので無く、「ねこ庭」の過去記事を探し、肝心のところを紹介しました。半信半疑で読みましたが、『私の昭和史 』を読み、やはり日本人の奢りは事実と知りました。

 違っていたのは板垣中将や石原大佐が、その風潮を助長していたと誤解していた点です。

 満州の荒野を開き都市に変え、工業を起こし、商業を発展させたのは、日本の力だと保守の人々は力説しますが、自慢ばかりしておれない気がしてきました。同様に考えると、朝鮮半島の事情も似ているのでないかと、推測したくなります。

 反日と憎悪の攻撃ばかりしかけてくる、現在の韓国や北朝鮮に対し、封建的身分差の酷かった朝鮮を解放し、不潔と貧困の国を近代化させたのは、日本でないかと愛国の人々が反論します。

 むろん私もその一人で、歴史の大嘘を並べる反日の隣国を嫌悪しています。しかし日本統治の 35年間が人種差別の日々だったとしたら、感謝されるはずがないことも分かります。

 「恨みは千年たっても消えない。」と朴大統領が言いましたが、日本の保守の人間も、新しい角度から自分たちの過去を検証すべきと思えてきます。

 しかしそれは、反日左翼の人間たちの意見に乗るのでなく、日本を愛する人間の立場からしなくてなりません。現在の日本政府のように、卑屈に反省する必要はどこにもありません。

 本日も夜が更けてまいりました。今日はここで一区切りとしますが、白石氏の著書の紹介はしばらく続けます。この本は本棚の宝として残し、私と共に灰にしようと決めました。

 これもいわば、小人の煩悩なのでしょうか。断捨離はなかなか難しいのだと理解いたしました。

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『私の昭和史』  ( 私の両親 )

2017-08-02 13:37:14 | 徒然の記

 白石正義氏著『私の昭和史』( 昭和63年刊 崙書房出版株式会社 )を、謹んで読み終えました。

 内容へ入る前に、氏はの経歴を紹介します。

  ・大正2年、愛媛県に生まれ、陸軍士官学校の第5期生だったが、

  ・本科1年の時 5・15事件に連座し、退学処分となり満州に追放

        ・関東軍情報部、関東軍特務機関要員となり、特殊会社「満州南海洋行」を設立

  ・昭和20年7月に情報部特命を受け、関東軍第二遊撃連隊に参加したところで、終戦となりソ連に抑留

  ・同志とともに捕虜収容所から脱走するが、朝鮮の領土内で捕らえられ連れ戻される。

  ・特務機関員の身分がソ連側に露見しなかったため、昭和24年一般の帰還兵として舞鶴港に上陸できた。

  著者である白石氏個人に強く引かれるものがあり、色々を調べましたが、著名人ではないらしくネットの情報は見つかりませんでした。

 5・15事件に連座し退学とありましたので、軍法会議で処罰された軍人を調べましたが、氏の名前はありませんでした。学生として参加し、正規の軍人でなく階級もなかったため、満州に追放されたのかと推察しました。

 氏は語っていませんが追放後の仕事は軍のスパイで、特殊会社「満州南海洋行」は恐らく関東軍が作り、氏が責任者だったのでないかと思われます。満州で何をしていたのか語られていませんが、特務機関の一員であれば当然だろうと考えました。

 敗戦後に帰国した氏は、愛媛県出身なのに千葉の流山市に住み、崙書房出版株式会社(ろんしょぼうしゅっぱん)を作ります。戦争ものの本を出版しているのかと思えば、そうではなくジャンルの違う本ばかりです。ネットの情報で探し当てた唯一の情報なので、そのまま紹介してみます。

  ・崙書房出版株式会社は、日本の出版社の一つで、

 ・創業当初は千葉県・茨城県に関する文献の復刻版を発行し、

 ・昭和52年から、地域に根差した題材を文庫本として発行するようになる

 ・歌集・句集などの自費出版も手がけている

 ・利根川を題材にした出版物の発行では、建設省から感謝状を送られている

 ・また、常総・房総の歴史に関する雑誌も、発行している。営業所が茨城県石岡市にある。

 つまり、自著の『私の昭和史』を除けば、出版物は戦争に無縁のものばかりです。この本を出した時氏は75才なので、存命なら114才ということになりますから、それはあり得ません。

 本の裏扉に書かれた略歴によりますと、当時の氏は社長という肩書きで、住所も電話番号も現在の会社と同じです。

  崙書房出版株式会社は今もありますが、社長は別人で、従業員四人という小さな会社です。会社のブログなのに、面白いことに設立年月日は不明と書かれています。
 
 白石氏は旧姓を津島というらしいのですが、なぜ故郷の愛媛に戻らず千葉を終の住処としたのか、不思議な気がします。
 
 大陸浪人崩れの人間の多くは敗戦後の日本で、右翼や、総会屋となったりして、政界の裏話や手柄話を本にし、大企業に売りつけたりしています。かって勤めていた私の会社はお得意先から頼まれ、そんな本を買わされていました。
 
 氏の本も、何となく得体の知れない雰囲気が漂うため、最初は胡散臭い人物だと誤解しました。しかし最後まで読み終えた時、別の印象になっていました。氏の経歴も、著作の内容も無関係なのに、何故か新渡戸稲造氏の『武士道』を思い浮かべました。
 
