正常と異常のはざまとはどこにあるのだろう。
かつて、デカルトのコギトは狂気を排除しているかについてフーコーとデリダが論戦したこともある、難しい課題だ。
画家の自画像を見ると帽子をかぶり、厚手のコートをきていかにも陰鬱そうだ。
画家が絵を描き出したのは精神病院を退院してから、しかもアルコール中毒のため外に出ることができないと訊けば、誰もが陰鬱な絵を描く人を想像するだろう、僕も以前はそう思っていた。
画家の名前はモーリス・ユトリロ、その回顧展を日本橋高島屋で観る。
「白の時代」ともいうが、白い壁を多く描いたところに閉じ込められたものの心理がうかがえなくもない。
しかし今回見直してみて意外とこの画家まともというか生気に満ちた絵を描く。
それは雪景色を描いた絵を例外とすれば、ほとんどの絵に緑の木々がいつも目立つことにある。
枯れた枝などほとんど見受けられないのだ。
「イヴリーの療養所の人々」1924などとても療養所を描いたとは思えない、生気にあふれている。
こんな絵が売れないわけがない、逆に言えば陰鬱な絵ならばこれほど売れただろうか。
しかしながらユトリロは絵が売れても金に無関心で、酒にありつけることがもっぱらの関心事だったという。
彼は外に出られないのでもっぱら絵葉書を見て描いたというがそうとは思えない臨場感だ。
それはユトリロが結婚するとますますだ。
1936「花瓶の花」は見事な色彩だし、同じ年の「アングレームの城壁」も幸福感あふれる。
しかしこの画家の絵は母親ヴァラドンが世を去ったことと関係するのか晩年になるほど生気が乏しくなる。
「生気のある通り」1950は人影もまばらで題名に反して生気はまったく感じられない。
どんどん色彩感にも乏しくなる、なかなか人間というのは面白い。
絵の解説は会場にまったくないが、代わりにいろいろなエピソードがパネル展示されるのが良い。
ユトリロは母親とジャンヌダルク以外の女性には興味なかったとか面白いものがある。
没後五十年を記念した展覧会はこのあと横浜、大阪、京都、名古屋と回ります、なかなかいい展覧会でした。
かつて、デカルトのコギトは狂気を排除しているかについてフーコーとデリダが論戦したこともある、難しい課題だ。
画家の自画像を見ると帽子をかぶり、厚手のコートをきていかにも陰鬱そうだ。
画家が絵を描き出したのは精神病院を退院してから、しかもアルコール中毒のため外に出ることができないと訊けば、誰もが陰鬱な絵を描く人を想像するだろう、僕も以前はそう思っていた。
画家の名前はモーリス・ユトリロ、その回顧展を日本橋高島屋で観る。
「白の時代」ともいうが、白い壁を多く描いたところに閉じ込められたものの心理がうかがえなくもない。
しかし今回見直してみて意外とこの画家まともというか生気に満ちた絵を描く。
それは雪景色を描いた絵を例外とすれば、ほとんどの絵に緑の木々がいつも目立つことにある。
枯れた枝などほとんど見受けられないのだ。
「イヴリーの療養所の人々」1924などとても療養所を描いたとは思えない、生気にあふれている。
こんな絵が売れないわけがない、逆に言えば陰鬱な絵ならばこれほど売れただろうか。
しかしながらユトリロは絵が売れても金に無関心で、酒にありつけることがもっぱらの関心事だったという。
彼は外に出られないのでもっぱら絵葉書を見て描いたというがそうとは思えない臨場感だ。
それはユトリロが結婚するとますますだ。
1936「花瓶の花」は見事な色彩だし、同じ年の「アングレームの城壁」も幸福感あふれる。
しかしこの画家の絵は母親ヴァラドンが世を去ったことと関係するのか晩年になるほど生気が乏しくなる。
「生気のある通り」1950は人影もまばらで題名に反して生気はまったく感じられない。
どんどん色彩感にも乏しくなる、なかなか人間というのは面白い。
絵の解説は会場にまったくないが、代わりにいろいろなエピソードがパネル展示されるのが良い。
ユトリロは母親とジャンヌダルク以外の女性には興味なかったとか面白いものがある。
没後五十年を記念した展覧会はこのあと横浜、大阪、京都、名古屋と回ります、なかなかいい展覧会でした。