写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

県境の橋

2015年08月05日 | 岩国検定

 来年は、明治維新につながる第2次長州征討、別名「四境の役」から150年目を迎える。長州が幕府軍に4つの口から攻め込まれたことから長州側では四境の役と呼ばれている。私が住んでいる直ぐ近くの県境の小瀬川を挟んで芸州口の戦いがあった。どんな戦いがあったのか、この春、資料を集めて[四境の役・芸州口の戦い」という1冊の本にしてみた。史跡などの写真も沢山取り込んでいる。

 久しぶりに取り出して読んでみると、重複掲載していたり、気になるところが幾つもあった。写真ももう少し増やしたい。その一つとして、小瀬川の大竹市側の土手にある四境の役の戦跡碑の写真を撮りに出かけた。「長州之役戦跡碑」と書かれた石碑が長州に向かって建っている。昭和43年に、明治100年記念として建てられたものであった。

 撮り終えて直ぐそばの小さな公園を見ると、腰の高さくらいある2本の石柱が記念碑のように建っている。近寄ってみると「大和橋」と大きな文字が彫り込んであった。傍の説明板には、近くに架かっている大和橋の歴史が書いてある。今の橋は1997年に架け替えたものだが、その石柱は1926年(大正15年)、橋を架け替えた時のものであった。

 説明板の最後に、「大和橋」という名前の由来が書いてある。橋の名前は1886年(明治19年)の架橋時に付けられたものだという。1866年(慶応2年)、四境の役の芸州口の戦いにおいて、和木側で軍を構えた長州軍が、現在の場所に架かっていた土橋を取り払って、大竹側の幕府軍と小瀬川を挟んで対峙した。後年、その場所に架けた橋を命名する時、大竹と和木の連携を深める意図により、両地域の頭文字を組み合わせて「大和橋」と名付けたと書いてある。

 長年近くに住み、何度となく渡ったことのある橋の名前が、今やっと四境の役にかかわることを知った。150年前にあった四境の役も、今は昔。小瀬川を挟んで睨みあった両地区の末裔も、恩讐を越えて協力し合って生きている。県境(けんざかい)の橋は今日もケンザイである。