ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシの飼い主(6)

2008-02-08 16:17:30 | Weblog
2月8日 久しぶりに快晴の朝だ。気温-6.5度と冷え込む。ワタシは、こんな寒い朝に外に出るのはイヤだ。ストーヴの前で寝ているに限る。
 飼い主が言う。「このくらいで寒いだなんて、北海道ではこれが日中の最高気温だぞ。オマエは寝ていて、知らなかったろうけれど、オレは昨日、もっと寒い山に登ってきたんだぞ。山の上では、風が吹きつけて、毛糸帽子かぶっていても、耳は痛いし、鼻や口も冷たいし、ちょっとした北海道気分だったなー。あの、にしおかすみこ印の風のムチが、たまらん。山はいいなー」 
 またはじまった。まったく、バカじゃないの。昨日、ようやく帰ってきたかと、出迎えたものの、ワタシはニャーと鳴きかかった声を一瞬、止めたほどで、そこに赤鼻のトナカイの顔が・・・よく見れば飼い主の顔、鼻の頭だけ雪焼けして、そんなにしてまで山に登りたいものかねー。
 だいたい高い所に登りたがるという、一部の人間たちの気性が分からない。コトワザにも、「バカとアホウは高い所に登りたがる」とか、「ブタもおだてりゃ木に登る」とか、ろくなものはない。キツイ、クルシイ、キタナイという目にあって、疲れ果てて帰ってくる。まったく、何がいいのか、そのたまらんという、にしおか何とやらに会ってみたいもんだ。ワタシの思いとは裏腹に、飼い主が山の話を続けた。ワタシは目を閉じて、仕方なく聞いてやった。
 「今日は素晴らしい快晴で、少し悔しい気もするが、昨日は山の上では風が強く、雲の流れが速くて、のんびりと雪山トレッキングを楽しむという感じじゃなかった。しかし、人も少なくて、まあいい登山だったと思う。
 牧ノ戸峠までのクルマでの道のりは、周りが雪景色のわりには、ほとんど凍った所もなく、いつもと変わらない時間で行くことができた。沓掛山に登り、縦走路をたどって分岐から扇が鼻へ。吹きつける風が耳や顔を刺す中で、しばらく待っていると、雲が取れてきて、久住山、中岳、天狗が城、星生山と見えてきた。雪と風の作る紋様、風紋やシュカブラなどの雪の斜面の彼方に、山々が立ち並ぶ姿・・・この光景に出会うために登ってきたのだ。
 山に登る人々には、様々な目的があるだろう。仲間と語らいながら歩く楽しみのため、草花や木々を見るため、山頂からの眺めを見るため、写真撮影のため、あるいは登山の記録のため、岩壁や沢ルートの記録のためなど、さらにその範囲も、なだらかな山へのハイキングから、沢登り、冬山の厳しい雪稜やロック・クライミングを目指す人たちまで、千差万別だし、それぞれが自然に親しみ、山を楽しめばいい。
 彼ら彼女らの山好きに共通するのは、そんな苦しい山登りをあえてやり続けるという気持ち、そこには確かに、にしおかすみこのムチならぬ、苦痛に耐えての何らかの喜びがあるからなのだ。つまり他のスポーツや自己鍛錬(たんれん)などと同じように、目的を目指しての苦しい行動だから、耐えられるし、あえて求めると言う気持ちになるのだ。
 それは、山登りが好きな人たちは、自分の体を痛めつけるマゾっ気のある人たち、ということではないのだが、山登りの激しい運動の最中、もう息が切れてダメだとか、もう足が疲れてダメだと、へたへたと座り込んで休む前後に、何というか一瞬、ぼーっとした解放感に包まれることがある。
 人間の体は良くしたもので、極端に言えば、激痛で気を失ったり、死の苦痛の後に一瞬、それらの苦しみを遠ざけてくれるような安らぎが訪れるというし、同じような作用で、つらい運動の継続の後に、その苦しさを癒(いや)すためにある種の快感に似たボーッとした感じになるのだろう。
 話がすっかりそれたけれど、理屈はともかく、海の好きな人が海に行くのと同じように、山が好きだから、山に行くのだ。
 さて今回の雪山歩きは、その扇が鼻から縦走路に戻り、久住山(1787m)を往復してきた。高さは中岳(1791m)に次ぐとはいえ、西側から見たその三角錐の見事な山容は、九重山群の主峰だと言うのにふさわしい。
 天気がよければ、まだいくつかの峰を歩きめぐるのだが、これほど曇っているとその気にもならない。帰りは早い。踏み固められて歩きやすい雪の道をずんずん歩いて、牧ノ戸峠に戻る。5時間ほどの軽い雪山歩きだった。そして、家ではミャオが待っているからと、帰ってきたら、なんとオマエはまだコタツのなかに入ったまま、昨日の夜から一体、何時間寝れば気がすむんだ。」
 あー、そうですか。それはご苦労なことでしたね。ワタシはいろいろと、夜のお仕事がありましてね。昼間寝て、体力を回復させているんですよ。この好かんタコが。

