ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 40 ( 国家存続のための、事大主義 )

2023-01-09 11:42:25 | 徒然の記

 今回は、「書き下し文」と「大意」の全文を紹介します。 

 〈「書き下し文」(頼山陽) 〉

   唐は百済を取らむと欲し

   吾は百済を復せむと欲す

   怕婦(はふ)の男子是れ皇帝

   佳賊(かぞく)将となりて呑噬(どんぜい)を逞しうす

   汝が兵食を資(たす)け汝が行を護る

   奈(なん)すれぞ汝自ら万里の城を壊(やぶ)りしや

   唐と吾と、孰(いず)れか得失

   忠義の孫子海を踏みて来たり

   長く王臣となりて王室を護る

 〈 「大 意」(徳岡氏)  〉

   唐は百済を取ろうとする

   日本は百済を復活させようとする

   恐妻家の男が唐の皇帝だ

   男ぶりのいい賊が将軍となって勝手気ままに侵攻する

   吾が国の人質であったそなた、百済の王子豊に、武器糧食の援助をして、帰国の行路を守ってやったのに

   なぜそなたは、万里の城にも匹敵すべき人材福信を殺したりしたのか

   唐と日本と どちらが得をし、どちらが損をしたか

   忠義の臣の子孫たちは海を渡って来て

   長く皇室に仕えて皇室を守ったのだ

 「書き下し文」と「大意」を読んでも何となく意味がわかるだけで、特別の感慨を生じません。しかしここに氏の解説が加わりますと、二行の言葉が輝きます。

 「蝦夷征伐で有名な大将軍阿部比羅夫(あべのひらふ)らも軍勢を連れ、兵糧を持って、百済の救援に赴いた。比羅夫が豊璋を百済に送り届けた時の軍船の数は百七十叟、兵士は五千人という。」「この情勢を頼山陽は、

  唐は百済を取らむと欲し  吾は百済を復せむと欲す、と二行で書いたのである。」「日清戦争の時も清国は、「朝鮮は昔から中国の属国である」と主張したのに対し、日本は朝鮮を独立国としておき、清国の影響を排除しようとした。これが戦争の表向きの理由であった。」

 「そして日本の援助を得ようとしていた親日派もいたし、清国に仕えようとする事大派もいたことは、七世紀でも同じである。」

 事大派(主義)というのは、力の強いものに従い身の保身を図る生き方を言いますが、大国中国と地続きの半島国だった朝鮮は、こうして国を守って来た歴史があります。善悪の話でなく、そうしなくては生き残れなかった朝鮮の宿命です。今でも韓国は大国である中国とアメリカの間に挟まり、両国の顔色を窺いながらその場しのぎの対応をしています。

 大東亜戦争に敗北し軍隊のなくなった日本に対しては、どのような対応をしているのか。「慰安婦問題」や「徴用工問題」を見るまでもなく、韓国政府は「日本が韓国を植民地化し、武力で韓国の富を収奪した」と、表向きは敵意を燃やし続けています。

 フリードリッヒ・ヘア氏が、「同じ場所に、同じことが繰り返して起こる。」と驚いていたと言いますが、天智天皇の時代も令和の現在も、韓国と日本は同じ繰り返しをしていることが分かります。氏の解説があるお陰で、私もこんなブログが息子たちに書けます。

 「では百済を攻略しようという、唐の側の状況はどうであったか。」

 次は唐に関する説明ですが、スペースがなくなりましたので次回に紹介します。

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『日本史の真髄』 - 39 ( 斉明天皇と中大兄皇子による新羅支援 )

2023-01-09 00:09:22 | 徒然の記

 「復百済   (くだらをふくす) 白村江の戦い  」・・頼山陽の 9行の漢詩を前に、どうすれば息子たちに、渡部氏の解説がうまく紹介できるか思案に暮れています。

 背景の出来事を知らなければ詩が理解できない点は、今までと同じですが、面倒なのは日本のことに加え、朝鮮の事情と中国宮廷の内情説明が付加されるところです。

  斉明天皇の6年(西暦660年)に、唐と新羅軍のため百済が滅ぼされ、義慈(ぎじ)王と妻子と家来など50余人が捕虜となり唐へ送られます。この時の様子を『日本書紀』では、次のように書いているそうです。

 「君臣みな俘(とりこ)となりて、ほぼ残れる者なし」

 ところがこの時地方にいた忠臣二人が、残兵を集めて蜂起します。武器がないため棒で戦ったと言う二人の忠臣の名前は、

    1.   西部の恩率(おにそち)であった、鬼室福信(くゐしちふくしに) ・・恩率は、百済で三番目の官位名

    2.   中部の達率(たちそち)であった、餘自信(よじしに) ・・達率は、百済で二番目の官位名

 驚いたことにこの百済軍に新羅の軍勢が敗北し、彼らの武器が百済軍の手に入ると益々百済軍は強くなり、唐軍も侵入を断念しました。百済人たちはこの二人を尊んで、佐平福信、佐平自信と呼んだと言います。「佐平」というのは、百済で一番高い官位です。

 これから先はいつものようにスペース節約のため、出来事を列挙します。

  ・鬼室福信が、この時日本へ遣いをよこした。お土産は、唐の捕虜百人余りであった。

  ・これが後に、美濃国の不破と片県に住むようになった唐人たちである。

  ・この時鬼室福信は、日本に二つの希望を伝えた。

    1.  日本に人質として来ている百済王子の豊璋(ほうしょう)を、百済に送り返して欲しい。

    2.  日本軍の援助が欲しい。

  ・鬼室福信は、捕虜として唐に連れ去られた義慈王の王子を迎えて百済王とし、王国の再建を願ったのである。

  ・斉明天皇と中大兄皇子は快く援軍要請を受け、出兵することとした。

  ・斉明天皇は九州の筑紫まで行かれたが、ここで亡くなられた。

  ・即位された天智天皇(中大兄皇子)は、百済支援の方針を継続した。

  ・百済の王子の豊璋に織冠を授け、多臣蒋敷( おおのおみこもくさ)の妹を妻として与えた。

 このようにして天智天皇は、日本の名門の娘を百済の王子に与えて縁結びをしました。氏の解説によりますと、日本の戦国時代諸侯の間にもよくあった習慣で、同盟関係を血縁で強めようという発想だと言います。日韓併合時の李王家との婚姻や、満州国独立後の満州皇帝の婚姻にも見られる形でした。  

 ここまでの氏の解説が、頼山陽の九行の漢詩の最初の二行です。背景の一部だけでも分かりましたので、次回は頼山陽の「書き下し文」と  徳岡氏 の「大意」を紹介します。  

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