ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『戦没農民兵士の手紙』 - 5 ( 松下八洲雄氏、世津定弘氏 )

2018-03-31 23:36:59 | 徒然の記

  [ 松下 八寿雄氏 ] 

  氏京都府船井郡出身、自作農、

  昭和19年7月 ニューギニア・サルミにて戦死、

  妻と子供五人、45才、軍属

   妻・きさのさん宛の手紙  〉

    ・自分は、応召以来病気しなかったが、現在いる処が、有名な不健康地帯のため、とうとうマラリアに冒されました。
 
   ・今はもう、すっかり治ったから、安心して下さい。

   ・マラリアで休んでいる間に、次のようなことを自分は決心した。

   ・これは決して空想ではない。自分がもし、無事帰還できたらぜひ実行する。

   ・もし万一、帰還できない場合は、子供たちを含めみなでやって下さい。

     一、家庭内から怒りを追放し、日々笑って、家内一同和合する。

     一、めいめいの仕事に、一生懸命魂を打ち込む。

     一、入るを計って、出ずるを制す。何ごとにも無駄の排除。

     一、予算生活の確実実行。主婦の役目として、決心と協力を願う。

     一、父の老後を楽しめるよう、不自由のない程度に家屋の修理をしたい。

   ・右のようなことを、ぜひやり遂げたいと思う。家内揃って、楽しく暮らそうよ。このことは父上にも、申し上げてくれ。

   ・文雄にも、申し聞かせてくれ。今後自分の道は、一大転換するやも知れぬが、どんな時でもこれだけは実行しようね。

   ・今しばらくだ。永いことではないと思う。頑張って留守を頼む。体をくれぐれも大切にね。

  軍属というのは、どういう立場にいて何をしているのか、軍隊で兵士と同様に働く人なのだろうと、そんな認識しかありません。

 戦地でマラリアになり入院した時、松下氏はこんなことを考えたのかと意外な気がします。

 いっぱし分かったような意見を述べる私ですが、自分の家庭に関し、これほど真面目に考えたことが一度もありません。まして妻に語りかけ、父親や長男にまで伝えてくれと頼むなど、照れ臭くてなりません。

 死と隣り合わせの戦地で病気をすると、人は心境に変化を来すのでしょうか。

 笑顔に満ちた家庭、勤労の精神、無駄の排除、計画性のある生活、親孝行と、どれ一つ取っても人間の正しい生き方です。漫然たるこれまでの自分を反省し、氏は軍隊で得た悟りを妻に伝え、楽しみに待っていてくれと言わずにおれなくなったのでしょうか。

   長男・文雄くん宛の手紙  〉

   ・久しくご無沙汰しました。おじいさん始め、お母様や姉さん、弟妹たちも、元気にそれぞれの仕事に、励んでいることと思います。どうぞ、みな体を大切にして下さい。

  ・殊にその許は今最も発育盛り、体を鍛え精神を練るには今をおいてはありません。他日に悔いを残さぬよう、十分心がけて、身体の鍛錬、精神の修養を切望します。

  ・国家未曾有の時局下の青年は、健康な体躯と頑健な日本精神を把握しなければなりません。切に練磨を望みます。

  ・すべては皇国のためです。お互いに頑張りましょう。幸い父は、いたって元気、留守をよろしく頼みます。

 私も日本を愛する国民の一人で、一連の「ねこ庭」のブログにしても、息子たちに残したいと願っています。しかし氏のように真正面から、自分の思いを語れる父親をなんと受け止めれば良いのか。時代が違うせいなのか、やはり照れ臭い思いが消せません。

 しかしこの思いは、氏の戦友の手紙を読んで、一瞬のうちに無くなってしまいました。父として夫として精一杯の遺言であったと分かり、己の不明を恥じました。

 [ 世津 定弘氏  ] 

