かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

令和3(2021)年の始まりと、お節料理

2021-01-10 01:49:15 | 気まぐれな日々
 いつの間に 季節(とき)は移ろひ 花も散り
       憂き世の春の 行方知るかや
                 (沖宿)

 令和2(2020)年の昨年は、初めて体験するもの憂い1年だった。
 燎原の火のごとく広まった新型コロナウイルスのパンデミックによって、自由でありながら自由でない、自由でありたいのに自由を抑制するという、何とも言いがたい不安とジレンマに充ちた月日を送った。
 そして、季節感をあまり感じない1年だった。
 それでも振り返れば、雪が降り、桜が咲き、暑さで汗をかき、茶色に染まった枯葉が舞い散り、時は何事もないように進んで、季節は変わっていったのだった。
 去年の4月から9か月、東京では令和3(2021)年1月の松の内が終わる7日に2度目の緊急事態宣言が発出、8日から実施とされた。

 緊急(非常)事態宣言とは、主に戦争や騒乱、テロ、自然災害、パンデミックなどの有事の際、国家や地方自治体が宣言・発令するものである。
 先に「コロナ時代の哲学」で触れたが、緊急事態宣言は権力側が施行するもので多くは人々の自由を抑制することを含む。それゆえ、宣言を受ける国民、人々は多かれ少なかれ反対の意向を持つものである。
 しかし、今回のパンデミックの際には、経済を回したい政府サイドは緊急事態の宣言には消極的だったように見え、一般の人々の方から宣言が遅い、もっと早くという意見が窺われた。人々の自由を束縛・抑制する緊急事態宣言の持つ性格としては、逆転現象である。
 このことは、「コロナ時代の哲学」のなかで國分功一郎が述べた、「我々が今、進んで民主主義を捨てようとしていることへの警鐘と捉えるべきかと思う」、というような事態なのか。

 そして、政府や都は再度、「不要不急の外出自粛」を促した。いわば、生命の維持に直接結びつかないものや行動は控えるということだ。そのような意味では、文化や娯楽は不要不急といえよう。そもそも文化や娯楽は余剰から生まれるものだからだ。
 「不要不急」の反対語は「必要火急」である。ところが「必要火急(緊急)」なものだけでやっていくと、肥大した経済が回らなくなりやせ細っていく。今日の資本主義は、「不要不急」と「必要火急」は経済で繋がっているのだ。
 複雑で難しい事態、状況である。

 去年、印象に残った言葉は、
 「相手が正しい可能性はある」(ドイツ哲学者ハンス=ゲオルグ・ガダマー)

 イギリス、ドイツ、フランス、イタリアなど欧米各国も、新型コロナウイルスの拡大を受けて、再度、ロックダウン(都市封鎖)を含め規制強化をしている。
 こうして世界を見渡しても、いまだパンデミックの沈静化が見通せない今年の幕開けである。

 *正月のお節料理

 自粛ムードのなかで迎えた正月は、今年も例年通り一人の手抜きお節である。
 蒲鉾、昆布巻き、田作り、で一応お節の基本形を施す。田作りは、カタクチイワシ(ゴマメ)を醤油と砂糖でまぶしたもの。
 黒豆の代わりに茹でた枝豆。茹で玉子。ホウレン草のおひたし。南瓜煮。豆腐。そして、刺身はカンパチ。
料理らしいものは何もないが、簡単でいい。
 年に1度正月だけ買う日本酒は、ここのところ越乃寒梅である。惜しいことに、今年はお屠蘇はなし。徳利と猪口は、去年までの藍の深川製から白地の西山製に代えてみた。
 今年は、買いそびれたこともあって、華やかさを付け加える花はない。それも、今年らしいと自分に言い訳をする。
 (写真)
 外は雲一つ見えない澄み渡った青空で、窓からは強い日が差している。
 青空は救いだ。そこに、ちぎれた雲があってもいい。いや、私は雲があった方がいい。
 お節の後、雑煮を食べたらもう日が暮れなんという時刻だ。何とも1日が速い。

 暗くなってから、近くの多摩・落合白山神社に行ってみた。
 今年は神社が例年おこなっている甘酒のふるまいもなかったようで、境内に電灯の飾り灯は付いてはいるものの、夜ということもあってか自粛ということもあってか、人はほとんど見かけない。
 侘しさの漂う閑散とした初詣だ。

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