ワタシはネコである(19)

2008-02-05 16:45:03 | Weblog
2月5日 朝、-4度、曇り空。三日前に12cmの雪が積もり(写真はそのときの庭の木)、まだ大分残っている。そのうえ、ダイアル・アップ式の遅い速度で、インターネットがつながらないと、飼い主がこぼしていた。
 さすがに、あのマイケルもこの雪の中、1キロも離れた所から、ワタシに会いに来るのは大変なのだろう、姿が見えない。一般に、ネコのニャンニャンの期間は、冬から春にかけての数ヶ月らしいが、それならあの雪深い北国の猫たちはどうしているのだろう。
 人の来ない物置小屋などの密会の場所があるのか、それとも雪まみれになってのニャンニャンなのか、雪が降ってもすぐに解けるような九州に住んでいるワタシたちは、まだましな方なのかもしれない。
 それにしても、飼い主が話してくれるあの寒い北海道から、雪も降らない沖縄まで、なんと様々な所に、日本のネコたちは暮らしていることだろう。前にも(1月3日)話したことのある、あの岩合光昭さんのネコ・カレンダー、1月は、雪の中にスックと立つたくましい飛騨郷のネコちゃんだったが、2月は一転、九州は指宿(いぶすき)の砂湯の中にいるネコちゃんだ。
 寒がりのワタシもあんなふうにしたい、ニャーと鳴く。飼い主は、ワタシの顔を見て言う。
 「ケッ、オマエが砂湯に入っている姿なんか、砂場のタヌキの置物みたいなもので、とても絵にならない。しかし見世物にはなるかも、顔だけ出して、下は砂で固めて、ハーイ、タヌキネコのできあがりーってなぐあいにな。カレンダーのネコちゃん見てみろ。真っ白なカワイイねこちゃんだ、それが赤いマフラーにくるまれて、下半身が砂の中、その目はうっとり、たとえれば京都の舞妓(まいこ)さんが、客からの初めてのお酒で、目元をほんのり赤く染めてといった風情だ、キャワイイー、たまらん。」
 馬鹿にしないでよー、そっちのせいよー。ワタシがこんなに苦労して生きてきて、年取ったのも。今の言葉、プレイバック、プレイバック、とワタシはヤマグチモモエ(少し古いなー)ふうにカッコつける。
 おふざけはそのぐらいにして、ワタシはあの三日前の、飼い主の侘(わ)び状が気になっている。三つ目の、ワタシを置いて北海道に行ってしまうという点だ。これだけは何とかしてほしい。
 ワタシたちネコに必要なものは、十分なエサ、安心して休めるところ(冬場は寒くなく暖かいこと)、そしてそれらの保障となる、飼い主がいること。その飼い主が、時々体をなでてくれて、遊び相手になってくれれば、さらにいい。
 ワタシたちは、なにも人間たちのように、一本何万円もするお酒を飲んだり、一度で何万円もする食事をしたり、ブランドものの洋服やバッグをいつも買い換えたり、何百万円もするクルマに乗ったりはしない。腹を満たす食べ物があるだけでいいし、着たきりすずめの、親からもらったたった一枚のオーバーオールの毛皮を、毛づくろいしながら大切に使っている。歩く、走る、ジャンプする、よじ登る、すべて自分の手足だけで十分だ。
 しかし、飼い主にはいつもいてほしい。ノラネコになるのは、それはそれはツライことなのだ。ワタシの飼い主が、数ヶ月もの間いなくなること、それはワタシが半ノラになることで、いつも試練の時になるのだ。
 世の中の人間たちは、ワタシたちの権利が憲法でちゃんと保障されていることを、知っていてほしい。
 猫国憲法、第三章第十三条 「すべての猫は、それぞれ一匹の個猫として尊重される。その生命、自由及び幸福の追求に対する猫の権利については、人間と共にある公共の福祉に反しない限り、最大の尊重を必要とする。」
 つまり、人間はネコたちの面倒をしっかり見て、可愛がりなさいということ・・・「ゴロゴロニャーオ」、あっ、マイケルが来た。話はまたあとで・・・。 
 

