今回は、8月15日の陛下のお言葉を伝えた、共同通信社の、8月16日の記事について、語ります。
同日の、千葉日報社独自の記事につきましては、前回述べたので割愛しますが、私の息子たちには、千葉日報の記事と並べ、共同通信社が、偏向記事を配信する会社だという事実を、自分の目で確かめてもらいたいと思います。
「終戦から73年となり、平成最後の終戦の日を迎えた15日、」「政府主催の全国戦没者追悼式が、日本武道館で開かれ、」「参列者は不戦の思いを新たにした。」
「戦争体験者の高齢化で、記憶の伝承が課題となる中、」「各地で語り継ぐ試みも、始まっている。」「退位を控える天皇陛下は、お言葉に、」「戦後の長きにわたる、平和な歳月に思いをいたしつつ、」「との一節を加え、四年連続となる、」「深い反省という言葉とともに、」「強い思いを示された。」
「安倍晋三首相は、」「戦争の惨禍を二度と繰り返さないとは、述べたが、」「アジア諸国への、加害責任には触れなかった。」
と、これが記事の書き出し部分です。相変わらず、安倍総理への批判を繰り返し、陛下のお言葉との違いを強調し、対立を煽っています。戦争体験者がいなくなっていくので、今後は戦争体験を語り継ぐため、「語り部の育成」に厚生省が力を入れていくと説明し、再び、総理への批判が始まります。
「安倍総理は式辞で、戦争の惨禍は繰り返さないとした上で、」「歴史と謙虚に向き合い、どのような世にあっても、」「この決然たる誓いを、貫いてまいります、」「と述べた。」「加害者責任に言及しなかったのは、第二次政権発足後の、」「平成13年の式典から、6年連続となる。」
加害者責任という言葉を、共同通信社は、総理攻撃の武器ででもあるように使い、悪印象を作ろうとしています。もし共同通信社が、日本の会社であり、日本人が経営している会社であるとするなら、こんな不都合な言葉を、なぜ使い続けるのでしょうか。このような話を持ち出すのなら、世界で起きている戦争に、加害者責任の問われる国は、日本以外にないとでも考えているのでしょうか
歴史が私たちに教えるのは、戦争が常に大国のエゴから始まるという事実です。ならば大東亜戦争時の日本ばかりを責めるのでなく、他の国々も、公平に批判してはどうなのでしょう。いったいどこの国が、自ら戦争の加害者責任を語ったか、共同通信社は、それを明らかにした上で、総理を批判すべきでしょう。もう国民は、共同通信社が語るような政府攻撃や、悪意の倒閣記事に飽き飽きしています。
私の言葉を読み、「戦争に大義を与えてはならない。」「どんな戦争でも、二度とやってはならない。」、という意見を寄せた方がいます。穏やかな口調なので、性悪の反日・左翼でないと分かりましたが、どういう読み方をすれば、私の意見が「戦争に大義を与える」、と受け止められるのか。不思議でなりません。
私が先の大戦につき、反対しているのは、マスコミや「お花畑」の人々が、不当に日本を貶めている事実に関してです。日本だけが悪かった、日本だけが間違っていた、世界に向かって謝れなどと、こうした偏った意見に反対しているだけです。日本を責め、自分も反省すれば、戦争が地球から無くなると、そんなバカな意見を、笑っているだけなのです。
共同通信社の記事は、こんな日本人を育てるには、格好の教材となりますから、見過ごすわけにいきません。こうした記事を目の当たりにしますと、私は息子たちに、改めて語らずにおれなくなります。
「父は、お前たちに言っておきます。」「戦没者の慰霊祭に、反対しているのではありません。」「陛下のお言葉を、否定しているのでもありません。」「父は、ここに忘れられているものを、指摘しているだけなのです。」「難しい理論ではありません。」
共同通信社の記事では、追悼の対象となる人々を、次のように列挙しています。
1. 戦死した軍人・軍属 ・・ 約 230万人
2. 空襲や広島・長崎の原爆投下、沖縄戦で亡くなった民間人 ・・約 80万人
合計、310万人だと説明しています。軍人だけでなく、民間人も同じですが、こうして亡くなられた方々の、尊い犠牲の上に、現在の私たちの暮らしがあり、平和があります。
だとするならば、私たちが亡くなられた方々に捧げる気持ちは、二つあります。「哀悼の気持ち」と「感謝の気持ち」です。陛下のお言葉には、犠牲となった国民への「感謝の気持ち」がありません。腐れマスコミどもが、外国勢力へ忖度し、犠牲者への「感謝の気持ち」を無視しているからといって、戦後73年経っても、なぜ陛下はそんなマスコミを是とされるのでしょう。
私が異を唱えておりますのは、この一点のみです。国民の敬愛の中心にあった、天皇陛下のため、多くの軍人は命を捨てています。天皇陛下のために死ぬことが、大切な家族や郷土を守ることと同じだと、信じていた人々でもあります。そういう国民に対し、陛下はいつになったら「感謝の気持ちを」表されるのでしょうか。
愛する息子たちに言います。前回のブログで、父が千葉日報社の記事を「尊い」と言ったのは、ここにあります。大きさを比較すれば、象とアリと言われる、共同通信社と地方紙の千葉日報です。それは同時に、全国紙と千葉日報社の力関係でもあります。その小さな地方紙である千葉日報社が、陛下も、共同通信社も、全国紙もしなかった、客観報道をしました。「哀悼の気持ち」と「感謝の気持ち」を、きちんと記事にいたしました。
この勇気を、父は尊いと思い、感謝せずにおれないのです。父は戦争賛美者でもなく、軍国主義者でもありません。ただ、「お花畑の人々」と違うのは、理不尽な他国が攻めてきたら、あの森永氏のように自分だけ逃げ出さず、戦うというところでしょう。御覧なさい、小さなネズミの親でさえ、大きな敵に襲われたら、身を犠牲にして子を守ります。
だから、今回の記事に、私はいつもの言葉を貼り付けます。
「共同通信社の記事は、国民への挑戦である」