『日本終戦史・上巻』( 昭和37年刊 読売新聞社 ) を読了。
一人の著者によるものでなく、敗戦直後に得られた様々な資料を、四人の編者がまとめた本です。名前を列挙しますと、林茂氏 ( 東京大学教授 )、安藤良雄氏 ( 東京大学教授 )、今井清一氏 ( 横浜市立大学助教授 )、大島太郎氏 ( 専修大学助教授 ) です。
日本の戦前戦後について知りたいという思いが、常に自分を読書にかりたて、新しいことを教えてくれる書が、すべて師となります。面白くなくても不愉快でも、私は本に感謝します。昭和37年といえば、私が高校二年生で、まだ戦後17年の頃の本です。社会主義のソ連が、人類の理想のように見えていた時代ですから、執筆者たちもマルクス主義者らしい論調です。
左翼が反日に過ぎないと分かって以来、今の私は、自分でも偏見と自覚するほど社会主義者を嫌悪するようになっています。でも17才の当時でしたら、素直な気持ちで次の文章を読み、日本人はダメなんだなあと、うなづいていたはずです。
「戦後日本では、映画や小説その他で多くの人が知ったような、」「ヨーロッパや中国における、戦争反対の抵抗運動 ( レジスタンス ) は、ほとんどなかったといってよい。」「そのような組織は、日本では育たなかったのである。」
「それというのも、日本の天皇制政府が、治安維持法などの刑罰法規をタテにして、」「外国でも類を見ないほどの、徹底した取り締まりを強行していたからである。」「もちろんこの状況は、厭戦気分を抱くようになっても、明確な反戦思想を持たなかった民衆自身の問題でもあったわけである。」
「腹の中で厭戦気分を抱いただけという民衆は、〈 終戦 〉と表現された敗戦を、」「ただ平常の暮らしに戻りたい気持ちから、自然に受け入れるのである。」
今の私は、まずもって民衆という言葉からして、違和感を抱きます。一般国民をあらわすのなら、庶民とか国民という言葉で十分なのに、どうしてソ連の本みたいにわざわざ民衆と言い換えるのでしょう。
だが17才の私ならそう思わなかったでしょう。日本人はヨーロッパや中国に比べて、発育不全の人間だったと、日本人蔑視に傾いたに相違ありません。著者たちの乱暴で、稚拙な社会情勢の分析にも、気づかなかったでしょう。編者の次の叙述が、さらに追い討ちをかけます。
「民衆の中で、当時決然として、我が道を行ったリベラリストの一人に、清沢冽がいる。」「彼の目には、大東亜戦争は、浪花節文化の仇討ち思想にもとづいていると映った。」「捕虜虐待、キリスト教学校への迫害、敵対心高揚のためという鬼畜米英的宣伝、いずれもが苦々しい日本的戦争思想の表れである。」
「厳しく非難する彼は、なによりも言論の自由を求めた。」「したがって、戦争を不可避と見たり、英雄的行為に酔ったりしている、国際的知識に欠ける軍人や官僚の、権力的統制は、鼻持ちならないものと感じ取った。」
清沢氏が何者なのか、不勉強な私は知りませんが、大学の教授にここまで明快に語られると、大東亜戦争も、軍人も、そういうものだったかと、17才の私なら、さらに日本を蔑視してしまいます。今なら、このような本は、よほど愚かな若者しか手にしないのでしょうが、当時はこんな書物が大手を振って出版されていたのです。
「天皇制という、日本国民の心情に深く根ざした国家権力に、」「もっとも徹底して反対し続けてきた人は、共産主義者であろう。」「彼らは、天皇制権力を打倒する以外に、日本の民主化はあり得ないと考えていた。」
「彼らの基本的な考えによれば、太平世戦争は、帝国主義国日本による侵略戦争であり、この国策に反対する運動を組織することが当面の目標であった。」
共産党が何を、どうしようとしているのか。はっきりと書かれています。各編を誰が書いているのか、明らかにされていないので、名前が特定できませんが、凄い本ではありませんか。
共産党の宣伝だけでなく、今でいう自虐史観を世に浸透させている本です。平成の今に生きる私たちが考えなくてならないのは、こんな共産党に、今上陛下と美智子様が心を寄せられているという事実です。ここまでハッキリと天皇制を否定する党に身を近づけ、平和憲法の遵守を述べられるお二人に、新たな悲しみを抱くのは、果たして私だけでしょうか。
次のような事件があったことを、私はこの本で初めて知りました。太平洋戦争中の言論圧迫が、いかに酷いものであったかという例です。そのまま転記します。
「昭和18年、婦人公論に、玄米功罪論という記事が載った。筆者は陸軍主計大佐、川島四郎である。趣旨は、糠を一緒に食べてしまう玄米食は、栄養吸収力を悪くするから、好ましくないというものであった。」
「当時はちょうど、東条勝子夫人が、婦人会などで、盛んに玄米食奨励をしている頃であった。川島の記事は、憲兵隊によって、ただちに東条首相へ報告された。翌日川島は、東条からじきじき電話を受け、陸軍大臣室に呼び出された。」
長くなるので要約すると、東条氏は、陸軍大臣の自分と反対意見を述べるのは、上官の命令にそむくことになると、怒鳴りつけたという。そして川島氏の説明を聞くと、納得してうなづきましたが、次のように語ったというのです。
「とにかく、二度と玄米食について悪口を書くな。世間ではおれの話より、農学博士である、お前の話を信用するからな。」
私には、落語みたいに聞こえてしまいますが、編者がわざわ取り上げているのですから、言論圧迫なのかもしれません。しかし川島大佐は、この件で何の懲罰も受けず、後に少将になっているという事実を考えれば、戦後の日本で流行った、東条氏叩きの一つであるような気がしてなりません。『日本終戦史』の中に書き入れるほどの事件なのか、その方にも疑問を抱きます。
不愉快なので、ここで終わりたいと思いましたが、新たに知る事実もありますので、あと一回だけ続きを書きたいと思います。不愉快でも、心を動かされる本があるというのは、不思議なことです。上巻の次に中巻、下巻と残っていますので、当分退屈しないで済みます。
しかし本日は、ここで一区切りとします。