笹本氏の著作の紹介を、「ヤルタ会談」で終わりにしたいと思います。
「ヤルタ会談」については、少しは知っていますが、ここでも氏特有の意見が語られます。こんな見方もあるのかと、意外感に打たれましたので、息子たちのためその部分を紹介しておきたくなりました。
・945 ( 昭和20 ) 年 2月 4日、ルーズベルト、スターリン、チャーチルの三人が、黒海のほとりの保養地ヤルタに集まった。
・対独戦争終結を目前に控えて、三巨頭の話し合いは一週間にわたって、行われた。」
・「ヤルタ協定」が、民族自決という国際正義の大原則を踏みにじった、大国エゴイズムの産物であることはいまさら言うまでもない。この恥ずべき大国の取引に対してなされた幾多の抗議や非難が、今日までいささかの効果も挙げ得なかったことは、周知の通りである。
氏の意見は、激しい批判で始まります。歴史的会談が、こういう調子で語られるのを読むのは初めてです。
・私はここでもう一度、ヤルタの不正を摘発しようとは思わない。
・その代わり、ヤルタの背景をなした当時の戦局が、会談の主役だったルーズベルトとスターリンの取引に、決定的な影響を与えたという事実を指摘しておきたい。
・結論から先に引き出せば、当時の戦局は、ソビエトに明らかに有利だったということである。
ポーランド戦で大攻勢に転じたソビエト軍は、勢いに乗じてドイツ領深く攻め込み、首都ベルリンまで60キロの地点に迫っていました。米英軍は、やっと進軍を開始したばかりで、ベルリンまでの距離は400キロありました。
これから先は、氏の説明を紹介します。
・ソビエト軍のあげた大戦果は、米英軍に強いショックを与えたが、それは政治的にも強い圧力を意味した。スターリンが、ちょうどこの時期にルーズベルトとの会談に応じたのは、十分に計算した上でのことだった。
・アメリカはまだ、対日戦争に明るい見通しを立てることができなかった。米国の首脳部は、日本との戦争はドイツを倒した後、18ヶ月は続くと判断していた。日本本土に上陸作戦をやるとすれば、50万の死傷者を出すと計算していた。
・その上日本は満州に、強大な兵力を持っているので、これを掃討するのも大仕事だとも考えていた。アメリカとしては、対独戦線終結次第、ソビエト軍の対日参戦がどうしても必要だと、考えざるを得なかった。
原爆実験の成功は、5ヶ月先のことでした。この時アメリカは、関東軍の戦力を実力以上に評価していました。「ヤルタ会談」に臨んだルーズベルトにとって、最大の課題は、スターリンから対日参戦の確約を取り付けることでした。
私がこれまで読んだ本では、次のように書かれていました。
「スターリンは日本との同盟を破り、戦争末期のどさくさで、卑怯な攻撃を仕掛けてきた。火事場泥棒のように、日本の領土を奪っていった。」
野心家のスターリンが独断専行し、攻撃をしてきたとばかり思っていましたが、実際には、ルーズベルトによる強い要請だった訳です。
氏の説明を続けます。
・それで日本を降伏させることができれば、米兵50万の犠牲を出さずに済む。その代償なら、ある程度の譲歩はやむを得ないと言うのが、ルーズベルトの考え方だったのであろう。
広島と長崎への原爆投下の理由として、今でもアメリカは似た説明をしています。
「米兵の犠牲が100万人と推定され、戦争の早期終結のため、原子爆弾の使用は有効であった。」
しかし実際の原爆投下は、その必要がなくなった時期に行われ、ナチスのホローコスト以上の殺戮だと言う意見もあります。「東京裁判」では、米国側の弁護人でさえ、原爆投下のアメリカの責任を厳しく追及しています。
こうした事実が、もっと国内で報道されていたら、今も続く「終戦の日」の、偏った平和の祈りも、違っていたはずです。米国人弁護人の主張は、途中から法廷のマイクが切られ、通訳も中止となり、「東京裁判」の正当性が疑われる事態となりました。
その後彼は弁護人の資格を奪われて米国へ帰国し、間もなく交通事故のため死亡しています。
今回は「ヤルタ会談」が主題ですから、これ以上の深入りを止め、氏の意見に戻ります。
・「ヤルタ会談」について書かれた本の数は、おびただしいものがある。その本を読んで気づくことの一つは、この会談の主役はルーズベルトとスターリンで、チャーチルは脇役に回ったと言うことである。
・ルーズベルトとスターリンは会談の間じゅう、お互いに緊密な態度を取り合ったが、チャーチルはどこか、のけ者にされた感がなきにしもあらずだった。