  滋賀県滋賀郡出身、昭和20年7月5日出し 

  松下氏の戦友

   松下氏の妻・きさのさん宛の手紙  〉

      ・拝啓、初夏の候、貴家ご一同様には、ますますご清祥の御事と存じます。

    ・小生この度、復員を致しまして、ご家族の皆々様に、このお便りを差し上げます心の苦しさをお察し下さいませ。

    ・ご主人様、松下君には、出征以来無二の親友として交わり、お互いに助け合い励ましあって、幾戦線を超えました。
 
    ・昭和19年4月戦況の悪化により、ホーランジャよりサルミへの転進を開始。
    ・死の転進行軍二ヶ月余、無事サルミに到着し、
 
    ・同地にありて作業中、7月1日の大爆撃にて松下君は不幸爆死されました。
 
    ・小生、丁度その日は別の作業にて夕方帰隊、
 
    ・松下君の悲報に、墓前にて思わず男泣きに泣きました。
 
    ・朝の元気な顔が、夕には魂と変わりませしこの姿に、ただただ胸迫り、
 
    ・運命とは言いながら、幾年月苦楽を助け合った二人でしたが、松下君の御魂を抱いて二年余、
 
    ・今自分は故国に帰り来て、ご遺族の皆様にご報告する小生の胸は、張り裂けんばかりです。
 
    ・いっそのこと、公報にてご承知されるまで、お知らせ致すまいとも思いましたけれど、それでは松下君の英霊に申し訳なく、今ここに拙き筆を運びます次第。
 
    ・ご家族様には、さぞさぞ御驚き、御悲しみ、いかんとも御慰めの言葉も、これなく。
 
    ・皆々様も、ご自愛専一にて、新日本建設にご奮闘なされてこそ、地下の松下君も、成仏されることと信じます。
 
    ・いずれ一度は、御墓参りに参上致したく思いますれども、先ずは取り敢えず、書面をもって、ご通知、お悔やみを申し上げます。  敬白
 
 明治38年、日露戦争中に作られた歌があります。軍歌というにはあまりに悲しい「戦友」と名のつく有名な歌です。世津氏の手紙を読んでいますと、この歌が頭に浮かび、軍隊に戦友があるというのは作り事でなかったと教えられました。


  ここは御国を何百里 離れて遠き満州の
    赤い夕陽に照らされて 友は野末の石の下

  思えば悲し昨日まで 真っ先駆けて突進し
    敵をさんざん懲らしたる 勇士はここに眠れるか

  ああ戦いの最中に 隣に居ったこの友の
    にわかにはたと倒れしを 我は思わず駆け寄りて

  軍律厳しき中なれど これが見捨てておかりょうか
    しっかりせよと抱き起こし 仮包帯も弾の中
 

 自分だけが生還した後ろめたさに、松下氏の家族に訃報をすぐに伝えられず、二年余も迷った挙句、「それでは松下君の英霊に申し訳なく、」と、やっと出した手紙です。

 二人の兵士の心を思いますと、戦争を賛美したり肯定したりしようとは思いませんが、ここに書かれているのは、石川氏が解説するような非道な日本軍ではありません。

 無駄死にとか哀れとか、そういう言い方は非情です。亡くなった方々に対し、世津氏のように「英霊」という言葉を捧げて、どこがおかしいのでしょう。

 反日左翼の人々は何もかもひとまとめに、「軍歌」「右翼」「好戦主義」と攻撃しますが、「戦友」は戦争哀歌であり反戦歌ではないのかと、そんな気がします。

 石川氏は、『戦没農民兵士の手紙』を、反戦平和の書として世に出し、戦前の日本を軍国主義、絶対天皇制、右翼のレッテルを貼りつけ、弾劾したつもりなのでしょうが、その目論見は成功したのでしょうか。「ねこ庭」には疑問だけが残りました。

 今晩も遅くなりました。長く続けたこのシリーズを、予定通り本日で終わりといたします。お休みなさい。

コメント (2)
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