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ヴァージニア・ウルフ「燈台へ」

2005-03-13 13:36:26 | 読書
 キャッチフレーズによれば、「哲学教授夫妻とその子供たちが過ごす夏の休暇、燈台に行く話しが出るが結局行くことが出来ない。スコットランドの島を舞台に、別荘での一日を、それぞれの登場人物の意識を通して語られる内面のドラマ、ウルフの代表作であり、20世紀文学の傑作」とある。

 ウルフの作品を読むのはこれで二冊目になる。一冊目が「ダロウェイ夫人」で、映画「めぐり合う時間たち」を通じてウルフに、それこそめぐり合ったといえる。本を読み終わったとき、疲労に包まれた。やっと終わったというのが率直なところ。ウルフの文体はハッとするような言い回しがあるかと思えば、私の理解を超える表現で右往左往させられる。

 “黄色の眼を猫のように半びらきにして、日光浴をしているカーマイクル氏に何かご入用のものは?とたずねるために散歩を中断しなければならなかった。彼の猫の眼はそよぐ枝、流れる雲を映しながら、心中の思い、感情を毛ほどもあらわしはしなかった”

 “月の傍に眠る空の一廓、去りがたくさまよっていた雲がはれてあらわれた空の一廓のように、晴れ晴れとしていました”

 “その言葉はまるで泉の中に落ちてゆくように思え、その水は澄んでいるのだけれど、また無闇とねじれ、ゆがんでいた。言葉は降りてゆく間にも、ひどくゆがめられて、その子供の心という底に落ち着く時には、どんな模様をつくり出すか見当もつかなかった”

 “それでもし機会があれば、人々の首筋をとって、ようく見せてあげたいと思います。島中に全然病院がないなんて、ほんとに恥じですわ。ロンドンの家庭に配達されるミルクは、文字通り、ほこりで褐色になってますわ。法律で禁止すべきです”

 “風が吹いていた。それで、楡(にれ)の葉は時々ゆれて星をこすり、姿をあらわにさせた。星たちも楡の葉ずえの間にふるえ、光を投げ、葉末から流れ出ようとしているようであった”

 “春は来たが、まだ突き上げる葉一つない、全くむき出しのすがすがしさ、まるで処女のように、きびしいほどに純潔で、その清浄さの故に冷たくもある。その春は草原にくりひろげられ、驚いて眼を大きく見開き、用心深い姿勢であるが、みる人のなすこと考えることには全く無関心である”これらはほんの一部で、全編こんな感じで埋め尽くされている。

 気になる点が一つある。「ダロウェイ夫人」に中に、確か“一瞬が過ぎればもうそれは過去の時間”という記述やこの本でも晩餐が終わり、みんな部屋を出ていったあと、主人公が“最後の一瞥を肩越しに投げ。それがすでに過去になったことを知った”という記述である。
 
 人生は瞬間を生きその瞬間が時を刻み、過ぎ去ればすでに時は過去の陰に隠れている。まるで、歩む足元の背後が崩れるような恐怖と残る時間が絶望なのか諦めなのか判然としないまま、空ろな眼差しを虚空に投げかける様が見えるように思えてならない。1927年ウルフ45歳の作品で、1941年ウルフがうつ病で入水するが、その影響が早くも出ていたのだろうか。しかし、年を重ねた者から見れば軽重の差はあれ、誰しも抱く感情のように思われるが。私も旅の写真を見て、すでに過去の出来事になった事実が、なぜか寂しさが忍び寄ってくるのを感じる。
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