石原氏の著書「国家なる幻影」を、読み終えた。
好き嫌いという個人的感情と、尊敬の念は別物でないかと、複雑な思いに捉われた。平成7年に議員在職25年となった氏は、院内表彰を受けることとなった。敗戦後の日本の政治を放置した責任は、政治家にあり、その一員として自分は表彰を受ける気になれないと、氏は辞退の決意をする。
前例が無い話だと周囲が騒ぎ、慣例を破ることによる関係者への迷惑を知り、氏が選んだのは、表彰を受ける時をもって議員辞職をするという道だった。この時の心境を、次のように語っている。
「議会政治という桎梏の中に縛られたまま、当初の志を阻害されたまま、なお議席を占めている自分の不甲斐なさに、止めを刺すべき時だった。」「私が果たし得なかった国家への責任の、最低限の履行としても、それしかあり得ぬと自分に納得させていた。」
議員なら喜んで受ける晴れの表彰を契機に、彼は「士」にふさわしい決意に繋いだと言える。
奇を衒っている、売名行為だなどと言われたに違いないが、そうした非難に負けないのが氏だった。米国議員の恫喝にたじろがず、反対に相手を怯ませたり、大蔵官僚の尊大な警告を逆手にとって懲らしめたり、氏の行為は政界の常識から見れば「奇」なるものばかりだった。
売名など、ことさら企てなくても、マスコミや野党や反対者たちが騒ぐから、何をしても名が売れ、むしろ迷惑し通しだったのかもしれない。
事実は知らないが、在職表彰が紙切れ一枚というはことはなく、金一封とか特別年金とか、そんな実益が添えられているはずだ。永井荷風が文化勲章の受賞を知らされた時、「勲章は要らないが、年金がつくのなら貰う。」と言った有名な話があるが、国の表彰には大抵そんなものが付随している。まして、利権の好きな政治家の、永年勤続賞においておやだ。
自分にできないことをする人間に、昔から敬意を払う私は、辞退という意思表示だけで、氏に敬意を表する。更にその理由が、政治家としての責任感とくれば、潔さに惚れ惚れする。
本の中で、氏が辛辣に語る政治家たちについては、間違いないだろうと素直に受け入れる。
三木武夫、宮沢喜一、細川護熙、海部俊樹、金丸信、小沢一郎、河野謙三、河野洋平、美濃部亮吉、これら各氏の言動は、自分の推測と重なるものがあるだけに、不愉快この上なしだった。引用すれば良いのだろうが、その気にもなれない。興味がある人は、本を買うか、図書館で借りれば良い。
しかし私の印象と異なる政治家もいた。賀屋興宣、宇野宗佑、渡辺美智雄、土井たか子といった人々だ。
新聞報道だけで、政治家の批評はできないと痛感した。ことに氏は、賀屋興宣氏を高く評価している。というより、尊敬という言い方の方が近いのかもしれない。高校生の頃だった思うが、賀屋氏については、選挙のポスターで名前を見て、戦争犯罪人なのにどうして議員になれるのだろうと、不思議に思った記憶しかない。
明治22年に広島で生まれた賀屋氏は、東大卒業後に大蔵省へ入り、近衛内閣と東条内閣で大蔵大臣を務めている。東京裁判でA級戦犯となり、巣鴨刑務所で10年間服役し、昭和35年に岸信介氏たちと共に赦免され、池田内閣で法務大臣になっている。
その後日本遺族会の会長を務め、昭和52年に88才で没した。政治家は誰もが勲章好きなのに、氏は身を律することに厳しく叙位・叙勲の全てを辞退していた。
あまり人を褒めない石原氏の意見なので、興味が湧いてきた。
「戦争前から戦争にかけて、無類の財政能力を発揮したが故に、」「その挙句、戦争犯罪人に仕立て上げられたこの人物は、」「少なくとも私が今まで政界で眺め渡した限り、最も知的な人物だった。」
「あの人は当時、左の陣営だけでなく、右側にも嫌われていた。」「ということこそが実は、氏が左なる者のいんちきを軽蔑しきっていたように、」「大方の右もまた、いい加減なものでしかなかった、ということの証左と言える。」
「自由党総裁だった緒方竹虎は、自分の健康に一抹の不安を抱いていた。」「自分に万一のことがあったら、総裁の座をついで欲しいと頼まれた時、」「犯罪人の名を被った人間は、国家の首班となり得る地位に就くべきではないと、氏は頑なに拒んだ。」
「この話を聞いた自分が賀屋氏に質すと、爽やかな答えが返ってきた。」
「あれはただ私の哲学みたいなもので、別に岸信介君への皮肉でもなんでもありませんよ。」
ついでに石原氏が東京裁判への法的疑義を口にすると、
「でもね、勝ったものが勝って奢って、負けたものを裁くのは、当たり前じゃありませんか。」「個人にせよ、国家にせよ、人間のやることは、所詮いい加減なものですよ。」「万が一、我々が勝っていたら、もっと無茶な裁判をやったでしょうな。」
氏の徹底したシニスムに感服して以来、石原氏は政治家の生き方を学んだのではなかろうか。シニスムの意味を辞書で調べると、
「冷笑主義」、「万象を覚めた目で直視し、軽蔑し、鼻で笑う態度」など、色々ある。この中から、私は氏のため、「冷静に、物事の本質を見通していること」というのを選んだ。
占領軍により、軍国主義者の一人として裁かれ、絞首刑となるA級戦犯にされ、10年間も刑務所にいた賀屋氏の言葉だ。自己弁護もせず、恨みの一言も言わず、氏が、東京裁判の不条理を語っている。石原氏だけでなく、私も感銘させられる潔さがある。
復讐裁判でしかなかったものを、金科玉条の判決として押し頂き、今もなおその論を展開して恥じない、反日と売国の人間たちがいる。それを許すマスコミ、政治家、文化人や学会など、きっと石原氏は冷笑せずにおれなかったのだろう。
政治家として25年も働いたのに、何も変えられなかった自分の不甲斐なさを見つめ、彼は表彰を契機に議員を辞職した。彼の心の底にあったのは、賀屋興宣氏のシニスムへの共感だったのではないかと理解する。
今日は11月13日、曇天の空だ。
昨日やっと、夏物と冬物の入れ替えが終わったところだ。先日庭で転んで骨折した肋骨も、回復順調らしく痛みがなくなった。石原氏や平泉氏に比べれば、まだ若いから、老け込んではおれない。
家族やふるさとを大切にし、国を愛し、生きている限り国を思って語り続ける、これらの人を見習いたい。国民の一人として、貧者の一灯でもいいから掲げ続けたいと、石原氏の著書が励ましてくれた。
書けば切りがないほど多くの思いがあるが、あと一回氏について少し語りたい。