 武士道精神の中にある、慈愛、誠実、忍耐が、著作の底を流れ、清冽な流れに心を洗われる思いがいたしました。
 
 本の226ページに、「関東軍憲兵司令官・加藤伯二郎中将の思い出」という項があります。長くなりますが、紹介します。
 
  ・加藤伯二郎中将を知っている人は、まだ多少おられると思う。
 
  ・中将は、戦犯としてモスクワで処刑されたのか、あるいは病死されたのか。どこでどうなったかについては、不明のままである。
 
  ・私は、彼と会った最後の日本人ではなかろうかと思う。奇々しき因縁という他はない。監獄で、二十日間起居を共にした。
 
 氏が監獄と言っているのは、脱走後に朝鮮領土内で囚われ、連れ戻されたソ連の刑務所のことです。
 
  ・加藤中将は毎日、定刻の午前中に 2、3時間、取り調べのために、監視兵によって本部に連れ出されていた。
 
  ・いやしくも敗れたりとはいえ、日本陸軍の中将であり、取り調べに当たる相手も、かなり高い地位の者であることがそれとなく窺い知れた。
 
  ・私にこっそり耳打ちされる情報は、非常に的確で、的を射ていたと今でも思う。
 
 氏が、加藤中将の言葉を紹介します。
 
  ・俺は万一日本にいても、外地にいても、同じ身のはずである。
 
  ・必ず、戦犯として追求されるであろう。
 
  ・現に祖国日本にいても、めぼしい軍人、政治家の大部分がすでに捕らえられ、一箇所に集められているらしい。( その頃は巣鴨刑務所に、東条大将その他の戦犯が収監されている時であった。)
 
   ・ソ連は、天皇を戦犯としてどこまでも狙っているらしいが、彼ら戦犯連中が、一丸となって阻止するであろう。
 
  ・わが天皇制は、必ず存続するであろう。しかし、その姿は非常に変わるであろうが、これは仕方のないことである。
 
  ・これからの日本は、戦勝国の占領に甘んじなければならない。
 
  ・あらゆる権利を剥奪されるであろうが、その言語に絶する状態も、せいぜい4、5年くらいであろう。
 
  ・米ソ間に必ず不協和音が起こるであろう。蜜月時代が、そう長く続くはずがない。
 
  ・将来日本は軍備を放棄し、平和国家として再出発すれば、十年を待たずして元以上の日本国になるであろう。
 
  ・しかし俺は、そのような日本の姿は見られないであろう。年も年だし、ソ連が俺を見逃すはずもない。
 
  ・生きて祖国の土を踏むことのできないことは、覚悟している。
 
  ・しかしお前たち二人は、決して銃殺にはされないはずだ。今後決して、逃げ出そうというような不了見を起こすのではない。
 
  ・お前は、まだ三十代の半ばだ。どんなことがあっても、生きた体を祖国日本へ持って還るのだ。
 
  ・それはお前たちが教わってきた、軍人勅諭の中の一番大切な忠節である。
 
  ・すなわち、祖国再建のために死ぬことこそが、忠節なのだ。
 
 中将の言葉を紹介した後、白石氏が語ります。
 
  ・今なお私はこれらの言葉を、中将の尊い遺言として心の奥ふかくしまっている。
  ・その後私は収容所を2、3ヶ所転々とし、いろいろなことがあったが、祖国に還ることこそ先決と辛苦に隠忍自重し、幸運にも昭和24年の11月下旬に、無事舞鶴港へ帰還することができた。幸運であったと、言うほかない。
 
  ・それにつけても、夢にまで見た祖国日本の土を踏むことなく、今なおシベリアの各地はもちちろん、遠く中央アジアに至る広大な凍土の下に眠る友のことに、思いを馳せれば、目頭の熱くなるのを抑えることができない。
 
  ・おそらく私が生き続ける限り、このことは忘れることができないであろう。
 
 これが、本の最終ページを飾る言葉です。加藤中将にしましても、氏自身にしても、戦争のない平和な世の中を願っています。言語に絶する戦争の惨禍や、人間の苦しみを語っています。
 
 しかし同時に私たちが心に留めるべきは、彼らが祖国への憎しみや不満を語っていないことです。
 
 戦争の記憶を若い世代に伝えようと言い、反日・亡国の老人たちが、戦争の全てを憎しみと悪口で語りますが、そうでない人間がいたことも、同時に伝えなくてなりません。
 
 戦争賛美や軍国主義のためでなく、祖国である日本の歴史を正しく捉えるためです。つまり「両論併記」ということです。明日から当分の間白石氏の本と対座し、氏の心を汲み取り、紹介する作業をします。
 
 ソ連の国境に近いハイラルで生まれた私は、母と共に引き揚げてきました。ハイラルからの逃避行が、どんなに過酷なものであったかを氏の本が教えてくれました。
 
 ソ連の捕虜となりシベリアの炭鉱で働かされ、幸運にも帰還してきた私の父がどんな場所で過ごしていたのかも、氏の本で知りました。父も母も、ほとんど戦時中の思い出を語りませんでしたが、今はわかる気がしています。
 
 自分の子供を殺したり、満人に渡したり、考えられない辛苦をどうして母が語りたがるでしょうか。
 
 父も母も白石氏と同様に、国を恨んだり憎んだり、そんな言葉は口にしませんでした。日本のクオリティーペーパーと呼ばれ、日本の良識と自らを称した朝日新聞の読者だった私は、そんな両親を長い間「無知蒙昧の庶民」と心の隅で軽蔑していました。
 
 朝日新聞と決別し、自分の手で歴史の検証を始めた今、父や母に詫びる気持でいっぱいになります。

  「遠く中央アジアに至る、広大な凍土の下に眠る友のことに思いを馳せれば、目頭の熱くなるのを抑えることができない。」

  氏の言葉を噛み締めていますと、両親の顔と重なり涙がこぼれます。「自分の国を蔑まない、ごく普通の庶民。」・・私の両親はそうだったのです。

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