ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(19)

2008-02-05 16:45:03 | Weblog
2月5日 朝、-4度、曇り空。三日前に12cmの雪が積もり(写真はそのときの庭の木)、まだ大分残っている。そのうえ、ダイアル・アップ式の遅い速度で、インターネットがつながらないと、飼い主がこぼしていた。
 さすがに、あのマイケルもこの雪の中、1キロも離れた所から、ワタシに会いに来るのは大変なのだろう、姿が見えない。一般に、ネコのニャンニャンの期間は、冬から春にかけての数ヶ月らしいが、それならあの雪深い北国の猫たちはどうしているのだろう。
 人の来ない物置小屋などの密会の場所があるのか、それとも雪まみれになってのニャンニャンなのか、雪が降ってもすぐに解けるような九州に住んでいるワタシたちは、まだましな方なのかもしれない。
 それにしても、飼い主が話してくれるあの寒い北海道から、雪も降らない沖縄まで、なんと様々な所に、日本のネコたちは暮らしていることだろう。前にも(1月3日)話したことのある、あの岩合光昭さんのネコ・カレンダー、1月は、雪の中にスックと立つたくましい飛騨郷のネコちゃんだったが、2月は一転、九州は指宿(いぶすき)の砂湯の中にいるネコちゃんだ。
 寒がりのワタシもあんなふうにしたい、ニャーと鳴く。飼い主は、ワタシの顔を見て言う。
 「ケッ、オマエが砂湯に入っている姿なんか、砂場のタヌキの置物みたいなもので、とても絵にならない。しかし見世物にはなるかも、顔だけ出して、下は砂で固めて、ハーイ、タヌキネコのできあがりーってなぐあいにな。カレンダーのネコちゃん見てみろ。真っ白なカワイイねこちゃんだ、それが赤いマフラーにくるまれて、下半身が砂の中、その目はうっとり、たとえれば京都の舞妓(まいこ)さんが、客からの初めてのお酒で、目元をほんのり赤く染めてといった風情だ、キャワイイー、たまらん。」
 馬鹿にしないでよー、そっちのせいよー。ワタシがこんなに苦労して生きてきて、年取ったのも。今の言葉、プレイバック、プレイバック、とワタシはヤマグチモモエ(少し古いなー)ふうにカッコつける。
 おふざけはそのぐらいにして、ワタシはあの三日前の、飼い主の侘(わ)び状が気になっている。三つ目の、ワタシを置いて北海道に行ってしまうという点だ。これだけは何とかしてほしい。
 ワタシたちネコに必要なものは、十分なエサ、安心して休めるところ(冬場は寒くなく暖かいこと)、そしてそれらの保障となる、飼い主がいること。その飼い主が、時々体をなでてくれて、遊び相手になってくれれば、さらにいい。
 ワタシたちは、なにも人間たちのように、一本何万円もするお酒を飲んだり、一度で何万円もする食事をしたり、ブランドものの洋服やバッグをいつも買い換えたり、何百万円もするクルマに乗ったりはしない。腹を満たす食べ物があるだけでいいし、着たきりすずめの、親からもらったたった一枚のオーバーオールの毛皮を、毛づくろいしながら大切に使っている。歩く、走る、ジャンプする、よじ登る、すべて自分の手足だけで十分だ。
 しかし、飼い主にはいつもいてほしい。ノラネコになるのは、それはそれはツライことなのだ。ワタシの飼い主が、数ヶ月もの間いなくなること、それはワタシが半ノラになることで、いつも試練の時になるのだ。
 世の中の人間たちは、ワタシたちの権利が憲法でちゃんと保障されていることを、知っていてほしい。
 猫国憲法、第三章第十三条 「すべての猫は、それぞれ一匹の個猫として尊重される。その生命、自由及び幸福の追求に対する猫の権利については、人間と共にある公共の福祉に反しない限り、最大の尊重を必要とする。」
 つまり、人間はネコたちの面倒をしっかり見て、可愛がりなさいということ・・・「ゴロゴロニャーオ」、あっ、マイケルが来た。話はまたあとで・・・。