当時の中国の最高指導者は、
毛沢東、 劉少奇、 周恩来、 朱徳、
陳雲、 林彪、 鄧小平 だった。
上海市長の曹荻秋、黒龍江省省長の李範五、あるいは北京市長の彭真という要職にあった人物たちが、首に看板をかけられ、頭髪をかられ、子や孫の年代の紅衛兵たちに、罵られ殴られている朝日新聞の写真を見た。
更に上層部の国防相彭徳懐や、人民解放軍総参謀長の羅瑞卿などが棒で叩かれ、足蹴にされる報道写真を見せられ、何が何やらさっぱり分からなくなった。
当時『暴虐の人スターリン』という本が出版され、私はこれを読んでいた。共産党の独裁政権を確立するには、冷酷な粛清が伴うことも知っていた。
上司でも部下でも、盟友も恩人も、権力を手に入れるためなら、臆することなくスターリンは抹殺した。だがそれは大人同士の殺し合いで、少年や少女に政敵をなぶり殺しにさせるような、非常識な酷さではなかった。
紅衛兵たちの拷問がいかに酷いものだったか、一部を本から紹介する。
・紅衛兵は文化局の責任者や、著名な芸術家たち30人以上を吊るしあげた。
・首に、「妖怪変化 」「反動分子」などと書いた看板をかけさせ、頭髪の半分を剃り上げ「陰陽頭 ( おんようのかみ ) 」にした。
・頭から墨汁をかけ、燃え盛る火の前にひざまづかせ、ベルトで殴打した。
・その中には、世界的な作家である、老舎がいた。67才だった彼は、頭から血を流し力尽きて倒れた。
・このため態度が悪いとされ、深夜に至るまで虐待が続いた。翌朝になり老舎は帰宅したが、その日のうちに入水自殺した。
・1966 ( 昭和41 ) 年の、8月から9月にかけ、大興県の各地では、22世帯の80才から、生後3ヶ月の乳飲み子までが325人が、紅衛兵たちの犠牲となった。
・こうした地獄絵は、中国全土に広がった。
・文革後に公表された数字によると、北京市だけでも8月から9月までの間、撲殺された人は1,529人にのぼる。
・紅衛兵たちは、失脚した党や軍の幹部たちにも、名前や罪状を書いた三角帽をかぶせ、市中を引き回し、あらゆる精神的、肉体的な拷問を加え次々と死に追いやった。
なぜこうした悲惨なことが発生したのか、当時新聞を読んでも分からなかったことが、この本で明らかになった。
・集団的なある種の狂気が、人々を支配していた。
・毛沢東がお墨付きを与え賞賛した紅衛兵たちが、敵とみなす者は、牛鬼邪神であって、人間ではない。
・それらを人間扱いすれば、自分が攻撃される側になりかねない。自分の命を守るためには、常に攻撃する側に身を置いていなければならない。
・ 1966 ( 昭和41 ) 年の8月、北京の紅衛兵連絡総所の設立式で、周恩来はこう言った。
・われわれは無産階級の専制国家であり、政権は、われわれの手中にある。
・必要なのは文闘 ( 言論による闘争 ) であり、武闘や人を殴ったりすることではない。
・黒五類 ( 地主や反革命分子 ) とその家族を、一掃することなどできない。これは無政府主義であり、毛沢東思想ではない。毛主席が一貫して主張しているのは、彼らの改造なんだ。
だが毛沢東は、そう思っていなかった。彼は人民解放軍医院の李宗仁に、次のように語った。
・大衆が動き出したようだ。大衆が動き出すと、自分の考えだけではどうにもならなくなる。
・火をつけたのは私で、もう暫く燃やす必要がある。祖国は、かってより強大になったが、十分じゃない。
毛沢東は、中国内でフルシチョフとなる可能性のある、劉少奇と鄧小平を倒すまで、「文化大革命」を止める気はなかった。中央工作会議で陳伯達らが、劉少奇と鄧小平を名指しで批判しても、毛沢東自身は、二人を直接批判することを慎重に避けていた。彼は沈黙して、時期を待っていた。
彼の代わりに実権を振るい、過激な紅衛兵を動かしたのは、のちに四人組と呼ばれる江青、張春橋、 姚文元、王洪文たちだった。十万人の集団となった紅衛兵は、自殺未遂で足を骨折していた元人民解放軍参謀総長の羅瑞卿を、網カゴに乗せて連行し、容赦ない拷問を行った。
・建国前からの革命闘士で、党の最高幹部である劉少奇や、鄧小平が反革命であるのなら、真の革命はどこにあるのか。
古参の幹部につらなる紅衛兵から、疑問が呈されるようになり、互いが相手を「反革命」とののしりあう、紅衛兵同士の抗争が頻発したという。
血で血を洗う政争に、少年少女を巻き込む凄惨な殺し合いを、毛沢東が黙認しているとき、朝日新聞は、「文化大革命」の賞賛記事を書いていた。日本国民に、苦悶の中にいる中国国民については伝えなかった。
「慰安婦問題」の捏造記事に劣らない偏向報道だったと、私は知った。社説では弱者の味方と述べているが、朝日新聞がしていたのは、「強きを助け弱気を挫く」反人道的報道だった。
1966 ( 昭和41 ) 年に、毎日新聞、西日本新聞、産経新聞等が北京から追放されても、文化大革命を肯定する朝日新聞が残った。中国の不利になる記事を書かないことを条件に、一社だけ追放されなかったため、「朝日と中国の密約」と今でも蔑まれている。それでも朝日新聞は、日本の全国紙のトップに位置している。
次回は、朝日新聞が賛美する「文化大革命」の中で、劉少奇元主席がどのような最後を遂げたのかを紹介する。