ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(18)

2008-02-02 17:14:53 | Weblog
2月2日 気温-2度、朝から雪がふり続いている。"雪がふる。あなたは来ない。白い雪がただふるばかり・・・。ミャーオ、ミャ、ミャ、ミャ、ミャ、ミャー。”とワタシは、フランスの森進一(ただシャガレ声が似ているというだけだが)、アダモの歌をのどの奥で転がしてみる。こんな雪の中、おそらくマイケル君は来ないだろう。 
 そんな寂しい気持ちを察してくれたのか、飼い主がワタシの体をなでながら話してくれた。
 「オマエには、三つの点で申し訳ないと思う。一つには、こんな山の中に住んでいて、仲間のネコが余りいないこと。町に居たらあたり前の、なじみのネコたちによる夜の集会もないし、じゃれあい遊びあう相手もいない。恋の季節には、本来なら何匹かのオスネコがオマエを求めて争うのに、そのスリルにあふれた楽しみも味わえないし。」 
 ワタシはニャーと鳴く。「いえいえ、ワタシは生まれ育ったこの山の中が気に入っています。あなたもご承知の通り、ワタシは群れの中にいるのがキライだし、こうして静かな所に一人で居ることの方が落ち着くのです。ワタシのところに来るたった一匹の相手、マイケルはキムタクのようなハンサムボーイの上に、品性、人格いや猫格においても立派なネコですし、このワタシにはもったいないぐらいで、出会えたことに感謝しています。」
 「そう言ってもらえばありがたいが、二つ目は、オマエが家に来る前のことで、オレがやったことではないとはいえ、子供の頃に病院で手術を受けさせたこと。つまり、母ネコとしての喜びや仕事を、経験させてやることができなかったことだ。」
 ワタシはさらにニャーと鳴く。「確かに、子ネコたちの母親になって、ちゃんと面倒を見てあげ、母ネコの喜びを味わえたらと思ったことはあります。あなたが子ネコの鳴きまねをすると、思わず聞き耳を立て、顔をまじまじと見てしまうほどですからね。言わせてもらえれば、人間は他の動物と比べて、自分たちは知性があるからと、ワタシたち動物を、本能だけで生きる下等な生き物と、見下しているようですが、そんな人間たちが、育児放棄したり、些細なことで殺しあったり、全くご立派な知性ですこと。
 少し人間の悪口を言いすぎたかもしれませんが、本当はあなたのようなやさしい人間の方が多いのだと、ワタシは思っています。(よー、持ち上げてくれるねー、夕方の今日のサカナは、少し大きめのアジだな。)
 ともかく、自分の子ネコがいなくて寂しい思いをしたとしても、今ある現実、自分の目の前を見て、生きていくしかないのです。ワタシは、この世に生まれてきた一匹のネコとして、毎日を自分の本能に従い、危険なことには臆病なまでに近寄らず、注意深くと生きてきました。そして、食べる、動く、寝る、そうした日々の行動の中にこそ、実は本当の生きる喜びがあるのだ、ということが分かってきました。そうしていれば、いつかマイケルとの出会いのような、幸運もある。つまりワタシは、一匹のネコに過ぎないけれど、十分に幸せを感じているのです。」 
 飼い主を見上げると、その目が少し潤んでいるようでした。
 「そうか、そう思ってくれるのか、ありがとね。あまりいい飼い主ではないかもしれないが、最後の三つ目は、数ヶ月の間、オマエをひとり残して、北海道へ行ってしまうことだ。近くの知り合いのおじさんにオマエのエサやりを頼んでいて、オマエもおじさんになれてきたからいいが、北海道にいてもいつも気になっているんだ。本当に悪いと思っている。」
 ワタシはストーヴの前から起き上がり、キャットフードのあるエサ置き場の方へ歩いて行った。これが一番の問題なのだ。ワタシには一番つらいことなのだ。ワタシは、まだ先のことなど考えたくなかった。カリカリと音を立てて、キャットフードを食べた。
 飼い主にとってもつらいことなのだ。それは分かっている。いつか言っていたことがある。「生きているということは、いつも別れがあるということ、出会いの数と同じだけの。その繰り返しで、人は学び、やさしくなれる。」
 ワタシにとっても、飼い主にしてもまだまだ、試練の日々が続くのだ。