・それは、重要な問題は二人で決めればいいんだという、暗黙の了解があったことを思わせるが、それ以上に、この二人が大英帝国首相の抜くべからざる反動性に、強い反発を覚えた結果でもあったろう。
私はこの説明で、笹本氏の思想的立ち位置と、チャーチルを厳しく批判する理由も分かりました。
・ルーズベルトは、スターリンとチャーチルの間に立ってみると、自分がチャーチルよりは、むしろスターリンに近いところさえあると感じたに違いない。
ここで氏が言いたいのは、共産主義を理解しているルーズベルトと、反共のチャーチルの対比です。ルーズベルトは共産主義者でありませんでしたが、共産主義への理解がありました。
今でも学校で教えられているのかどうか、知りませんが、1933年、アメリカが大恐慌に陥った時、ルーズベルトが実施した、「ニューディール政策」がありました。その一環として行われた、「テネシー川流域の開発事業 ( T V A )」は、社会主義思想を取り入れたものと教わりました。
ルーズベルトは、チャーチルと違ってスターリンを嫌悪せず、戦争終結後も、互いに協力してやれる相手だと自信を持っていました。笹本氏は、そんなルーズベルトの指導する米国に親近感を持ち、もともとスターリンには共感していたのです。
・ルーズべルトがもっと長生きしていたら、冷戦は回避できたであろうし、すくなくとも、あれほど鮮烈に燃え上がることはなかったと考えられる。
・まず第一に、トルーマンのような強硬な反共論者を、大統領に迎えることなくて済んだ。
・次に反共陣営の総大将であり、冷戦の巨魁であるチャーチルが、アメリカ中を回り、「赤禍論」をぶち歩くことを、ルーズベルトなら許さなかったであろう。
「鉄のカーテン」と言われる、冷戦構造を作ったのはチャーチルであるというのが氏の持論です。トルーマンを焚きつけ、世界に共産主義の危機を宣伝したのが、チャーチルだと私は嫌悪しています。
ちょうど私が、反日・左翼の日本人を嫌悪すると同じくらいの激しさです。
あれから73年が経過した現在、チャーチルと笹本氏の、いずれが正しかったのか。武力による周辺国への威嚇と、国民の弾圧を継続し、国民の自由を許さない中国や北朝鮮を見れば、答えは言うまでもありません。危険なのは、共産主義思想です。
息子たちに言います。だからといって、日本や欧米諸国が危険な国でないと、言っているのではありません。双方比較した場合、より危険なのは社会主義思想の国と言っているだけです。
安倍総理が独裁者だとか、国民弾圧の政治家だとか、反日野党のスローガンの拙さを見分ける知識を、身につけて欲しいと思います。
話が飛びますが、北方領土の返還は、歴史を知れば容易ではありません。安倍総理が、プーチン大統領と個人的に親しくしても、ロシア国民が許さないはずです。あの時スターリンは、十分の余力を持って対日参戦したのでなく、ドイツとの最終戦を終わるまで、内実は薄氷の戦いをしていました。
「ヤルタ会談」で、スターリンが余裕たっぷりにルーズベルトと会談したのは、政治家特有の「騙し合い」でした。北方領土は、ロシアがドイツとの戦いで流した血を代償に奪ったのです。まして、アメリカの同意のもとでの領有となれば、日露の話し合いだけで終わると思えません。
何かあれば、軍事バランスが崩れますから、大国は常に現状を変更することに目を光らせています。「三国干渉」は日清戦争時の昔話でなく、現在も生きている「国際政治」です。
思いがけない国が、思いがけないところから、妨害したり邪魔をしたりするのが国際政治だと、氏の本が教えてくれました。
安倍総理が掲げる「憲法改正」しても、反対しているのが、中国や、韓国・北朝鮮だけであるはずがありません。同盟国であるアメリカも、ロシアも、日本が普通の国になることを喜んでいません。
ブログの最初の日に取り上げた、笹本氏の言葉を再度紹介します。
・日独同盟というようなものも、詮じ詰めれば、やはり幻想の産物ではなかったのか ? そう思うと孤立無援の日本が、にわかに心細く、思われてくるのだった。
国際政治を見てきた氏が、思わず漏らした一言は、今も、そして今後も生き続けるはずです。「孤立無援の日本」・・、それなのに日本を国内から崩壊させようとする、反日左翼の害虫たちがいます。まずはこの虫どもを退治しなくては、日本の明日がありません。
お盆が、明日で終わります。ご先祖様にお供え物をし、お祈りをしました。
・ご先祖様、息子や孫たちをお見守り下さい。
・私と家内は、適当な時に呼んでください。いつそちらに行っても、二人に後悔はありません。
日本の政治については、お祈りしませんでした。