「家永三郎博士の日中戦争観」と表題をつけ、白石氏が意見を述べています。
反論という強い調子でなく、語りかけるような叙述です。122ページから128ページまで、7ページを使っていますから真摯な意見です。
・ここで私は、日中戦争に対する独特の見解を持つ家永三郎博士の著書、『 太平洋戦争 』 より抜粋借用して、読者各位に披露し判断を仰ぎたいと思う。
家永氏の著書を読んでいませんので、ハッキリしたことを言えませんが、氏が紹介した文章を見ると、家永氏は日本軍の国際法違反と、国際戦争犯罪の事実を強調しています。
日中戦争に関する氏の意見の特色は、他の学者のような中国侵略に重点を置かず、ソ連共産主義との戦いであったと断定するところにあるようです。
ドイツ・イタリアとの三国同盟も、真の目的はそこにあるとし、日中戦争の最中でも、ソ連国境に達すると日本軍は故意に武力を行使し、進んでソ連との戦闘を交えたと、主張します。
昭和13年の張鼓峯事件も、昭和14年のノモンハン事件も、日本軍が行った威力偵察から始まったという意見です。
白石氏の反対意見を、紹介してみましょう。
・家永教授は、徹頭徹尾、日本の帝国主義の支那大陸侵略の跡付けと、日本陸軍軍閥の野望達成のための侵略行為と、その論断に終始しているかに見える。
・概して敗戦後の、大方の学者や文化人と称される人たちは、今次大戦の戦争責任はすべて日本側にあるという考え方で、大同小異一致しているようである。
・しかも大筋において、連合国側の極東軍事裁判の判決の内容より、一歩も踏み出していない。
・筆者は、敢えて勝者の横車とまでは言わぬが、これらの人たちに反論する一つの論拠として、私の体験や実際の見聞を基礎にして、ノモンハン事件勃発前夜の現地の状況を、申し上げたいと思う。
白石氏はノモンハン事件が始まる1年前に、関東軍特務機関員として、8ヶ月をかけて現地を踏破しています。
あたりは密林地帯で国境らしい柵も無く、知らぬ間にソ連領に入ってしまうことが度々あったといいます。付近の灌木が切り払われ国境の明確な場所もあるが、入り組んだ丘陵や湿地帯が多く、日本軍は故意に越境し戦闘を行ったのでないと反論します。
・大正2年に愛知県に生まれ、昭和12年に東京帝国大学の文学部を卒業
・平成14年に89才で逝去。日本の思想家として著名
・東京教育大学の教授を長く務め、東京大学、東京女子大学でも、日本思想史の講義を担当
・氏は学生たちに、占領軍の対日本政策が民主化より再軍備へと変わったため、政府の主張が再軍備へ向かい、憲法改正へ動いていると教えた。
・私は、単にこういう事実が昔あったことを申したいのでなく、実はそれとまったく同じことが、私たちの目の前で繰り返されていると申し上げたいのです。
・せっかく日本国憲法の精神が、国民に浸透してきた時だというのに、政府が教育を通じて、これをなし崩しにしようとしているのです。
反権力的自由主義者としての氏の活動が、マスコミにこぞって支援され、戦う自由主義者として有名になっていきます。
長くなるので詳細は省きますが、昭和29年の「東大ポポロ事件」、昭和34年の「東京教育大学 ( 現筑波大学 ) の移転問題」、昭和40年の「教科書検定違憲訴訟」など、いずれも権力をかざす政府や大学と戦う教授として新聞を賑わせ、学生たちから大きな共感を得ています。
真偽のほどは分かりませんが、ネットで偶然見つけた氏の友人の話を、参考として再度紹介します。
・家永は当初から反権力志向だというわけではなく、青年期には陸軍士官学校の教官を志望していた。
・試験に合格しても胃腸に慢性的な持病があり、身体検査で落とされるという経歴を持っている。
・戦後は昭和天皇にご進講したり、学習院初等科の学生だった皇太子殿下に歴史をご進講するなど、皇室との関わりを持っていた。
・昭和22年に、「教育勅語成立の思想史的考察」 という論文を出し、昭和23年には、「 日本思想史の諸問題」という論文を出し、家永は明治天皇と教育勅語を高く評価している。
・また、昭和22年に冨山房から出版した『新日本史』でも、明治天皇に対する尊崇の文章を記述しており、戦後も、数年間は、穏健かつ保守的な史観に依拠する立場を取っていた。
・家永の思想が反権力的なものに変化したのは、昭和25年代の社会状況に対する反発が背景にあり、憲法と大学自治に対する認識の変化があったといわれている。