ワタシはネコである(18)

2008-02-02 17:14:53 | Weblog
2月2日 気温-2度、朝から雪がふり続いている。"雪がふる。あなたは来ない。白い雪がただふるばかり・・・。ミャーオ、ミャ、ミャ、ミャ、ミャ、ミャー。”とワタシは、フランスの森進一(ただシャガレ声が似ているというだけだが)、アダモの歌をのどの奥で転がしてみる。こんな雪の中、おそらくマイケル君は来ないだろう。 
 そんな寂しい気持ちを察してくれたのか、飼い主がワタシの体をなでながら話してくれた。
 「オマエには、三つの点で申し訳ないと思う。一つには、こんな山の中に住んでいて、仲間のネコが余りいないこと。町に居たらあたり前の、なじみのネコたちによる夜の集会もないし、じゃれあい遊びあう相手もいない。恋の季節には、本来なら何匹かのオスネコがオマエを求めて争うのに、そのスリルにあふれた楽しみも味わえないし。」 
 ワタシはニャーと鳴く。「いえいえ、ワタシは生まれ育ったこの山の中が気に入っています。あなたもご承知の通り、ワタシは群れの中にいるのがキライだし、こうして静かな所に一人で居ることの方が落ち着くのです。ワタシのところに来るたった一匹の相手、マイケルはキムタクのようなハンサムボーイの上に、品性、人格いや猫格においても立派なネコですし、このワタシにはもったいないぐらいで、出会えたことに感謝しています。」
 「そう言ってもらえばありがたいが、二つ目は、オマエが家に来る前のことで、オレがやったことではないとはいえ、子供の頃に病院で手術を受けさせたこと。つまり、母ネコとしての喜びや仕事を、経験させてやることができなかったことだ。」
 ワタシはさらにニャーと鳴く。「確かに、子ネコたちの母親になって、ちゃんと面倒を見てあげ、母ネコの喜びを味わえたらと思ったことはあります。あなたが子ネコの鳴きまねをすると、思わず聞き耳を立て、顔をまじまじと見てしまうほどですからね。言わせてもらえれば、人間は他の動物と比べて、自分たちは知性があるからと、ワタシたち動物を、本能だけで生きる下等な生き物と、見下しているようですが、そんな人間たちが、育児放棄したり、些細なことで殺しあったり、全くご立派な知性ですこと。
 少し人間の悪口を言いすぎたかもしれませんが、本当はあなたのようなやさしい人間の方が多いのだと、ワタシは思っています。(よー、持ち上げてくれるねー、夕方の今日のサカナは、少し大きめのアジだな。)
 ともかく、自分の子ネコがいなくて寂しい思いをしたとしても、今ある現実、自分の目の前を見て、生きていくしかないのです。ワタシは、この世に生まれてきた一匹のネコとして、毎日を自分の本能に従い、危険なことには臆病なまでに近寄らず、注意深くと生きてきました。そして、食べる、動く、寝る、そうした日々の行動の中にこそ、実は本当の生きる喜びがあるのだ、ということが分かってきました。そうしていれば、いつかマイケルとの出会いのような、幸運もある。つまりワタシは、一匹のネコに過ぎないけれど、十分に幸せを感じているのです。」 
 飼い主を見上げると、その目が少し潤んでいるようでした。
 「そうか、そう思ってくれるのか、ありがとね。あまりいい飼い主ではないかもしれないが、最後の三つ目は、数ヶ月の間、オマエをひとり残して、北海道へ行ってしまうことだ。近くの知り合いのおじさんにオマエのエサやりを頼んでいて、オマエもおじさんになれてきたからいいが、北海道にいてもいつも気になっているんだ。本当に悪いと思っている。」
 ワタシはストーヴの前から起き上がり、キャットフードのあるエサ置き場の方へ歩いて行った。これが一番の問題なのだ。ワタシには一番つらいことなのだ。ワタシは、まだ先のことなど考えたくなかった。カリカリと音を立てて、キャットフードを食べた。
 飼い主にとってもつらいことなのだ。それは分かっている。いつか言っていたことがある。「生きているということは、いつも別れがあるということ、出会いの数と同じだけの。その繰り返しで、人は学び、やさしくなれる。」
 ワタシにとっても、飼い主にしてもまだまだ、試練の日々が続くのだ。